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2022年1月1日土曜日

2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。

つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。

コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。

恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。

時計を見ると0時2分前。

しばし小雨まじりの雪を肩に受けながら、私も列の最後尾につきました。

そして、ちょうど0時。

最前列から初詣の参拝が始まりました。

何か足りないなと思っていたら、参拝の時に鳴らす鈴が無いではありませんか!

何か事情があるのでしょうか?

もしかして直接手に触れるということから、省略されてしまったのでは!

鈴を鳴らさずに神様はちゃんと起きて来てくれるのでしょうか。

寒い中(5分ですが)歩いてきたのに心配です。

私はとりあえず鈴が無い分若干柏手を強めに打って、参拝を終えました。

そしてそのままおみくじ売り場へ。

ここもおそらく直接手を触れないようにという配慮からでしょうか、ジャラジャラ言わせて落とす番号札ではなく、自分で直接くじをとる方式に変更されていました。

肝心のみくじの結果は「う~ん」でした。

「道に迷って正道に出るように、君も自らの過ちを悔い改め、神仏を信じていればきっと救われるでしょう」と、まるで私が過ちだらけのうえ神も仏も信じていないような人間のようです。言っておきますが、私は神も仏も場合によっては信じるすこぶる日本人らしい日本人です。

しかしやはり神のお言葉、”道に迷って彷徨い歩くうちに正道にたどり着く”というのは、まさに人生そのものだなと少し感慨深く感じました。

さらに神社なのに「神仏」ときちんと仏のことも書いてあるのは、神仏習合、本地垂迹説という独特な宗教観念を持つ日本らしくていいなと思いました。(「悔い改め」というところはどこかキリスト教みたいですし)


私はその有り難いみくじを精読し、境内のたき火でしばし心を浄化しました。

燃え盛る炎と、そのはぜる音に目と耳を集中させていると、突然見知らぬおばさんがデパートの紙袋を投げ入れました。

「え!このたき火、そういうものなのか?」

私は、境内のたき火をまるでごみ焼却炉のように扱ったそのおばさんに、新年早々なんとも例えようのない感情を抱きました。

「さて、とっとと帰ろう。寒いし。濡れるし」

参道へ歩を進めながら、私は再びもの足りなさを感じました。

私はこの神社の初詣で毎年行う3つの恒例行事があります。

2つはもちろん参拝とおみくじ、そして3つ目はぜんざいとお神酒を頂くことです。

なんと今年はぜんざいとお神酒がありませんでした。(去年はありました)

おそらくこれもコロナのせいでしょう。


鈴の無い参拝とジャラジャラの無いおみくじ、そしてお神酒とぜんざいも無くなりました。

全てコロナのせいです。

ルールにしろ行事にしろ一度無くしたものを復活させるのはなかなか難しいものです。

もしかしたら鈴もジャラジャラもお神酒もぜんざいも、コロナが終息しても二度と復活しないのでは!

そんな危惧を抱きながら帰路についた私です。


2022年、大丈夫でしょうか?

というか私は大丈夫でしょうか?

先が思いやられますが、コロナに負けず、とにかく今年も頑張って生きようと思います。


それでは!

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2021年11月27日土曜日

雨宿り。

 木枯らしの吹く朝だった。

天気予報を見ると、京都は「晴れ時々曇り」だった。

しかし、空は今にも降って来そうな雲行きだった。

「どうしようか?でも雨は0%だし」

私は借りていた本を返すために、散歩ついでに近所の図書館へと向かった。

近所と言っても徒歩で約20分ほどあるので割と面倒くさい。

ついでに、その本はあまり面白くなかった。

外国の医学系の本だったのだが、悪影響の事ばかり語っていて、肝心な根拠についての説明が希薄なので「あぁ、そうですか……」と、次第にページを繰る指の動きが速くなっていくような、そんな感じの本である。

なので、返却に向かう私の気持ちも、この空模様と同様に曇っていた。


約10分ほど歩いたところで、ポツリポツリと空から雨が落ちてきた。

「やばい、こんな中間地点で」

あっという間に土砂降りになった。

「おい天気予報!何を根拠に0%と断言したんだ」

純真な心で天気予報を信じた私は、もちろん傘などは持ち合わせていなかった。

私は目に入ったガレージの軒先にとりあえず非難した。

すぐに犬を連れたおじいさんが同じ場所に入ってきた。

空を見上げると、遠くの方は明るかった。

「おそらく通り雨だろう。しばらくここで雨宿りしよう」

狭い路地の向こうにある理髪店で仕事中のお婆さんが、急に降りだした雨か、或いは雨宿りをしている我々か、恐らくその両方だろうと思うのだが、散髪の手を休めてしきりにこちらの様子を窺っていた。

それから約5分ほど経っただろうか。

やや小降りになったのを見計らって、おじいさんは犬を(強引に)連れて、軒下を出ていった。

犬としてはどうなのだろう?雨にぬれてもやっぱり散歩優先なのだろうか?

私はというと、特に時間に追われている訳でも無かったので、まあもう少し待ってみようという気でボーッと軒下での雨宿りを楽しんでいた。

更に数分後、雨は止むどころかその勢力を増したように感じられた。

すると理髪店のお婆さんが、慌ただしく2階への急な階段を登る姿が目に入った。

それは見ていて恐ろしいくらいの急階段だったので、私はおばあさんが誤って転倒してしまわないかちょっと不安気に見守っていた。

「入れ忘れた洗濯物でも取り込みに行ったのだろうか?」

やがてお婆さんが、再びあの急階段を下りてくる姿が目に入った。

手には傘を2本持っていた。

そして、お婆さんはつかつかと私の元に歩み寄り、

「これ、つこうて。(返却は)今度ここ通ったときでええから」

と、私に傘を一本渡してくれた。

恐らくもう一本は、さっきまでここで私と雨宿りをしていたおじいさんの為のものだったのだろう。

私は「ありがとうございます。助かりました。お借りします」と、深く一礼して傘を受け取った。

お婆さんは、そのままそそくさと理髪店に戻っていった。

「なんて良い人なんだ。さっきからこっちを覗いていたのは我々が困っているのを察したからだったんだな」

私は一気に心の中が晴れあがったように感じた。

土砂降りの中、私はおばあさんの親切がこもった傘をさして、図書館への道を急いだ。

図書館に着くまでに雨はすっかりあがり、天気予報どおりの陽光が差した。

まるで天気に私の心が反映したかのように。

下らない本の返却という苦行と、天気予報に裏切られたショックとで散々になるはずだった散歩が、ある意味そのお蔭で、こんなにも明るく晴れやかなものに変容するとは。

本当に何が幸いするか分からないものである。


下らない本、ありがとう。

嘘つき天気予報、ありがとう。

そして、親切なおばあさん、本当にありがとう。


それでは!

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2021年10月18日月曜日

幸福を感じるとき。そして、とある幸福度ランキング。

 とあるインタビュー番組でこのような問いが発せられました。

「あなたはどんな時に幸福を感じますか?」

それに対し、男女問わずたいていの青年~中年層はこう答えました。

「美味しいご飯を食べている時」

「寝ている時」


私はこれらのやりとりを聞いて「やっぱり原始人から変わっていないんだな、人間って」と思いました。

食べて寝る。

生きるために必須の毎日行うこの基本的な行為に、人は満足感を覚えるのです。


インタビューは続き、こんどは或る老年の紳士2人(A,B)に同じ問いが投げかけられました。

A、Bともにこう答えました。

「人に喜んでもらえた時」

「人の役に立っていると感じた時」


私はこの回答に対し、「なるほど、やっぱり原始人から変わっていないんだな、人間って」と先ほどと同じ感想を持ちました。


子育てから引退し、激しい労働にも耐えられなくなっても、なぜ人の寿命は尽きないのか?

それは彼らに群れの中できちんとした役割が与えられていたからです。

現役層の補助、あるいは導き役(知識の伝承者)としての存在。

以前も書きましたが、それは親戚であるチンパンジーの群れには存在しない役割です。

チンパンジーのオスは獲った食料を決して分配しません。例え妻でも我が子でも。

そしてメスは我が子にしか分配しません。なので子が独り立ちできるまで次の子をもうけません。

つまり、チンパンジーは食料を独りでとれなくなったとき、そして子を産めなくなった時が寿命となります。

ほとんどの哺乳類はこの法則で生涯を終えるのですが、ほぼ唯一人間だけが、それよりもはるかに長い寿命を持つのです。


人間の群れでは、老年層の女は群れの子育てを手伝い、また若い女の採集の指導を行います。

そして男は同様に採集の手伝い、或いは若い男に狩りの指導を行います。

こうすることで女は子が未熟なうちに安心して次の子を産めるようになり、男の狩猟技術の向上は食糧の確保を容易にし、それらは群れの拡大(子孫繁栄)に繋がります。

つまり、老年層は繁殖能力や体力の減衰によって現役世代のような働きは出来ませんが、これまでの知識や技術の伝承によって、群れ全体に貢献するのです。


現代の老齢の人間が、「人に貢献している自分」を認識することで幸福を感じるというのは、まさにこの原理ではないでしょうか?


