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2021年12月14日火曜日

『三四郎(一)』夏目漱石を読んで-人の思いは変わるものである?

 昔一度読んだことは有るのですが、今回夏目漱石の『三四郎』を改めて”朗読”という形で読み直す機会を得ました。

第一話は、晴れて熊本の高校を卒業した三四郎が、大学生活に不安と期待に胸を膨らませながら汽車で上京するシーンから始まります。

三四郎は汽車の中でまず最初の洗礼を受けます。様々な人生を生きる様々な人の姿を目にするのです。

それは、三四郎が生まれて初めて抱く未知の世界に対する瑞々しい心象風景として描かれます。

その人々の中に、ある学者風の男がいました。

その男は羨望と諦めの眼差しで西洋人を評し、同時に日本を冷笑するかのような言葉を三四郎に投げかけます。

日露戦争直後のことでもあり、三四郎は多くの日本人と同様に自国に対する誇りと明るい将来への漠然とした希望を抱いていました。と同時に、彼もまた(その男とは趣が少し異なってはいましたが)西洋人に対する諦めに似た羨望を抱いていました。

このシーンにおいて、私は三四郎とこの男との関係が、恐らく漱石自身の若いころと現在とを反映したものなのだろうと感じずにはいられませんでした。

以前読んだ時には全くそんなことは感じませんでした。

同じ物語でも、読者のその時の立ち位置によって、感じ方や見え方はこうも変わるものかと不思議に感じました。


人が望郷の念を感じるのには理由があると、何かの本で読みました。

それはただ故郷を懐かしんでいるのではなく、当時の自分を懐かしんでいるのだという事です。幸福で希望に溢れ、元気はつらつとした(と想定する)当時の自分に郷愁を感じているのだと。

例えば音楽でも同様の事が起こります。

若くがむしゃらだった暑い夏に聞いた曲、別れ話をしていた寒い冬に車内で流れていた曲、いずれも今聴くと当時の感情が鮮やかに蘇ってきます。

或いは匂いでも同様です。

線香の香りや釜を焚く炭の匂いなどは、幼いころ祖父母の田舎で無邪気に遊んでいたときの情景が目に浮かんできます。それらの匂いを人は安心感や幸福感などの感情と結び付けて記憶しているのです。


こう考えると三四郎を書いた時の漱石も、やはり当時の感情を汽車の石炭の匂いや、水蜜桃の味や、汽笛の音などで感覚的に思い出していたのではないでしょうか?

文章だけで味覚や聴覚や嗅覚などを、ましてやその時に想起される個人的な感情などを作者と共有するのはまず不可能だと思いますが、それらを自分の記憶に照らし合わせて推測してみると、また違った味わいが出てくると思います。

そういう意味において同じ本を期間をあけて再読するという行為は、その間の人生経験の分だけ、より深く更に鮮やかな感情を読者にもたらせてくれるのだと思います。

そして、それが後世に残る名著の所以だと思いました。


それでは!

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2021年12月10日金曜日

『歯車』芥川龍之介を読んで-彼はなぜ狂ったのか?

 『歯車』芥川龍之介を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。

まあ、ずいぶん時は経ってしまっているのですが……


この小説は芥川自身を主人公としたもので、当時の彼がいかに悩み苦しんでいたかがその内容から窺い知ることが出来るものです。

彼の視界には時々半透明の歯車が現れ、それがぐるぐると回りだし、やがて激しい頭痛を伴う発作へと彼を誘います。

これ、もう完全に強度のストレスによる鬱や統合失調症の症状ではないでしょうか?

かなり苦しかったと思います。

なにしろ最後には「もうこれ以上書けない。誰か絞め殺してくれ」で括っていますから。


原因は様々だと思いますが、私はその内の一つに「自尊心の肥大」があるように思いました。

自尊心にも色々ありますが、ここで言う自尊心とは、つまりこういう事です。


今、私はガムを噛んでいる。

でも味がしなくなったので口から出したい。

どこに捨てようか?

周りには誰も居ない。

しれっとここに吐き捨ててしまおうか?

でも罪悪感が……

でも、まあいいかこのくらい。今回だけ良いような気がする。


というささやかな心の葛藤の後で、思い切って道端にガムを吐き捨てます。

悪いことと分かっていながら、罪悪感を少しでも緩和する為に様々な自己弁護を展開して実行するのです。

ところが、もし他人が同じような行動をとるのを目撃した場合、どう感じるでしょうか?

