2021年7月12日月曜日

ビデオゲームが「高尚」とはならない理由。

 散歩の途中でふと頭をよぎったので考えてみました。

ゲーム業界の方とかが「ゲームはまだまだ映画や小説などと比べて低俗に見られる」などと不満を発しているのを聞いたことがあります。

私はPS4でゲームをよくしているのですが、近年のビデオゲームの進化は著しく、映画や小説なみかそれ以上に心に刺さるストーリーや演出などを体験することも少なくありません。

それでもやはり「高尚」とは感じないのです。

これは一体何故なのでしょうか?


自分なりにたどり着いたのは主に以下の3つ。

1.本能に訴えかける商業的要素が強い。

2.受動ではなく能動、或いは主体性を重視している。

3.環境(テクノロジーなど)の影響を強く受けすぎている。


まず1.本能に訴えかける商業的要素が強い。ですが、

商業的であればあるほど販売対象は広く大きくなり(所謂一般化)、そうなると「爽快感」「征服感」などの割と本能に近い部分を刺激する必要が出てきます。

絵画やクラシック音楽などの観賞でもこのような感覚を覚えることは無くはないのですが、それよりも理性の方に訴えかける割合が高いように思います。

同じ裸でも名画とグラビア写真の違いのように、訴えかける対象の違いがあるのではないでしょうか?

中世の絵画や音楽が特定のパトロンや展覧会などをターゲットにしていれば良かった(商業的にも成立していた)のに比べ、現代社会では一般大衆へとその範囲を広げなければならなくなったという時代背景も大きいと思います。


2.受動ではなく能動、或いは主体性を重視している。

受動的よりも能動的な方が一見「自由度」が高いように思いますが、見方を変えれば逆転するような気がします。

ゲームは自分が主体となって進めているように見えて、実は製作者の決めたレールの上を進まされています。自分が主人公ですが神様は製作者なのです。近年オープンワールドや多数の分岐で複数のエンディングなどを謳うゲームもありますが、やはりレールは決められており、主人公といえどそこから外れることは許されません。

ところが絵画やクラシック音楽などは、一度製作者の手を離れればあとの解釈は自分の主観次第で自由に料理できるのです。

つまり製作者は神にはなれず、一見受け取るだけの鑑賞者が神となれるのです。

小説や映画なども逆に主体性が無いがゆえに解釈の余地を広くとれているのではないでしょうか?


3.環境(テクノロジーなど)の影響を強く受けすぎている。

数百年前の絵画や音楽、或いは数十年前の小説や映画などの名作は現代においてもその地位は揺らぎません。

ところが40年前のビデオゲームに(コレクターという趣味以外)で大枚をはたいてプレイしようという方はほぼいないでしょう。(たとえ名作だとしても)

これはやはり「テクノロジーの進化」の影響が大きいと思います。

テクノロジーの進化により、当時のグラフィックやシステムが余りにも稚拙に感じるのです。

つまりビデオゲームは環境への強い依存によって、評価される期間が余りにも短いのです。

このライフサイクルでは「高尚」になるまでの積み上げが起こりにくく、その結果ビデオゲームはただの消費文化で終わってしまいます。

テクノロジーなどの環境依存を極限まで下げないと「高尚」への階段を登るのは難しいでしょう。


うーん、難しい……


で結局何が言いたいのかと言うと、

私はそもそもビデオゲームに高尚さなどを求めていません。

そして、業界の方々の忸怩たる思いも理解できますが、あまりそこにこだわりすぎないように頑張ってほしい。

この2点です。


近年、まるで映画のようなムービーを多用して「これでもか!これでもか!」と演出を押し付けてくるゲームが増えているような気がするのですが、なんだかゲームが勝手にゲームをしているような、自分だけ置いていかれているような気がして白けてしまう事があります。

「この30分コントローラー全く操作してないよっ!」


「高尚」よりも楽しけりゃいいよね、ゲームなんだから。

今度ドラクエ11でもやってみよう。


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