国連が実施している「幸福度ランキング」とか何とかいう指標があります。

毎回上位を独占するのは北欧諸国(とくにフィンランド)で、2021年度版では日本は56位でした。

そのランキングの指標は以下のような物です。


主観的に自分の生活の満足度を11段階で評価し、

 + 以下の項目を含めて判断する。

1.一人当たり国内総生産(GDP)

2.社会保障制度などの社会的支援

3.健康寿命

4.人生の自由度

5.他者への寛容さ

6.国への信頼度


これを見て私は思いました。

「安心して眠れることや、美味しいご飯が食べられる事が入ってないじゃないかっ!」

さらにこうも思いました。

「そもそも幸福度って相対的なものなのでは?」

隣の芝は青く見える。

これも隣の家に庭が無ければそんなことは思わない訳ですし、とにかく人というものは他人と比べたがる生き物です。

自分がコミュニティーの中でどのような位置にあり、どのような境遇に置かれているのか。

結局のところ、損得勘定は比較することでしか判断できないという訳です。

以前にも説明したH&N回路などによって、生まれつき幸福を感じやすい人というのは確かに存在します。しかしそれらの人がフィンランドに特別多いという訳でも日本に特別少ないという訳でもないので、このランキングの差異はやはり外的要因だと思います。


ここで堂々第一位のフィンランドについてその特徴を挙げてみましょう。

1.高負担高福祉の代表国です。

2.人口密度は約16人/km2で世界171位です。

つまり、フィンランドでは他人と比較しようにもまず隣近所がいない、さらに高負担高福祉なので望まなければ生活にさほど不足を感じないということ。

これが国連の意味不明な幸福度ランキングで、フィンランドが何故か毎回1位の理由だと私は思っています。


フィンランドの特徴として、もう少し挙げておきましょう。

3.隣にロシアがある

4.寒い

国民は常にロシアの脅威にさらされています。なので一人当たりの小型武器の所有率は世界3位ですし、もちろん徴兵制も残っています。ロシアに気を遣ってNATOにも加盟していません。

北欧なので当然寒いです。農作物は育ちませんし、日光の恩恵も少ないので、当然そのような所で豊かな食文化が育まれるはずもありません。

日本人がインタビューで答えた、「安心して眠れることや、美味しいご飯が食べられる」という人間古来からの本質的幸福を、少なくとも日本人より享受できているとはどう考えても思えません。


とまあ、国連の意味不明な幸福度ランキングについてちょっと触れてみました。


最後に、インタビューに答えた老年の紳士A,Bですが、

AとBがその後に続けた言葉に、私は彼らに成熟の差を感じました。


A:「もう富とか名誉とかには興味ないので」

B:「私が出来ることはこのくらいなので」


Aには明らかに虚栄が見られました。(それらはもう持っているから、或いはそれら下劣なものには興味がないから)

それに比べBは正直です。


Aも人間臭くて良いのですが、信用できるのはBだと思いました。

老年の原始人に同じ質問をしたら彼らはどう答えるのでしょうか?


それでは!


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2021年10月10日日曜日

初秋の嵐山まで自転車散歩。

もう初秋の京都。

私は久しぶりに自転車で嵐山を目指しました。

MTBを街乗りに改造した自転車なので走行感は最高なのですが、永らく怠惰に甘んじていた私のお尻は、そのとがったサドルの洗礼にしばしの苦痛と戯れるのでした。


「あぁ、風が気持ちいい。

ジョギングでは得られない景色の流れが心地いい」


ほとんど、というか全くメンテナンスをしていなかったにも関わらず、自転車は私がペダルに込める力を推進力に転換し、グングンと前に進んでいきました。

そして、到着。













嵐山は相変わらず世界に冠たる観光地の威光を保っていました。

それでも休日の人出としては全盛期の半分くらいでしょうか?

直ぐに気が付いたのは、

もちろんほぼみんなマスクをしている事、

そして欧米人の数が激減していた事、

です。

それでも中国語だけはしっかりと至る方向から聞こえていたのは違う意味での驚きでしたが。













渡月橋も相変わらずでした。

大雨の被害にも会っていないのでしょうか?いつもよくやっている護岸や修復の工事も行われていませんでした。














そして奥に見える山こそ、春には桜、秋には紅葉で美しく彩られる嵐山です。

この地域の地層は地殻変動で大きく隆起しており、そのために周囲を断崖絶壁のような景観で囲われています。

それ故、自然を背景として庭を造る(借景)、いわゆる「日本庭園、枯山水」の名所が随所に見られます。


さて、桂川に沿って少し上流に行ってみましょう。













ここもかなりの急斜面です。

そしてその麓に見えるのが貸しボート乗り場、兼食事処です。

たまに着物を着たカップルがボート漕ぎデートを楽しんでいるのを見かける事がありますが、衣裳が濡れてしまわないのか心配になります。

ちなみにこの日も何組が見かけましたが、一組は岸に詰まって立ち(漕ぎ)往生していました。恐らく彼女の彼に対する評価はガタ落ちでしょう。














この川で有名なアトラクションとしては、保津川下りがあります。

この日は見かけませんでしたが、多くの観光客を船に乗せ、舳先に立って講釈しながら急流を下る船頭の姿は実に頼もしく見えます。


「さて、日も暮れそうだしそろそろ帰るか」

踵を返すと、渡月橋が見えました。













こうしてみると、まさか世界が今伝染病の恐怖と戦っている最中などと誰が想像できるでしょうか?

実にのどかなものです。


「たまには自転車で遠出するのもありだな」


私はこの風景にしばし現実を忘れ、ぼーっと見惚れていました。

心の洗濯を終え、再び自転車に跨った私は、再び襲うお尻の痛みと格闘しながら家路に就きました。


私は帰路を快調に飛ばしながら、ふとこんなことを考えました。

「自転車は実に体に優しい乗り物だ。

 何しろ体と硬い地面とが接していないので、ジョギングのように骨に衝撃がかからない。

 膝に故障を抱えている人には最適な運動手段だが、健康ならばやはり骨にもある程度の負荷は必要になる。骨も甘やかしすぎると脆くなるのだ」


こう考えるとトライアスロンとは実に合理的な競技です。

筋肉負荷 : ジョグ < 自転車 < 水泳

骨の負荷 : 水泳 < 自転車 ジョグ  

と、実にバランスよく構成されているのです。

さらにいずれの種目も持久力を要します。


「なるほど、どうやら適当に組み合わせた訳ではないようだ」

私は意味なく独り言ちながらペダルを回していました。

滲む汗を爽やかな風が拭います。

するとまたこんな事が頭に浮かんできました。


「何のために汗をかくのか?

もちろん走るためである。

それでは何のために走るのか?

もちろん狩猟の為である」


その昔、我々の遠い祖先が狩猟採集で生きていた時代、肉を確保する主な手段は腐肉漁りでした。

動物の死骸を漁って貴重なたんぱく質を得ていたのですが、それとて危険と隣り合わせです。ハイエナやその他の肉食動物との競争率がとにかく高かったのです。

当時から戦闘力が最弱だった人類は、やがて多くの肉食獣とは異なる狩猟方法を思いつきました。

昼の炎天下、動物が木陰にこもり動かない時間を見計らって、草食獣を狩るのです。

汗で体温を下げられる人間は、呼吸でしか体温を下げることの出来ないその他の動物に比べ高い気温に対する耐性が高かったのです。


車で例えると、

高性能の水冷式冷却システム = 人間

空冷のみの冷却システム = その他の動物

となります。

もし空冷のみのF1(つまりラジエター無し)と一般乗用車がサーキットで競争すれば、後者が必ず勝ちます。

前者は間違いなくオーバーヒートするからです。


更に二足歩行によって、直射日光を受ける面積が四足歩行動物に比べ圧倒的に狭いこともそれに寄与しました。

この特性を以て人間はとにかく獲物を追い続けました。

いつまで追うかと言うと、相手が日射病で動けなくなるまでです。

瞬発的なスピードでは全然かないませんが、人間は獲物の逃げる方向を予測し、獲物が自分の熱を冷ます時間を与えないようにして徐々に追い詰めるのです。

当時は槍などの投擲武器も無かったので、人間の狩猟手段はただ獲物が熱暴走を起こして動けなくなるまで追い続けるという持久作戦しかなかったのです。

ちなみにこの手法は、割と近年までアジアやオーストラリアの原住民が採っていたようです。


つまり、人間の体は(長く)走るために最適化されているという事です。

なので、人は走る事が大好き(なはずです)。

犬が意味なく全力疾走して実に楽しそうに遊んでいる光景を思い浮かべてください。

それはそのまま我々人類にも当てはまります。

これほどジョギングやマラソンなどの長距離走を自ら進んで娯楽として楽しむ動物は他にいません。

もし我々の上位の存在がいるとしたら、彼らはきっと我々が犬を見て感じる微笑ましさを同じように我々に対して抱いている事でしょう。


さて、こんな事を考えているうちに気が付くと帰宅していました。

サイクリングにはジョギングには無い楽しみがあります。

遠くまで行ける事、

そして、走りながらでも割と思考が出来る事。

更にその思考は、散歩のときと同様に前向きで創造的なものになります。


「たまには自転車にも乗らないとな。

 今度洗車でもしてやろうか」


決意が実行されるかどうかは定かではありませんが、少なくともこの時の前向きな自分はそう思ったようです。


それでは!

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2021年10月8日金曜日

人でありたいなら爪先を意識しろ!

 「適度に散歩をして適度な日光を浴びる」

これまでの記事にも度々書いてきたように、これほどコストパフォーマンスに優れた健康法は無いと私は思っています。

日光に含まれる紫外線B波は、ビタミンD生成に欠かせないものですし、それが欠乏することにより様々な(睡眠含む)弊害が発生します。

また二足歩行こそ人の人たる所以といっても過言ではないほど、人の体(或いは脳も)は歩くことが前提のシステムで構築されているように思えます。

(いずれも過去の記事に詳しく書いてありますので、もし気になる方がおられれば検索してみてください)


私は散歩をしながら、歩くことについて考えを巡らせていました。

「なぜ人だけが二足歩行なのだ?