恐らくこう思うのではないでしょうか。

「最悪な奴だ、常識を持ち合わせていないのか?信じられない」


何が言いたいかと言うと「人間は自分だけを特別扱いにする、いや、”出来る”生き物だ」ということです。

つまりこれが「自らを尊ぶ心」という自尊心の一要素だと思います。

これはある意味での自我であり、それは他人と自分とを明確に区別できるという能力でもあります。

人類が群れの中で協調して生きるためには高度なコミュニケーション能力が要求されます。

そのコミュニケーションという行動を成立させるためには、自分と他人の区別がつき、他人が何を考えているのか想像できなくてはなりません。

それは共感力と呼ばれます。

喜びも悲しみも苦しみも、その人の身になって想像し、その感覚を自分のものとして追体験することが出来る能力です。

さて、この人間特有の能力によって人類にもたらされたのはもちろん良い事ばかりではありません。

(一概には言えませんが)悪いことの一つに「嘘」があります。

人は(ある状況下において)平気で嘘をつけるようになったのです。

たとえばおべっかやお世辞、或いは人を鼓舞する為に褒めたり、或いは貶したり。

これは共感の能力が無ければ成立しません。他人が何を考えているか想像できるからこそ嘘がつけるのです。

実際、自閉症の人は嘘がつけないと言われています。

意味が無いと思っているからです。

彼らは、自分の考えている事は全て他人も知っていると思っているのです。

これは自分と他人との境界が限りなく薄くなっている、言い換えると自我が希薄な状態であると言えます。

皮肉なことですが、自他との境を捨て、嘘をつかずに生きるというのは、まるで解脱した聖人を表しているようにも思えます。


人間の生みだした映画や小説や芸術などの文化は、全てそれが嘘であると理解していながら、あたかも現実の体験としてそれを受け取る事ができるこの共感力なくしては成立しないものだと思います。

悪く言うと、作り手も受け手も全てが嘘つきの俗人だということです。

ネアンデルタール人は脳の量量が我々ホモサピエンスと同等だったにもかかわらず、文化的進化の遅れによって滅びました。

彼らは嘘のつけない、そして共感力の乏しい聖人でした。


芥川の話に戻すと、彼は極度に強い”自尊心”と”共感力”の持ち主のように思えます。

そしてそれ故、社会が自分に対して正当な評価を下していないという妄想を抱いていたように思います。


芥川の他の作品(例えば「闇中問答」)でもありましたが、彼は自分の受ける報酬や名声にかなりの失望を感じていたようです。

また本作では、彼は周囲が自分の事を「先生」と呼ぶのに酷い嫌悪感を抱いています。彼らは自分を「先生」とへりくだって呼びながら、内心では自分の事を嘲り、馬鹿にしていると感じています。更に自分の義兄も常に自分を卑下していたと感じています。


これらはいずれも高すぎる彼の自尊心と共感力が、その想像を誤った領域にまで立ち入らせた結果のように思えます。

恐らく彼は、

「人間は嘘をつくことが出来る」ではなく、

「人間は嘘しかつかない」

と思うようになってしまったのではないでしょうか?

そしてその人間の中に自分自身も含んでいるのですから、これはたまらないでしょう。

いつの間にか、彼はその強すぎる自尊心のために自分で自分を卑下するようになりました。


自尊心でも共感力でも何でもそうですが、強すぎても弱すぎてもダメです。

その反動は必ず顕れます。

しかし、その結果としてこの大作家なのかもしれません。


彼は暗闇の中で猜疑心にまみれて苦しみました。

とにかく、辛かったでしょう。


この作品を読んでそう感じました。


それでは!

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2021年9月5日日曜日

「山月記」を読んで - 彼はなぜ虎になったのか?

 「山月記」中島敦を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。


まずは大ざっぱにあらすじから。


幼少時から俊英として名を鳴らした李徴は、賤しい官吏の下で働くことに嫌悪を感じ、詩で名を成そうと思ったが、上手くいかなかった。

生活のため結局彼は下級官吏に職を求めることになるのだが、ある日、職務中に忽然と姿を消してしまった。

彼の旧友である袁餐が、職務の途中に虎が出没するという噂の道を通りかかった。すると草むらから突然咆哮が聞こえた。

袁餐はそれが李徴だということに気付き、二人はこれまでことを語り合った。

李徴は自分が虎になった理由を「自分の自尊心が傷つくことを恐れる羞恥心ゆえ」と語り、自分の詩と残した妻子を袁餐に託し、再び草むらの中に姿を消した。


と、まあこんな感じです。


李徴は人間だったころ、他の人と交流したり、詩の師匠に師事したりすることを避けてきたのですが、それはただ尊大で他人を見下していたというよりは、高すぎる自尊心のあまり自分に対する批判や否定に対する羞恥心、つまり自分が傷つくことが怖かったからという事です。

私はこの物語を読んで、なにか物足りないと思いました。

なぜ李徴は死について全く言及しないのか?

なぜ自殺、或いは友に自分を殺してくれと泣きつくような場面が無いのか?と思いました。


私は自尊心というものは決して傷つかないものだと思っています。まして羞恥心など伴うはずはありません。

私は李徴の言う自尊心とは、「虚栄心」のことだと思います。

自尊心と虚栄心の違いを簡単に説明すると、

その発現に第三者が絡んでいるかどうかです。

あるいは生理学的に言うと、それが(海馬や偏桃体など)本能に近いものなのか?それとも(大脳新皮質など)理性によるものなのか?ということです。

例えば、

1.「頭や歯が痛い、何を置いてもまず何とかしないと」これは自尊心です。

2.「お腹がすいて死にそう、何を置いてもまず何か食べないと」これも自尊心です。

3.「発表会でいいとこを見せないと」これは虚栄心です。

4.「私の考えをアピールしたい」これも虚栄心です。


人間は太古の昔から集団で生活する動物です。

集団に属するためには、いかに自分が役立つ人間かということをアピールしなければなりません。周囲に認めてもらえなければ居場所は与えられないのです。

恐らく虚栄心はこの集団行動によって生まれたのではないでしょうか?

人は誰でも他人に自分の力量を突きつけられることに恐れを抱きます。

自分可愛さに自分の能力(容姿なども)を過大評価するものです。

属する社会或いはグループで不必要の烙印を押されることは、そのまま死に直結するのですから、3.や4.などのいわゆる第三者に向けられる虚栄心とか承認欲求などは特に人間に強く発現する感情なのだと思います。


これとは異なり、1.や2.は人の関与に左右されません。

まさに意図せず自分が自分を守る(尊ぶ)感情、というか行動です。

ゆえに自尊心は(うつなどの病気以外は)傷つかないのです。


……と私は思っています。


その虚栄心の強さゆえ詩に逃げた李徴は、そこでも不必要の烙印を押され社会から抹殺されました。

つまり、社会動物である人間として死んだのです。

そして虎になりました。


なぜ虎になったかって?

虎は一人でも生きていける動物だからです。

結局、李徴は救われたのです。


ここまで考えて、ようやく私は最初の疑問の答えを見つける事が出来ました。

これは人間の(社会的)死についての物語であり、そして救われる方法は虎になるしかない(つまり現実には処方無し)ということを。


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2021年9月1日水曜日

「蜘蛛の糸」芥川龍之介、を読んで思う - 糸が切れた理由とは!

「 蜘蛛の糸」を朗読する機会があったので、改めてこの名作について考えてみました。

まずあらすじを要約すると、


ある朝、お釈迦さまは蓮池の下の地獄で苦しむ極悪人カンダタに目を留めました。

お釈迦さまは彼に地獄を抜けるチャンスを与えようと思いました。

何故なら彼は、生前に一度だけ”蜘蛛を踏み殺そうとしたのを思い留まった”という善行?を為していたからです。

はるか上空から降りてくる蜘蛛の糸を見たカンダタは、さっそくそれに掴まって登りはじめました。しかし、同時に大勢の罪人が下に続いてくる光景と、掴まっている糸の心許なさから、カンダタは「これは俺のだ!降りろ」と叫びました。

その刹那、握っていた糸はぷつりと切れ、カンダタは元の地獄へ堕ちていきました。


という感じです。


一見「エゴはダメだよ!」という教訓として受け取られることの多い作品です。

しかし私は本作にそれだけではない何かを常々感じていました。


例えば、

「もしカンダタがあのセリフを吐かなかったら、本当に糸を登って地獄から抜けられたのか?更に、その場合一緒に登ってきた罪人たちはどうなるのか?みんなハッピー、天国にGo!となるのか?」

或いは、

「ここで登場するお釈迦さまは本当にお釈迦さまだったのか?そんな気まぐれに地獄から罪人を救ったりするだろうか?」

など、実に様々な妄想、空想が膨らみます。


本来仏教は因果応報、犯した罪は償わなくてはならず、善行によって減免されたりはしません。

日本仏教のとある宗派のように「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで救われます!とは決してならないのです。