 私は今ほぼ無意識に歩いているが、歩き方はこれで合っているのだろうか?

 そもそも私は今まで生きてきた中で、人から歩き方などを習った覚えが無い」

我ながらなんと平和な散歩でしょうか……


約600万年前、人は猿と分かれて独自の進化系統に進んでいきました。

その後多種多様な人類が誕生しましたが、今や人類は我々ホモサピエンスだけになってしまいました。

なので人が人たる所以を説明するのに最も適当な動物が、DNA配列が人と極めて近いと言われるチンパンジーです。

そのチンパンジーと人がおなじ祖先から分かれて、まず最初に現れた差異が二足歩行だと言われています。

詳しい背景は省略しますが、様々な環境要因から人は移動の必要に迫られ、逆にチンパンジーはさほどその必要に迫られませんでした。


それではなぜ二足歩行なのか?


手で道具を使うためという説も有りますが、実は人が道具(石器)を使うようになったのはそれから何百万年も後の事です。

そう考えると、二足歩行の直接的動機としては弱く感じます。

むしろ順序が逆で、手を使うための二足歩行ではなく、二足で歩くようになった結果、わりと手が自由になったと考えるほうが自然に思えます。

ある本によると、数あるデメリットを承知で人が二足歩行を始めた理由は、とにかく長距離を移動する必要に迫られたからだということです。

しかし四足に比べると、二足歩行のデメリットは多岐に渡ります。

(チンパンジーと人との比較だと考えると分かり易いと思います)


1.速く走れない。

2.走行中に急な転回ができない。

3.木登りが下手になる。(足の親指が短く真っすぐになり、木をつかめない)

4.出産が大変。(骨盤の変形)


このうち1から3は捕食者に捕まる可能性が高くなります。

4は子孫を残せる可能性が低くなります。

つまり、いずれも生物の進化の方向から考えると有りえないものばかりなのです。

それでも人は二足歩行を選択しました。


つぎに人がチンパンジーと別れた頃の二足歩行のメリットを考えてみましょう。


1.省エネで長距離移動が可能。


結局、このたった1つのメリットがその他の致命的なデメリットを上回った結果、彼らは生き残り、そして今の我々に繋がっています。


ちなみに1.を説明する為には、人とチンパンジーの足のつくりを比べればよく分かります。


①人は足が長い。

②人の足は真っすぐ前を向いている。

③人は膝が大きい。

④人には土踏まずがある。

⑤人の踵は大きい。

⑥人の足の親指は真っすぐで短い。


他にもありますが、これらはいずれも二足歩行の為の進化です。

さて、ようやく本題に戻ってきました。

ここで私は⑥に着目することにしました。


まず人の「歩く」という行為を横から見てみましょう。

基本、片足を前後交互に動かして進みます。

その時の腰の位置を確認してみると、ある事実が浮かび上がります。

片方の足のつま先で地面を蹴ってもう片方と丁度重なった時に腰の位置は最も高くなり、そしてかかとで着地した瞬間、つまり両足が最も開いた時に腰の位置は最も低くなります。

この高さの差はそのまま位置エネルギーに置き換える事が出来ます。

つまり、二足歩行ではつま先で地面を蹴って得た位置エネルギーを前方への推進力として活用していると言えるのです。

確かにチンパンジーの”がに股”、”すり足”での二足歩行では、高低差を利用した位置エネルギーなどは活用できるはずもありません。

かれらの足の親指は、木の枝などを掴めるように長くて内側を向いている(人間の手と同じ)ので、二足歩行には適していないようです。

実験によると、二足は四足の3分の1ほどの消費カロリーで移動できるという事です。

つまり、同じ食糧でも移動距離は3倍ということです。

チンパンジーの一日の移動距離は約2kmということですから、二足歩行の人間は一日にその3倍の約6㎞ほど移動できたわけです。


余談ですが、人が走る時の位置エネルギーの推移は歩行時とは真逆になります。

つまり両足を開いた時に最も高くなり、交差する瞬間に最も低くなるのです。

なので必然的に使う筋肉や用いる技術が異なってきます。

競歩とマラソンが似て非なる理由がここにあります。


さて話を戻して、本来手の親指と同じ役割だった我々の足の親指は、二足歩行のためにそれ専門の形状へと進化しました。

逆に言うと、

二足歩行の為には足の親指が必須!

ここを意識せずに正しい二足歩行などあり得ない!

という事にもなるのです。


ところがスニーカーや革靴などで歩行するようになった我々は、ともするとチンパンジーのような「がに股」「すり足」になりがちです。

腰の上下動が無く、位置エネルギーも使えていないので、歩いてもすぐに疲れたりします。

そうすると更に歩くのが嫌になって、やがて土踏まずの筋肉も徐々に退化していきます。

そうです、言い方を変えるとチンパンジー化しているのです。


私はこの理屈から、歩くときに出来るだけ足の親指を意識するようにしました。

腰の上下動に連動し、視界の上下の揺れも少し大きくなったような気がしました。

するとどうでしょう、

歩幅が少し広くなりました。

胸が張り、背筋がピーンと伸びました。

ふくらはぎとお尻の筋肉に張りが出て来ました。

それほど長く歩いていないので、疲れやすさの有無はよく分かりませんでしたが、明らかに楽になりました。

測定していないので感覚だけですが、つま先の筋肉まで動かしているので、おそらく足の血流も良くなっているでしょう。


よく背筋を伸ばして、猫背にならずに歩きましょうなどと言われますが、そんなことをせずとも足の親指に少し注意を向けるだけで必然的に歩き方は正しく美しくなるのです。

たるんだ紐を真っすぐにするには、垂れ下がった中心を持ち上げるのではなく、端を引っ張れば良いのと同じ理屈です。


これらは靴を履いていると中々実感しにくくても、家で裸足の時に試してみると直ぐに分かると思います。(靴の弊害の一つですね)

本来ならば裸足で歩くのが最もいいのでしょうが、現代においては無理があります。

なので、最初は意識して、慣れればそれが当たり前になると思います。

ただ一つ注意しなければならないことがあります。

このように人間らしく歩けるようになると、周囲の「がに股」「すり足」で歩く人達が本当にチンパンジーに見えてきます。

もし接する場合、認識は直ちに元に戻すように!


という訳で私は決めました。

次にスニーカーを買う時は、出来るだけ底の薄いものにしよう、と。


それでは!


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2021年9月27日月曜日

「The Secret World of Sleep」年と共に睡眠の質は低下する!

 昨日は折角の休日だというのに私の体調は最悪でした。

何故だか体が重く朝からずっと眠い、とにかく眠い。そのまま夕方になっても眠いので、このまま明日の朝まで眠れてしまうのではないだろうか?などと思いました。

「なぜこんなに眠いのだ?まだ筋トレの疲れが残っているのだろうか?」

とも考えましたが、世間ではいつの間にか、何の相談も無く台風が接近していたようで、もしかするとその急激な気候の変化に体がついていけていなかったのかもしれません。


打って変わって本日は晩夏の快晴。

清々しい天気に昨日の不調もどこ吹く風、私の体調はすっかり回復していました。

まるで自然を忌避しているかのように遠ざけていく現代の都市生活の中にあっても、やはり我々の身心は自然と共にあるようです。

人生に、生活に、社会に疲れた時、人は自然の中に回帰しようとしますが、これは至って自然な行為なのだと思います。

都市生活は心にとって実に複雑で高負荷ですが、五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)にとっては実に単調で低刺激です。空の見えない密室の中に在っては、五感は麻痺しているも同然なのです。

それに比べると自然は心にとっては穏やかですが、五感にとっては実に複雑で刺激的です。

美しい景色、小川のせせらぎや鳥のさえずり、大地を踏みしめる感触、木々や海の匂い、おいしい水や果物、いずれも我々の感覚を生き生きと蘇らせてくれます。

とまあ、こんな事を書いていると、またどっか散策に行きたくなりました。

早くこの異常事態が収束しないものかと切に願う日々です。


さて、前置きが長くなりましたが。

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」の一応最終回です。(原題「The Secret World of Sleep」)


人は年をとると睡眠時間が短くなるということは、おおよそにおいて体感、或いは周囲の状況から察することが出来ると思います。

年齢によるその時間差が、太古の昔には集団の保全に役立っていたことは以前の記事【「人≒チンパンジー」 いや 「人>チンパンジー」 だ!】に書きました。

しかし、やはり睡眠時間が短くなるということは老化そのものであり、またそれを促進することにも直結します。

何故なら、ただ時間が短くなるだけではなく、(以前の記事【「The Secret World of Sleep」寝たのに疲れる理由とは?】で説明した)徐波睡眠がハッキリ減少するという弊害を伴っているからです。

徐波睡眠は疲労を取り除き、記憶を整理するという重要な役割を担うパートなので、これが減少すると当然疲れは抜けず、記憶の固定がされづらくなって記憶力が低下します。

なので昨今の長寿社会において、老年期の睡眠はそれまでに増して重要になってきます。


ではその重要な徐波睡眠をどう確保すればよいのか?


本著で紹介されている手法の一つに、午睡をとるというものがあります。

もちろん前述した私のように朝から夕方までうとうとしていては、本来夜にとるべき睡眠が犠牲になってしまうので、あくまでうたた寝程度にとどめる必要があります。

本著では、午後の睡眠は一般的に徐波睡眠であると紹介されています。

つまり睡眠の第3段階です。

これを越えて第4段階にまで入るとレム睡眠に移行してしまうので注意が必要です。

あくまで午睡は「うたた寝」が最適です。


仕事中でも昼食を採って暫くすると眠くなってうとうとすることがありますが、(許されれば)思い切ってうたた寝をすると、午前の(頭や体の)疲れが取れ、リフレッシュされるので業務効率の向上に効果的なのですが、今のところ日本の企業風土においてはそのような志向にはなっていないようです。

(ちなみにアメリカの某大手IT企業などは、自由にうたた寝がとれる環境を完備している所もあるのだとか)

いずれ、日本の先進的な企業もこれに追随していくのではないでしょうか?


このように軽く昼寝をして夜はしっかり眠ることで、老化の弊害を最小限に食い止める事ができるようです。


また、睡眠には全くの静寂、無音の環境よりも、むしろ自然のものに近い音環境が効果的だという研究結果もあります。

英国のいくつかの病院では、鳥のさえずり、波の音、ときにはいびきの音まで含んだサウンドスケープが導入されているようですし、インターネットで人気のバイノーラル・ビート(両耳性うなり)の異なる周波数を両耳で聴かせる音楽も人気です。


最後に貴重な夜の睡眠前の食事について一つ。

一般的に就寝の3~5時間目に食べるものは、睡眠の質を左右すると言われています。


・眠気を誘う食品としては以下のものが挙げられます。

ヨーグルト、ホットミルク、チーズ、豆乳、はちみつ、マグロ、バナナ、ジャガイモ、アーモンド、豆腐など。

つまり主に良質のたんぱく質。


・逆に睡眠の質を低下させてしまうものとしては、

コーヒー、チョコレート、アルコール、チラミンが含まれる食品、

コショウ、燻製の肉や魚など。

つまり主に刺激物!


不眠っぽいなと思ったら、これらに気を付けて夕食のメニューを組んでみてもいいかもしれません。


さて、如何だったでしょうか?

近年は睡眠についての研究や、それに伴う著作物も多く出版されています。

それだけ睡眠という行為が我々人間にとって重要で、これまで想像もしていなかった効果を我々の身心に及ぼしていた事が次々に解明されていることの証拠なのだと思います。

睡眠についての研究は、恐らくこれからまだまだ発展していくでしょう。

来年には、もしかすると今日の常識は非常識になっているかもしれません。


でも確実なのは一つ、

「我々人類は、こと身心において原始人の頃とさほど変わっていない」

という事実です。

これさえ押さえておけば、様々な学説も何となくその是非が推察できるのではないでしょうか?


まだまだ私の睡眠学習?の旅は続きます。


それでは!

 
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2021年9月22日水曜日

衣笠選手の特集を観て……意味づける!

 ついさっき、某NHKで衣笠選手の17年間連続試合出場の特集を放送していたので、途中からだが一応最後まで観た。

実は私は記念すべき当ブログの初投稿記事において、フランスのサッカー選手の差別的行為について述べたついでに、当時たまたま知った衣笠選手のインタビュー記事を引用したことがある。

なので、今回も”たまたま”チャンネルが合っこの特集に興味をそそられたのだ。

特集では、氏の17年にわたる努力、葛藤、そしてスランプの時の苦悩について淡々と描かれていた。

特にスランプの時のエピソードは、まるで網に掛かった魚が身もだえしているような焦燥と、逆に金縛りにあったように体が動かなくなる恐怖とが入り混じって、思わず手に力が入ってしまうような緊迫感を私に抱かせた。

残念ながら連続イニング出場回数はそこで途切れてしまうのだが、それでも連続試合出場記録は続いていく。

監督やチームメイトなども氏の扱いや接し方にかなり気を遣っているようだ。

ただ、球団の経営層や一部ファンからは「もう変えろ」の声も聞こえてくる。

それらの期待や批判の声を背中で受け留め、氏はたとえデッドボールで骨折しても打席に立ち続ける。


ある日、氏がシーズン中に宿泊しているホテルの一室にカメラが入った。

そこには読書をする氏の姿があった。

本のタイトルは正確に覚えていないが、確かゴルフをする時の心がどうこうという類の古い本だったように思う。

野球選手がなぜゴルフの本を?と私は思ったのだが、氏によると、それは遠征先にも持っていくほど大事な本なのだそうだ。

氏は本の内容を一言でこう言い表した。

「とにかく練習しろ!」

いかに鉄人と呼ばれる「衣笠」でも、やっぱり疲れて練習をさぼりたい日もあるそうで、そんなときにこの本を読んでモチベーションを上げるらしい。

氏は続けてこう言う。

「練習するとね、ただ野球がうまくなるだけじゃないんですよ。それ以外にも一杯成長(勉強)する要素があるんですよ」

と正確には覚えていないが、確かこのような内容のことを語った。


それを聞いて私は思った。

なるほど、練習の為の練習をするなとはよく言うが、それなら目的の為の練習ならOKかと思いきや、氏は更にもう一枚練習の意義を付与している。

練習は目的(野球の上達)を達成する為の行為だが、それ以外にも様々な付加価値を生む(与えてくれる)行為であると。

精神的な成長、思考の成長、或いは身体的……その他。

何をするにしても、その行為に対する意味づけが異なると、結果は大きく違ってくるのだろう、恐らく。

私は自分の行為(仕事、練習、勉強、運動など)に対して、どのくらい深く意味づけをしているだろうか?

いや、ほとんどしていない。

ただ漠然と、惰性で、ルーチンワークとしてやっていることが多い。


氏は自分のプレイについて常に事細かくノートをつけているそうで、なぜ?どうして?をかなり深く掘り下げて考えるらしい。

同じバットの素振りでも、捉え方や意味づけの仕方で随分と得られるものが違ってくるのだろう。

一般的に練習は地味で苦しくて楽しくない。

すぐに報酬が得られないし、また確実に得られるとも限らないからだ。

でもそれは練習の報酬がただ一つ「野球の上達のみ」と限定しているからで、実はそれ以外にもたくさんの報酬が得られる事が理解出来れば、そういう地味な作業に対する取り組み方も変わってくるのだ。


私は記念すべき当ブログの初投稿記事において、衣笠選手から引用した下記の言葉が、なぜ氏の口から至極当たり前のように出てきたのか理解出来た気がする。


―――私は子供たちに向けて野球をしている。スポーツ選手は常に子供たちのお手本でなければならない――


今、このようなスポーツ選手がどのくらいいるのだろうか?

疑問である。


それでは!

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2021年9月20日月曜日

人は何も決めていない。意識(意思)の話。

散歩をしていると何故か頭が活性化される。

なんだか前向きな思考になるし、色々なアイデアも湧いてくる。

私はこれまでその理由が「ただ単に運動して頭に血が巡っているから」という風に考えていたが、最近の脳科学についての研究をいろいろ漁ってみると、どうやら一概にそれだけではないように思えてきた。

一説によると、意識とは会社の社長のような決定権を担う存在などではなく、社史編纂係のような割と受動的な立場のものであるという。

実は我々は自分の意識(意思)で何も決定しておらず、体の感覚やその他の機能によって決定された行動のログを受けとって、あたかもそれが意思により決定されたかのように認識させられているのだ。

つまり、ここでの意識(意思)とは、会社の誰かが決定した結果を記録し、それを社内報で発信する担当であり、社の活動に対する決定権など何一つ有していないことになる。


例えば、蜂に刺されて手に「痛み」を感じるという認識は、

①まず触覚によって感知された刺激が脳に伝わり、

②そして身体的な反応(血流増加、瞳孔拡大、発汗、表情の歪みなど)を経て

③それが意識に痛みとして記録されるのだという。

つまり①から②の間、我々は痛みを感じていない。意識として認識されるのは必ず体の反応の後なのだ。(言い換えれば、体の反応が無ければ何も感じないということで、いくらお化け屋敷で脅かされても、体の反応が無ければ脳は脅威を感じないということだ)

そして③のあとに蜂を払いのけようとして手を動かすのだが、脳の電気信号をモニターすると不思議な事に意識を司る領域が反応するのは実際に手が動かされたコンマ何秒か後らしい。

我々の手は、意識(意思)で手を動かそうと思う以前に既に動いているのだ。

これは意識(意思)で手を動かそうと思って手が動いたのではなく、意識以外の何らかの指示で手が動かされていることを示している。

一体なんだろう?


手を動かしたという行為が意識に伝えられると、そこで意識はあたかも自分で決定して手を動かしたかのようにコンマ何秒か前の出来事をたった今自分の意思で行ったかのように時間を書き換えて認識して(させて)いる。(過去を今と誤認させる)

パソコンで例えると、人間が決定のマウスボタンを押した時間と、それが記録としてメモリーに書き込まれる時間には僅かなズレが生じるはずだが、パソコン本体は後者の時間を決定時間とみなし、あたかもその決定がその時間に自身の能動的に発した行為として見なしているようなものだ。

人間の意識とは、実際の決定行動とその認識の時間差を埋め(ごまかし)、自分の行動は全て自らの意思決定の結果であるという錯覚をもたらすためのものなのだ。

能動的、主体的とは一体なんなのだろうか?

そしてその主体とは一体誰なのだろうか?


話頭を転じて、良く知られているように熱湯に触れて手を引っ込めるというような「反射的な行動」はどうだろうか?