言霊による救済とは、「真言」つまり密教由来のこと。

あくまでも布教目的を主とした販促手法です。

(まあ、これによって実際(精神的に)救われる人もいますし、なにより現在まで宗教として生き残っている訳ですから否定はしませんが)


実は芥川の「蜘蛛の糸」には元ネタがあります。

19世紀ヨーロッパのポール・ケイラスという宗教哲学家が書いた仏教説話「Karma」の中の一節で「The Spider-web」というお話しです。

芥川版と話の筋に大した違いはありませんが、私には根本的に異なる部分があるように思えました。


それは「糸が切れた理由」です。


芥川版では、カンダタの罪人達に対するエゴイズム「これは俺のだ!降りろ」が決め手になったように読めますが、元ネタの方では「掴まっている糸の心許なさ」を感じた事が決め手になっているように思えるのです。


つまり、カンダタは「あのお釈迦さまが降ろした糸」に不信を抱いたのです。

宗教の本質である「無条件の信仰こそが救済への道」であることに従えなかったのです。

私は、こちらの解釈の方がより仏教という宗教の本質に近いような気がします。

ゆえに芥川版のほうは、宗教説話を童話的に書き起こした分、宗教味が薄れています。

まあ、それ故に教科書にも載るような道徳的名作になっている訳なのですが……。


こう考えると、本作を読んで私が抱いた様々な妄想、空想も、何となく収束してくるような気がします。(しかしその分、物語、小説としての魅力は半減してしまいます)

考察の余地をあまり与えてくれない元ネタと考察し放題の芥川版。

ほぼ同じ内容にもかかわらずこれだけの差を生む不思議。


芥川龍之介が敢えてその最も宗教臭い部分を廃したのかどうかは知りませんが、とにかく彼の小説家としての感性には驚かされるばかりです。


それではっ!

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2021年8月9日月曜日

オリンピック終焉、そして「杜子春」を読む。

 オリンピック閉会式も終焉を迎えた頃、私はどことなく落ち着かない何か寂しさのようなものを感じていました。なんだか、これまで一喜一憂しつつ浸っていた一つの壮大な物語に「はい、おしまい」と言われているような、或いは楽しかった夏祭りの帰り道「あぁ、また来年かぁ」とちょっぴり憂鬱な気分になるように。


でもこの状況下でよく開催できたと思います(いい意味で)。

おそらく日本以外では無理だったのではないでしょうか?

一晩明けて今思うのは、大変な苦労と緊張を強いられていたであろう運営の方々への感謝。

本当にお疲れさまでした。

そして参加した選手の皆さん。

無観客という状況でも、金メダル27個!は世界3位、そして総メダル数58個は史上最多だということ、おめでとうございます。

つまり、裏方も演者も素晴らしかった!そしてその努力の結果を、世界にアピールできたということです。


思えば開会直後に始まった柔道で、私は一気に引き込まれました。

もう誰が出ても負ける気がしない、そんな雰囲気が日本中に漂っていました。

暗い暗いコロナの渦中において、なんだか一筋の強くて真っすぐな光明が日本を照らしているような気がしました。

病は気から、そして景気も気からです。

この気の力を保って頑張っていきましょう。


閉会式を観終えたあと、私はそそくさとマイクに向かい合いました。

「杜子春」芥川龍之介

を録音する為です。

これまで何度か録ろうと思ったことはあったのですが、読んでいるとどうしても涙で声がかすれてしまって。

でも今なら出来る、そう思ったのです。……ちなみに根拠はありません。

ところが、やっぱり涙で読めませんでした。

録り終わるのに随分時間がかかってしまいました。


あらすじとしては、

仙人に大富豪にしてもらった杜子春は、その浪費癖のせいですぐにもとの一文無しになってしまいます。

「再び金塊を授けてやろうか?」

三度目の仙人の申し出を杜子春は断り、かわりに仙人の弟子になりたいと申し出ます。

自分の財力によって態度をコロコロ変える人間の浅ましさが嫌になったのです。

仙人は快く引き受けますが、杜子春に一つの試練を課しました。

「何があっても絶対にしゃべってはならない」

仙人が去った後、杜子春には様々な困難が待ち受けていました。


本作は中国の古典を元に、芥川龍之介が童話風短編に書き直したもので、儒教でいう所の「忠孝」の概念がつよく表れているように思えます。

涙無くしては読めない名作です。

未読の方は青空文庫で読めますので一読をお奨めします。

それではっ!


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2021年8月8日日曜日

野生の体を取り戻す!「あるA子の日常」

 丸の内のオフィスで日々の激務に励むOLのA子。

「あーー○○ムカつく!ホントにムカつく!マジムカつく。うぅぅぅもう辞めたいぃぃ」

今日もくたくたになって独り暮らしのマンションに帰宅し、熱いシャワーを浴びて冷たいビール片手にソファにどっかと腰を下ろす。そしてTVでお気に入りの芸人を観て一笑い。ふと窓際で育てている観葉植物に目をやりながら、

「あぁ、やっと明日はお休み。この解放感。やっぱり家が最高!いやされるー」

A子は疲れた体をソファによこたえ、やがてうとうとと眠りに落ちていくのだった。


と、いきなり三文小説風に始まりましたが、現在読書中(遅々として進まない)の「GoWild」でまた思う所があったので今回も思いのたけを綴りたいと思います。

帰宅して一見ストレスから解放されているように見えるA子ですが、本当にそうなのでしょうか?

まあ全く「されていない」ことはないとは思いますが、これはある種のトリックで、もしかすると「激務」との対比効果でそう感じているだけかもしれません。

以前にも紹介しましたが、「人は20万年前から基本的にはそう変わっていない」ということ。

それを加味するとこのシチュエーションで人はどの程度癒しを享受できているのでしょうか?


はるか昔人間は、老若男女の集団でたき火を囲み、そこで周囲の捕食動物の存在に気を遣いながら今日の出来事をそれぞれに語り、火の番を交代しつつ眠りについていました。

はぜ続けるたき火の音や見知った人の囁き声を子守唄に、そして周囲の自然環境をゆりかごにして安心を得ていたのです。

人にとってそれらの音が心地よく感じるのは現代においても変わらず、某YoutTubeでは「癒し」や「睡眠」などを促す動画として1つのジャンルを築いているほどです。

ではなぜそれらが心地よく人に癒しをもたらすのかというと、それはひとえに「今自分は捕食動物から守られている」という安心感からです。

燃え続ける火、信頼できる人々の穏やかな様、いつもと変わらない風の音や虫の声、これらは全て「今自分は安全な状況にいる」ということを示してくれるものなのです。

なので現代において、気の置けない仲間と一緒にキャンプをするというのも、このような状況を懐かしんでの疑似体験なのかな?と思います。

エステやマッサージなども同様ではないでしょうか。

(雰囲気のある)安全な場所で(信用すると仮定した)人にされている「ある種の守られている感」が癒しの根源だと思います。


こう考えると、A子は観葉植物やTV、そしてコンクリートの密閉空間によって「自然や集団に属し、危険から守られている感」を現代風に演出しようとしています。それも全て無意識のうちに。

人の生活様式はすっかり変わってしまっても、やっぱり「怖れ」や「安心」の本能的な部分はまだまだ「大昔のまま」のようです。


A子は昼の激務で大変なストレスを受けているようです。人間関係や業務関係、その他さまざまな要因があるのでしょう。

ヒヒを対象にしたあるストレス実験が行われました。

動物にとって大きなストレッサ―(ストレスを与えるもの)とは何か?

当然、前述したように捕食動物に対する恐怖や危機感だと思いますが、結果は違っていました。

ヒヒは集団のリーダーから受ける様々な威嚇や恫喝などの嫌がらせに対し、最も高いストレス数値を示したのです。

実に不思議で面白い結果ですね。

集団行動をする人間などの社会性動物にとって「やられる!食べられる!」という命の危険よりも、身内の長の振る舞いの方にストレスを感じるというのです。

はたして、A子は昼に受けるストレスと夜に受ける疑似的な癒しのバランスはとれているのでしょうか?

大丈夫かA子!負けるなA子!

現代社会において昼のストレスは増える一方で、夜の癒しは減っていくばかり、今後のA子が心配です。


このような状況を鑑み、世界のリーダー的な企業、例えばGoogleとかAppleとかでは様々(昼寝や就業中の運動が自由だとか)な試みがなされているようです。

まあこれもこのほうが利益を上げられる(業務効率↑)と判断した結果であって、必ずしも人道的側面を最優先にした訳ではありません。その方が結果的に儲かる(イメージ効果含め)からです。

なので個人は個人で色々考えないとダメです。

世の中はまず効率最優先で変化します。(コアラのDNAと同じですね)

どうしても目に見えにくい心的或いは本能的要素は後回し。

待っているだけでは多くの犠牲者のうちの一人になる事は請け合いです。

現代人も一皮むけば20万年前の原始人と同じ。金髪碧眼が出てきたのがようやく1万年前。人類はまだこの程度の変化しかしていないのです。

自分の心に耳を傾け(なぜこれが好きなのか?嫌いなのか?楽なのか?辛いのか?)、色々考えてみましょう。


それでは!