この場合、意識は無視される。

なので我々は自分の意思で手を引っ込めたという風には認識できない。命にかかわるような出来事に対しては意識への記録という作業のプライオリティは低下するからだ。

意識を介さない行動は反射として認識される。


意識は、陰で決定を下すその他の感覚によって常に占有されている。

パソコンで言えば一時的に作業記憶を留めるメモリーのような物だ。

ボーッとして何もしていない時でさえも、「今私は暇である、どうしよう?」などという事を記録し続けている。

つまり逆説的にいうと、反射的な行動とは、意識の一時的な解放のことである。

そして私は思うのだが、もう一つのケースとして、習慣的あるいは単調な行動をしている場合も意識は解放されているのではないだろうか?


例えばこんな経験をしたことはないだろうか?


会社での仕事を終え、いつものように慣れ親しんだ道を慣れ親しんだ車で帰途に就く。

「あぁ、今日は大変だったな。でもまだ解決していない。明日どうしようか?あ、そういえばビールが無くなっていたな。今日は帰りにちょっとスーパーに寄らないと」

などと考えながら運転していると、いつの間にか家についていた。

道中、意識の中にはほぼ運転のことなど無かったのに、

かつ、スーパーに寄ろうと思っていたのに、

あの曲がり角でウィンカーを右に出して、ハンドルを右に切って右折するなどと、一瞬たりとも思わなかったのに、

きちんと帰宅出来ている。


或いは朝、家の玄関を出て数秒後、

「あれ?ちゃんと鍵閉めたっけ。覚えてないな、念のため確認しとこう」

と玄関まで戻って確認すると、きちんと鍵はかかっている。

かけた覚えはないが、結果としてちゃんとかかっている。


このような誰もが少なからず経験する出来事は、我々が意識で行動を決定しているのではないことを示唆しているような気がする。

そして、そのような場合(意識に行動記録が書かれない)には、意識はその他の感覚からの占有を解かれる。

そして占有を解かれた意識はどうするか?

自由に考えはじめるのである。

誰の束縛も受けていないその時、我々の意識は初めて自由意思を持つことを許される。


無意識の行動をすることで他感覚の束縛から意識を解放する。

これが、散歩をしているときにアイデアが溢れてくる一つの要因なのではないだろうか?

では同じように無意識で行う貧乏ゆすりや頭を掻いている時などでも同様なのか?という疑問に対しては、こう答える事が出来る。

それは脳を流れる血流の量に違いがある、と。

同じように無意識の行動でも、体を動かす散歩と指先足先をちょっと動かすだけの行動とでは脳の環境が異なっている。

血流促進によって脳に新鮮な酸素と栄養が行き渡った状態で、記録係としての役割から解放された意識の活動は最高のパフォーマンスを発揮するのだろうと思う。


人がまだ獲物を追っていた時代、何かを求めて歩く、或いは走るという行為は人の最大の武器であり、生命に関わる重要な行為だった。

なのでその最中は最も知恵が必要であり、最も創造的な行動が必要だった。

散歩で頭が活性化される要因は、このような太古の人類の必要に応じたものではないだろうか?

そう考えると、何かを思索中(例えば作文や数式を解くなど)に無意識に頭を掻いたり髪をいじったり貧乏ゆすりをするのは、脳が意識を解放する為の疑似的な散歩だとも考えられる。

そして、意思決定が意識の所業でないとすれば、思索をするから貧乏ゆすりが始まるのではなく、貧乏ゆすりを始めるから思索に集中できるのだ、とも言える。


ドーパミンの扇動的な行為といい、意識の虚偽的な作為といい、我々はまだまだ自分自身について分かっていない事が多い。

このように考えてみると、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我有り」という言葉は、確かに我が意思だとすると我は有るのだが、それは(意思)決定する我=自我ではないということになる。

それでは我とは一体なんだろう?などという事になって、ますます収拾がつかなくなる。

不思議である。


というような無駄な事をつい考えてしまうのも散歩の最中であり、パスカルが「人間は考える葦である」とはよく言ったものだと思う。


それでは!


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2021年9月18日土曜日

恋愛と不眠とH&Nについて。

 昨日は久しぶりに徹夜をしてしまった。

いや、決してヒャッホー的な意味で楽しく過ごしたのではなく、どちらかというと眠れなくてただ悶々としていたという具合で。


こういう時に想い出す言葉がある。

 トーマス・マン著 『ブッテンブローク家の人びと』

 我が子よ、昼は仕事に喜びもて励め、されど、夜、安らかに眠れるごとき仕事にのみ励め。


この言葉に照らして言うと、つまり今の私は日中に適切ではないストレスを感じているという事だ。

今になってつくづく感じるのだが、私は気分転換、すなわち興味の方向を変えることが下手らしい。一つの事に執着してしまう傾向がある。

これまで読んだ脳内の仕組みに関する著書によれば、私は恐らくドーパミン濃度はそれほど高くないように思われる。どちらかというとH&N回路の方に比重が置かれている性格のようだ。


ドーパミンとH&N物質は互いに補完しあう関係にあり、例えば恋愛でいうと、

気に入ったあの娘を落とすために働くのがドーパミン、

そして見事成就するとドーパミンはその役割を終える。

やがて一年もするとあんなに熱く燃えていた恋愛感情も薄れ、不満の種が頭をもたげてくる。

そこでようやく動き出すのがH&N物質だ。

H&Nはドーパミンのように未来を見ない。

現在あるものに関心を示し、それを維持することで幸福感や満足感を得るためのものだ。

つまり簡単に言うと、

ドーパミン特性の強い人は移り気で現状に満足することは少なく、H&N特性の強い人は一途で現状に対する満足感も得やすい、

という事である。


私の場合よくあるのが、

付き合い始めると割とすぐに友達モードに移行してしまい、ただ一緒にいるだけでも割と幸福感を得られるせいか、強い恋愛関係を求める相手からするとどうも冷めた感じに見えるらしく、もの足りなさを感じるらしい。

つまり、薄く長い関係になりがちなのだ。

これは恋愛初期の女性にとっては不満だろうと思う。


この保守的?な性格をどうにかしたいとは思っているのだが、性格ゆえになかなか難しい。

もう少しドーパミンをうまい具合に操れればいいのだが、今のところその案も無い。


まあとにかく、眠れない事の原因は分かっているのだし、そこに留意してまずは眠れるようにしよう。

ドーパミンのことを考えるのはそれからだ。


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2021年9月16日木曜日

天才と狂人、モデル化とドーパミンの話。

 今日は、いつぞやの記事に書いた「蝉時雨の道」を通って帰宅しました。

ほぼ同時刻だというのに森の中は薄暗く、すでに蝉の声は絶え、かわりに虫の音が響いておりました。

もう夏は終わったんだなと、少しもの悲しくなりました。

ずっと街の中に暮らしていれば、このようなささやかな事象から季節の変化を感じるのは難しく、我々人間の感性を刺激する情報というものはやはり自然の中にあるんだなと思いました。

日本人にとって蝉は夏の象徴で、虫の音は秋の象徴です。

たとえ目には見えなくとも、耳で感じるだけで移ろう季節を認識できるのです。

いわば、季節の聴覚的なモデルです。


モデルと言えば、私は真っ先に以下のリンゴを思い浮かべます。








そう、日本人が大好きなAppleのロゴです。

私がこのロゴを見て凄いと感じるのは、リンゴなのに赤くないということです。

モデルというのは一般的に「抽象」という訳で通っていますが、私はもう一つ「捨象」という行為も重要だと思っています。

抽象とは重要な部分だけをすくい上げる行為で、捨象とは必要ない部分を切り取ることです。

このロゴは抽象によってリンゴの形状をすくい上げていますが、捨象によって「赤い色」を切り取っているのです。

誰がリンゴの絵を描くときに黒で塗りつぶすでしょうか?

それでもこのロゴはちゃんとリンゴに見えます。いやリンゴ以外には見えないと言っても良いと思います。

すなわち、「赤い色」はリンゴをモデル化する時に必須の要素ではなかったということをこのロゴは示しているのです。


このような発想は一般人には出来ません。

なぜなら、普通人間は効率よく生活できるようにほぼ全ての物をモデル化して把握しているからです。

例えば人間は車やテレビの形を見るだけで、例えそれが初めて見るものだったとしても、それが何をするものでどう使うものなのかが分かります。

逆に脳でモデル化されていないものを見た時、人間の脳内には一気にドーパミンが噴出します。

そして我々の意思にこう命令するのです。

「これは何だ!調べろ!そして把握しろ」


余談ですが、人間のここまでの繁栄にはドーパミンが強く関わっているようです。

生殖的には「あの娘の事をもっと知りたい」とか、

探索的には「この先どうなっているのか知りたい」とか、

科学技術的には「この謎を解明したい」とかいうふうに。

ただドーパミンには見境がありません。

とにかく好奇心を煽る一方です。ネットサーフィンが止められないのはそういう理由です。


ただ、これだけだといずれカオスになることは請け合いで、当然のようにストッパーが必要です。サーキットを綺麗に速く走るためには、秀逸なブレーキが必要なのと同じです。

なので人間には遠い未来を予測して損得勘定するという、ドーパミン抑制回路が備わっています。「ああもうこんな時間だ、明日起きられないかも」

この回路によって我々はネットサーフィンを中断する事が出来るのです。


さて、モデル化の話ですが、

Appleのロゴを考えだすのがなぜ難しいのか?