ちなみに今回の参考文献は今読書中の

「GO WILD 野生の体を取り戻せ!」

 ジョンJ.レイティ (著), リチャード・マニング (著)

です。

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2021年8月6日金曜日

野生の体を取り戻す!「コアラとホヤの共通点、そして人生とは」

 今日も暑苦しい京都、皆さんいかがお過ごしですか?

私はというと、さっき昨日の残りのドラゴンフルーツを食べて、名前とは裏腹なそのパンチの無い味にある種の戦慄さえ覚えている所です。

そう言えば現在読書中(遅々として進まない)の「GoWild」に、また興味深い情報が載っていたのでドラゴンフルーツの口直しにでもここで紹介したいと思います。


みんなのアイドルにしてユーカリの王コアラ。

ずんぐりむっくりしていて可愛いですね。人気がでるのも理解できます。

いつからユーカリを住処兼食料としていたのかは知りませんが、ご存知の通りとにかく彼らはユーカリ無しには生きていけません。まさにユーカリに特化し最適化された生き物なのです。

なにしろユーカリにしがみついている限り、外敵からの脅威は減りますし、食べるものに苦労することはありません。まさにパラダイス、理想郷です。

そんな如何にも幸福そうなコアラですが、実はかれらの頭蓋骨の中身はスカスカだそうです。なぜなら脳みそが恐ろしく小さく退化しているからです。

なのでいずれ脳のサイズに合わせて頭も小さくなるでしょう。

8頭身のコアラ、どう考えても可愛いとは思えません。


「コアラ……頭が良さそうには見えなかったが、まさかスカスカだったとは」


彼らの脳がなぜ小さくなったか?

それはユーカリを見つけて、そこから必要十分な栄養を摂取できるようになったからだという事です。もはや餌を探して採る必要がなくなったので、「考える必要」或いは「考える事自体」が無くなってしまったのです。

同じことが海生生物、食べても美味しい「ホヤ」でも起きています。

彼らは生まれてすぐ栄養価の高い海域を探して泳ぎます。

そして生息に適した場所を見つけると、真っ先に行うのが自分の脳を食べる事だといいます。

何故なら、コアラ同様もう必要ないからです。

無駄にエネルギーだけ食う非効率な部分は、問答無用で切り捨てるのが生き残るためのルールです。


「そうですっ!我々の頭と体だって日々隙あらば効率化に勤しんでいるんですよ。

 あー恐ろしい」


DNAは「将来」や「未来」などという概念を持ち合わせておらず、ただ今に順応するために変化するようです。3か月後の引き締まった体を夢見て辛い筋トレをお金まで出してするのは人間だけで、それは人間が未来という概念を持っているからなのでしょう。


こう考えると、一見コアラもホヤも「幸福な人生」を送っているようには見えませんが、そもそも幸福な人生とはなんでしょうか?

もし我々より高次の生き物、例えば「神」がいるならば、コアラと人間、いったいどちらが幸福な人生を送っていますか?の問いに恐らくこう答えるのではないでしょうか?


「どっちでもええ。そもそも興味ない!」


これは、我々が「ダンゴムシとミノムシ、どちらが幸福か?」という問いに対する答えと同じです。


サマセット・モームは人生についてこう言いました。

「人生に意味など無い。それはただペルシャ絨毯の意匠である」

と。


ペルシャ絨毯はそれを編む人によって一針一針様々な意匠が織り込まれます。

毎日少しずつ少しずつ。

そして気が付くと、複雑で唯一の絨毯に織りあがっています。

織りあがった模様には何の意味も無いのですが、どれだけ複雑な意匠を織り込めたかでその絨毯の価値が決まります。

それでもシルクやウールで織られているので、いずれ風化してこの世から消えていくのですが。


人の人生もそんなもんで、人それぞれに全く別の、実に複雑な絨毯が織りあがります。

そして、織り終わった後は人々の記憶から消えていくだけです。


恐らくコアラやホヤには出来ないであろう人生を織る作業。

どうせなら思いっきり複雑な模様に織りあげたいものです。

それでは。


ちなみに今回の参考文献は今読書中の

「GO WILD 野生の体を取り戻せ!」

 ジョンJ.レイティ (著), リチャード・マニング (著)

です。

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2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...