それは、一度脳内でモデル化されてしまったものを再構成しなおすという作業が必要だからです。

脳は認識に優先順位をつけていて、当然ですがモデル化されて既知のものは低く、逆に未知のものは高くなります。(全ての事象にいちいちドーパミンを噴出させていては生活が破たんしてしまいますから)

なので、リンゴという優先順位の低い概念を脳内から一度きれいさっぱり取り払い、新しいリンゴ象を脳内で(意図的に)再構成する必要があるのです。

固定観念の再構成は脳の仕様からして中々に至難の業です。


ただし、この至難の業にも抜け道があります。

例えば夢の中です。

夢の中ではドーパミン抑制回路の規制は緩くなります。

なのでそこにはモデルの制約は多くありません。車を食べてテレビが飛んでもおかしくない世界です。夢が奇想天外なことが多いのはそういう事です。


ではこの夢の中の状態を覚醒しているときにも発揮出来たら?

すなわち、頭の中の既成概念やモデルを全て取り払って、ドーパミンの命ずるままに思考出来たらどうなるか?

これこそ天才の片鱗だと思います。

例えば有名なミュージシャンや画家、それに小説家などの作品は夢で見た出来事をきっかけに製作されたものも多いとか。

当然それが夢の中だけでなく現実でも出来れば、後世に語り継がれる芸術家、或いはノーベル賞クラスの科学者や文筆家になれるでしょう。


ところで科学技術の進歩は、(残念ですが)この効果を薬物で人為的に発現させることに成功しました。

(日本のミュージシャン、作曲家などもたまに検挙されている”あれ”とか”これ”ですね)

例えばパーキンソン病に処方されるアンフェタミン(ドーパミンの量を増やす)などは、誤って使用すれば酷い幻覚作用の発現、つまりドーパミンの虜になってしまいます。

そして一度その網に掛かれば、もはや抜け出す事は困難でしょう。

つまり薬物中毒患者です。


ドイツの哲学者ショーペンハウアーは言いました。

「夢は束の間の狂気であり、狂気は醒めない夢である」と。


現在の精神病の一つに統合失調症というものがあります。

酷くなるとドーパミン抑制回路が機能しなくなり、興味があっちこっちに向いて会話が飛び飛びになったり、幻覚幻聴に悩まされたりします。

つまり、認識の優先順位というものがほぼ失われ、感じる全ての物に興味と興奮とを覚えるのです。脳内にはモデル化されたものはほとんど存在しません。なので同じものでも見るたびに違う認識になります。

まさに日常が夢の中のようであり、ショーペンハウアーの言は的確にそれを表現しています。


エジソンは「天才とは1%のひらめきと99%の努力」だと言いました。

私はこのドーパミンの与える影響について考えているうちに、なんだかこの言葉の意味が違う事を示唆しているように思えました。

つまり、

1%の狂気が残り99%の努力を相殺できるほどの効果があり、

その1%の狂気が無ければ、どんなに努力しても決して100%にはならない

のだと。


考えすぎですかね?


ちなみに私は今「ドーパミン」についての本を読んでいます。

今回の情報の元ネタもその本に多く依拠しています。

その本の内容についても、またいずれ紹介しようと思っています。


それでは!


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2021年8月30日月曜日

【補足】SLEEP「睡眠の技術」皮膚に目がある、だと!

大事な事を書き忘れていたので……


 【補足】メラトニンのサプリに注意!

 メラトニンはホルモンだという事を忘れてはいけません。ビタミン剤とは訳が違うのです。常用すると受容体感度が鈍り、量がどんどん増えていくという負のスパイラルに。

副作用には十分気をつけましょう。


その他、眠りに効果的な植物。

・カモミール

 何千年も前から治療に使われているハーブ。

 皮膚トラブル、炎症、心疾患などに効果的。

 ティーにはアビゲニンと呼ばれるフラボノイドが豊富に含まれ、脳内のGABA受容体と結合し神経系の活動を鎮める。

 別名、眠りを誘うハーブ。


・カヴァカヴァ

 フィジーに生息する植物。

 不眠治療、疲労回復、不安軽減など。

 値をすりつぶしてお茶にする。


・ヴァレリアン

 寝つきを良くし、夜中の覚醒を抑制する。

 根をすりつぶし、薬として液体や粉末で服用する。


人間は決して夜行性の動物ではありません。

人間が他の動物よりも優位に立てるのは、五感や色の識別能力を用いられる日中です。

夜は眠りましょう。


それではっ!


本編はこちら → SLEEP「睡眠の技術」……皮膚に目がある、だと!


2021年8月28日土曜日

「蝉時雨」

 今日も”むし”暑い京都です。太陽が今にも落ちてきそうです。

そんな日でも私はまっすぐ太陽に立ち向かい、しっかりとその恩恵に与かってきました。

ビタミンDが合成されていくのを感じます(嘘ですが)。

「しかしこう汗をかいていると、できたビタミンDも一緒に流れていってるんじゃないだろうか?」


そんな事を考えながら歩く帰路、私は深い森に覆われた神社に立ち寄りました。

「ついでに最近覚えたアーシングもやっていくか。このぐらいの御利益なら賽銭無しでも恵んでくれるだろう」

参道には蝉の亡骸がいくつか落ちていました。

私はその仰向けに硬直した蝉を見ながら、

「本来ならこんな風に全裸で仰向けになってアーシングをしたいところだが、おそらくバチが当たる上に、もし人に見られようものなら社会的に抹殺されかねない。全身でアーシングしてましたと言って一体誰が信じてくれるだろうか?」

と思いながら通り過ぎました。


長い参道をしばらく歩き、やがて誰も居ない本殿に到着しました。

私はなぜあるのか分からない切り株に腰掛け、一息つきました。

巨大な樹に覆われて、辺りは薄暗くなっていました。

「じゃこの辺で」

すると上方から、大地に手を着いて”自己流”アーシング中の私に、蝉の鳴き声が一斉に降りかかりました。


ミミミミミーン、シャシャシャシャシャシャーン。


ハッとして上を見上げた私は、

「なるほど、多分これを”蝉しぐれ”というんだろうな」

と何故か妙に納得してしまいました。


街の中で耳に直接入ってくるようなセミの鳴き声と違って、ここでははるか上空からセミの声がまさに時雨(しぐれ)のように自分に降りかかってくるのです。

それはまさにシネコンもまっさおの「空からの立体音響」でした。


「なんか蝉の本気を見た、というか聴いたような気がする」


アーシングの効果のほどは定かではありませんが、少なくとも本物の”蝉しぐれ”によって癒されたことは確かです。

「言葉だけじゃ分からないことってるよな」

私はそそくさと本殿に一礼し、その場を後にしました。


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2021年8月27日金曜日

「人≒チンパンジー」 いや 「人>チンパンジー」 だ!

 今日私は、これまでバラバラの点として(無駄に)私の脳内に格納されていた情報が、今一つの線としてつながったような気がしました。

これまで固く絡まっていた糸が、追加の秘薬一滴で一瞬にしてほぐれたような、なにかそのような気持ちです。(意味不明ですが……)


以前紹介した記事で「チンパンジーがゴリラを殺す……」という内容のものがありますが、そこで私は「食料を巡って、人間も変わらない。いやそれ以上」という結論を述べました。

それと直接は関係ありませんが、ある大学講座の動画でこのような論文が紹介されていました。


人 ≒ チンパンジー > ゴリラ


説明すると、チンパンジーは人とゴリラ、DNA的に近いのはどちらか?という命題における結論です。

そう、チンパンジーは圧倒的に人に近いのです。

そして最も顕著にそれを説明できるのが「食」と「群れ」における習性です。


■食ついて

人、チンパンジー : 肉を常食する珍しい霊長類

ゴリラ : 基本フルーツのみ


■群れの構成

人、チンパンジー : 複数のオスに複数のメスで構成

ゴリラ : 1頭のオスに複数のメスで構成


「群れ」の構成は食に大きく依存しています。

何故なら、肉すなわち獲物(動物)を狩る為には一人よりも複数のオスによる連携の方が圧倒的に有利だからです。

そして必然的にグループ同士は縄張りを争い殺し合う事になります。

チンパンジーは人が殺し合うよりも殺し合っているとのことです。


男が徒党を組んで争う。

これは現代の人間においては例えば戦争や、その代案としてのスポーツの形で残っていますが、特に政治政党などは実に人間らしい群れ同士の争いといえるでしょう。

男同士はとにかく争います。

面白いデータとしては同性殺人の割合、すなわち女が女を殺す割合はほぼ皆無なのに対し、男は10代後半から20代前半、すなわちお年頃(繁殖期)に同性殺人が飛びぬけて多いという事。

そしてそのグラフはものの見事にチンパンジーと一致するそうです。

どうでしょうか、だんだん周りの人がチンパンジーに見えてきませんか?


で、ここまでで言いたかったのは人間とチンパンジーは似ているということなのですが、もっと言いたいのは、決して=(イコール)では無いという事。


それでは、次に「違い」について説明します。


同じように群れを作る人とチンパンジーですが、決定的に異なるのは、メスの振る舞いです。

人のメス?は群れるのが大好き(コミュ力が高い)ですが、チンパンジーのメス同士は群れません。(同じ群れの中にいるのに)

彼女らの人?生におけるコミュニケーションは、発情したときのオスと出産したときの子供、これだけです。


人に有ってチンパンジーに無いものがあります。

「老年期」です。

人のメス?は閉経後も実に長生きです。

ところがチンパンジーに閉経はありません、生涯現役です。現役のまま50歳前後で死ぬのです。

つまり、チンパンジーに老年期はありません。


ではなぜ人には老年期があるのか?(子供を産めなくなっても生きる必要があるのか)

それは群れの中できちんとした役割が用意されているからです。


人の群れは決して肉を獲るためだけに構成されている訳ではありません。

それよりもっと重要な意味があるのです。

それは子供を安全にたくさん育てるためです。


人のメスは毎年子供を産めますが、チンパンジーは3年かそれ以上の周期になります。

何故なら、子供に手がかからなくなるまでやっぱり3年ほどはかかるからです。

人の群れはそれを役割で解決しています。

老年期の男女、つまりおじいさんとおばあさんも一緒に子育てをするのです。


人は年と共に寝る時間帯が変化します。

赤ちゃん : 寝たり起きたり。

子供 :   21時    -    7時

青年 :       24時 -     8時

大人 :        26時   -   9時

老年 :   21時 - 26時


つまり、狩りや子育てで忙しい大人が寝るころ(26時)にジジババが起きて来て、赤子のお守りをしてくれたり、火の番をしてくれたりするのです。

実にうまい具合に出来ていると思いませんか。

更に女同士のコミュ力によって、お互いの子の面倒も見合える。

この群れ構成によって、女は毎年出産しても安全に子供を育てる事が出来、さらに閉経後も群れの中での役割を担えるわけです。


人が猿と分かれて300万年とも600万年とも言われますが、このような生活を人は太古の昔から営んでいたのです。


「そりゃ人口も増えるわけだ!」


現在の人間は「群れ」(ご近所付き合い)から核家族化、そして個人主義へ移行しています。

「食」と「安全」が確保しやすくなったからです。

ある統計によると、(ニュースを見る限りそんな風には思えませんが)現代の人間の殺人率は徐々に減っているそうです。

これも上述の理由からでしょうか。

チンパンジーとの「群れの構成」における共通点は今後さらに薄れていくのでしょうか?

いや、そうとも言い切れません。

ボノボというチンパンジーの仲間、というかチンパンジーがいます。

彼らはチンパンジーのような群れを作りません。

何故なら豊かな森に住んでいるので、狩りをする必要がない(肉食ではない)からです。

どうやら人間は、ボノボとチンパンジーの中を揺れ動いているようです。


しかし人間から老年期は無くなりません。(何万年後には分かりませんが)

役割を失った老人の生き方。これは非常に大きな問題です。

人は居場所が無ければ生きられません。

居場所とは、自分が居たいと思うだけでは作れません。

誰かに望まれ必要とされなければ、そこは居場所にはならないのです。


睡眠中にオキシトシン(心を鎮め、睡眠を促すラブホルモン)を得る最良の方法は、パートナーと(SEX含め)触れ合うことだそうです。

触れ合う事で、自分がパートナーを必要とし必要とされていることを実感し、オキシトシンが放出されるのだとか。


ショーペンハウアーがこんな事を言いました。

・老年期における貧困は非常な不幸である。

貧困が征伐され健康が保たれていれば、一生の内老年期と言われる部分は結構苦にならぬ年齢期である。


もちろんお金も大事ですが、どうやら現代の我々にはそれだけでは不十分なようです。

(ショーペンハウアーの時代とは生活スタイルもずいぶん変わってしまいました)

このようなことを踏まえ、老後の自分の立ち位置、居場所をしっかり確保する必要があるように思います。


孫の世話が出来るならそれは最良。

無理ならなにか社会貢献、サークル活動、SNSによる発信などなど。

とにかく「自分は生きていても良いんだ。あわよくばもっと生きたい」と思える何かを見つけましょう。


人 ≒ チンパンジー ではなく 

人 〉チンパンジー にならないと。


それではっ!


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2021年8月20日金曜日

「ヒツジ」は美しい。なぜ?

ヒツジが1匹、

ヒツジが2匹、

ヒツジが3匹、

……ヒツジが10匹……

……ヒツジが58匹……。


「ダメだっ、寝れない。ヒツジ数えたら寝れるんじゃないのか?」

私は布団の中で、ある意味ヒツジの呪いにかかっておりました。

「いやむしろ寝れなくなる。頭の中でヒツジがどんどん躍動していって、気が付くと壮大なスケールの大自然が展開されている」


ヒツジを数えると眠りにつきやすくなるという理由の一つとして、ヒツジをあらわす英語が「Sheep」で、それが眠りをあらわす英語「Sleep」に似ているからだというものがあります。なので頭の中で「シープ」を繰り返しているうちに「スリープ」、つまり「寝ろ寝ろ」と自己催眠がかかるという理屈なのですが、どうなんでしょう?

少なくとも、日本語では何の意味も無さそうです。


日本語、特に漢字におけるヒツジの意味としては全く別のものがあります。

「羊」

これに「大きい」を合成すると「美」。

羊は美しい。

なぜ?


「論語」によると、中国において「羊」は宗教的儀式で供物として捧げられていたようです。つまり人間の為に、その命を(強制的に)差し出していたのです。

ちなみに、羊に我を合成すると「義」。

まさに羊とは「犠牲」の動物であり、そして大きな犠牲は「美しい」のです。

要約すると「他者の為に自らの命を差し出す」、この究極の利他的行動こそが「美」であると。


サマセット・モームの小説「月と6ペンス」の主人公は、人の決めた善悪にこだわることなく究極の「美」すなわち「神の目」を追い求めました。

彼との会話に以下のようなものがあります。


「何をしても、全て一般的なルールからはみ出さないように行動しなさい」

「聞いたことも無いが、くだらん」

「カントの言葉ですよ」

「誰の言葉か知らんが、なんにしてもくだらん」


この小説では美について以下の階層構造が垣間見れます。






美は善悪を包含し、その概念を超えたもの。

つまり、善とか悪とかいうカテゴリーで綺麗に分割できないものが美であると。


論語の羊でいうと、羊を殺すことだけをみれば悪ですが、人の幸福を願う祷りは善です。

祷りの為に羊を捧げるという行為全体でみれば、それが単純に善悪では分けられないものになるのです。


ここで「美」の究極の事例を紹介しましょう。

「神風特攻隊」です。

自殺は悪です。もちろん戦争も(ある意味)悪です。

当時の軍令部の態勢とか、世論の在り方など色々あるでしょう。

しかし、命を投げ出して祖国を救うその志は大いなる善に違いありません。

まさに究極の利他的行動であって、究極の自己犠牲です。

美の定義として、ここまで述べてきた事が全て当てはまります。

ゼロ戦が敵艦船に急降下突撃する様をみて「美しい」と感じるのは私だけではないと思います。これがもしドローンだったらこうは感じないはずです。


神風と同じような行為として近年のイスラム原理主義者による自爆テロなどが挙げられますが、これは美ではありません。

根本的に異なっている部分があるのです。

自己を犠牲にはしていますが、その動機は決して利他的ではありません。

イスラムの死後の世界は、生前ジハードを為したものにとって桃源郷であり極楽浄土です。

飢えの無い絢爛豪華な世界で、美しい処女(少女)と毎日セックス。

敬虔な信者の動機としては十分です。

終末の後、自分は天国に行けますようにと祈るキリスト教や、南無阿弥陀仏と、死後極楽浄土へ往生できるよう祈る日本仏教もさして違いはありませんが。


利他的行動や自己犠牲は「愛」ととることも出来ます。

子を思う母の愛とか言いますが、それは美でしょうか?

日本の愛と違って古代ギリシャには4つの愛がありました。


1.agape    アガペー    神の愛、利他的な愛。

2.philo    フィロ    広く「好む」という意味

3.storge    ストルゲー    親子の愛、家族愛

4.eros    エロース    性愛、恋愛


もちろん最上の愛は1です。

3と4は低く見られます。

なぜなら、これらは人間だけでなく動物も普通に持っているからです。

すなわち古代ギリシャ的に捉えると、母の愛は美とはならないのです。


「美」について(たしか)幸田露伴はこう言いました。


美とは人間の主観であり、故に人間そのものである。

人間の数だけ美が存在すると言っても過言ではない。

ところで、例えば誰かにこれまでのあなたの人生、あなたの存在意義、あなたの抱く理念等、これらについて何かしらの手段を使って簡潔に説明して下さい、と言われた時、我々は一体どうするだろう?

画家はそれを一枚の絵で表そうとしたのだ。

それには本能(欲や情念)への隷属から自分を解放し、ただ理知(神)の目を持って自己を客観視する必要があった。

それは恐ろしく辛い作業である。

ただ理性と情熱だけをもって、欲を殺し、社会から孤立し、ただ自らの内に入ってそこで掴んだものを絵に写し取る。

そのような神に近い行為を持ってしなければ自分の美を外界で再現することは出来ないのだ。


そういえば村上春樹の小説に「羊をめぐる冒険」というものがあります。

彼はこの小説を書くにあたって次の動機を挙げています。

「まず第一に主人公が孤独な都市生活者であること。それから、彼が何かを捜そうとしていること。そしてその何かを捜しているうちに、様々な複雑な状況に巻き込まれていくこと。そして彼がその何かをついに見つけたときには、その何かは既に損なわれ、失われてしまっていることです。」


彼が羊や美を意識していたのかどうかは知るところではありませんが、人知から離れたところで何かを求め、同時に何かを失うというのは、美の崇高さと儚さに妙に一致するところがあります。


本来芸術家の追い求めているものはこれほど過酷なものであって、ほぼ一生涯をかけても辿りつけない境地にあるものなのです。

また、辿りついたところで誰も理解してくれないかもしれません。

いや、人の理解など求めてはいけないのでしょう。

それでも人は美を追求したくなるのです。

前回の記事で紹介した「探求心」の源、ドーパミンのせいでしょうか?

とにかく「知りたい」、ゆえに「探す」のです。

1,000匹目のひつじはどこにいるのか?

いや違う!

美はどこにあるのか、を。


それではっ!


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2021年8月13日金曜日

ある日の出来事「コーヒーなのかコーヒー味の白湯なのか、どっちなんだいっ!」

 「おっといけない!コーヒー、買っとかないと」

私は朝起きると、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れて飲むのが習慣になっているので、危うく在庫切れになりかけていた家のコーヒーの事を思い出して、スーパーで目に入ったあるコーヒーに手を伸ばした。


夏はずっとアイスコーヒーである。

熱い淹れたての濃いめのコーヒーを、氷一杯のグラスにゆっくりと注ぐ。

ストローをさして、たまにガムシロップを入れて、グラスの中を気が済むまでかき回してから一口。

至高のひと時である。

なんだか、一日の始まりをやさしく告げられたような、眠気をそっと拭い取ってくれたような、そんな気がする。

つまり、コーヒーは私にとって毎日を規則正しく過ごすために無くてはならない存在となっているのだ。


そして、今回スーパーで手を伸ばしたのはこのコーヒーだった。










安さに負けた。

頻繁に無くなるので、とにかく”半額”という通常の値段設定の理不尽さに戸惑いながらも、とにかく安さに負けたのである。

私は棚に大量に陳列されていたこのコーヒーを、とりあえず”騙されるわけはない”と思いながら騙されたつもりで購入した。


翌朝、私はいつものようにコーヒーメーカーでコーヒーを淹れた。

もちろん昨日購入したコーヒーだ。

「粒が粗い。それも異常に。まるでビーズのようだ」

私は少し嫌な予感がした。というより、これから”嫌な体験をするだろう”という、ほぼ確信に近い予想を抱いたのだ。


数分後。

コーヒーメーカーから景気よく湯気があがり、湯を吸い上げる「ゴボゴボゴボ」という音が聞こえてくる。

「良い音だ、癒される」

暫く待っていると、音が止んだ。

少しおいて、私は出来上がっているであろうコーヒーを見に行った。

インプット(入れた水)に対してアウトプット(出来たコーヒー)が異常に少ない。

「どういうことだ!ポットに穴でも開いているのか?」

私はまた嫌な予感がした。というより、これから”嫌な体験をするだろう”という、ほぼ確信に近い予想を再び抱いたのだ。


アイスコーヒーにして、一口飲んだ。

「?」

それはコーヒー、というよりコーヒー味の白湯に限りなく近かった。

「おい!こいつ、散々水分だけ吸収しておいて何も成分を出していないじゃないかっ」

私は「スーパーアメリカンかな?」と訝しんで、パッケージに目をやった。












一応、”コク”とか”香り”とか書いてある。

「いやいやいや、誤差だろぅ全部。そもそも5点満点の基準は一体なにと比較してのものなのだ」

私は一瞬、比較対象は水なのだろうか?とも思ったが、それでは陳列する棚が間違っている、桃水とかそういうものと一緒に並んでいなければならない。


私は一応自分の味覚を疑ってみたりもした。

でも牛乳は牛乳だったし、ゆで卵はゆで卵だったので恐らく問題は無い、というかいつもの自分のはずだ。

「こいつとこれから毎朝過ごすのか!それも割と多いぞ、これ」

私は朝から一種の絶望に近い……いや絶望を感じていた。

「未来が見えない、あぁ鬱になりそうだ」


もう少し冷静になろう。たかがコーヒーじゃないか。私は自分にそう言い聞かせ前向きな理屈をひとりごちた。

「いくらなんでもちゃんとしたメーカーが作って販売しているのだし、そこにはおそらく開発者がいて企画者がいて品質管理者がいて、それにエチオピアの生産者がいるはずだ。Goサインを出した責任者だっているわけだし、もしかしたら私の舌や鼻がまだ慣れていないだけなのかもしれない。きっと飲んでいるうちに良さが分かってくるさ」


本当にそうなればいいと思っている。

また明日の朝も淹れてみよう。

メーカーを信じるんだ。


それでも私は、スーパーで観たあの半額マークを貼られて棚にうずたかく積まれていた光景を、思い出さずにはいられなかった。


つづく……



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2021年8月9日月曜日

野生の体を取り戻す!「サケ最強説」

 オリンピックが終わり、若干のオリンピックロスと共に少なくない暇がもたらされた今日の私。さらに読書をするにはうってつけの台風日和ときた。

なので現在読書中(遅々として進まない)の「GoWild」で、またまた「ふーん」と思う所があったので暇に任せてちょっと紹介を。

とその前に、

紙媒体で読書をする人の必携「栞(しおり)」ですが、有ったはずなのに無いということはよく有ることです。

無くなった栞はいったいどこへいったのやら?

謎は深まります……

栞のことを考えていると「たまには気分転換も兼ねてこじゃれた栞でも」という気分になったので、早速散歩も兼ねて近所の文房具店に行って参りました。

はい、ありませんでした!

栞って文房具族に属していると思っていたのですが違うんですね。

もしくはたまたまその文房具店になかっただけなのか?

謎は深まります……

という訳でまた後日、今度は書店にでも行ってみようかと思います。


さて、ようやく「GoWild」の「ふーん」の件ですが、

その昔、狩猟採集を生活の基盤としていた人類は、やがて農耕技術を獲得することになりました。

「やった!これで安定して飯にありつける。もう命の危険を冒して動物を追いかけまわさなくても良くなったんだ!」

想像するにいい事づくめの農耕文化ですが、1つ大きな問題が起こりました。

栄養不足で病気或いは死亡する人が増えたというのです。

穀物(炭水化物)ばかりに依存して、それまで動物の内臓や脂肪、或いは木の実(ナッツ類)などから当たりまえに摂取していた栄養成分が圧倒的に不足したからだということです。

ちなみに、炭水化物は人の体に入ると糖に分解されます。

糖は人の体からは「毒」として認識されるため、すぐさまグリコーゲンに分解され、筋肉などを動かすための栄養源として利用されます。

なので、炭水化物をとりすぎるといつまでたっても脂肪が栄養源として利用されないので痩せない、太る、ことになるそうです。


さて、話を戻して、

そんな時、海や川の近くに住む人間が主要な栄養源としていたのがサケなどの回遊魚です。

サケは毎年きちんと同じ場所に戻ってきます。

そのうえ北太平洋をぐるっと回遊することで、実に多種多様なエサを食します。

結果、サケ自身の体が栄養の宝庫となるのです。

世界を駆け巡り(泳ぎまくり)人に必要不可欠な栄養素をたっぷりため込んで、定期的に人の元に帰ってきてくれるサケ。

こんな都合の良い生き物が他にいるでしょうか!?


ちなみにサケの栄養価をWikiからパクって、いや引用してきました。

100 gあたりの栄養価
エネルギー120 kcal (500 kJ)
0 g
食物繊維0 g
3.77 g
飽和脂肪酸0.84 g
一価不飽和1.541 g
多価不飽和0.898 g
20.14 g
ビタミン
ビタミンA相当量
(4%)
30 µg
チアミン (B1)
(7%)
0.080 mg
リボフラビン (B2)
(15%)
0.180 mg
ナイアシン (B3)
(47%)
7.000 mg
ビタミンB6
(31%)
0.400 mg
葉酸 (B9)
(1%)
4 µg
ビタミンB12
(125%)
3.00 µg
ビタミンC
(0%)
0 mg
ビタミンE
(7%)
1.09 mg
ミネラル
ナトリウム
(3%)
50 mg
カリウム
(9%)
429 mg
カルシウム
(1%)
11 mg
マグネシウム
(6%)
22 mg
リン
(40%)
283 mg
鉄分
(4%)
0.55 mg
亜鉛
(5%)
0.47 mg
他の成分
水分75.38 g
ビタミンA99 IU
コレステロール74 mg

みごとに炭水化物以外の栄養がしっかり詰まっています。

食生活に関しては、米とサケ食ってれば無問題!という感じにみえます。(あくまでも素人目には)

日本においては、サケが獲れるという理由で縄文文化が東日本でより高度に発達したという説も有るとか無いとか。

要は、魚を食べずに穀物(米、麺類など)ばかりに頼っているとヤバいよ!ということです。

何万年も人は狩猟採集のみで暮らしていたのですから当たり前ですね。


ちなみにサケ以外の回遊魚としては、イワシ,サバ,サンマ,カツオ,アジなどが挙げられます。

どれもご飯に合う食材ですが、まさか栄養的にもご飯にぴったりだったとは。


私は最近魚(さばやいわし)の缶詰をよく買っています。

安いし、凝縮されているので栄養価も高い、ということらしいです。


人間の体は20万年前からさほど変わっていない!

また一つ納得しました。


それではっ!


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2021年8月5日木曜日

ドラゴンフルーツを食べてみた。

 スーパーで半額セールだったので購入してみました。

ドラゴンフルーツ!


名前は知っていてもこれまで食べたことが無かったので、まず思ったのが、

「ど、どうやって食べるんだ。これ……」

でした。


まさか皮ごと食べれるタイプではあるまい、ならば

「とりあえず真っ二つにしてみるか、中を見れば対処の仕方も見えてくるだろう」

私はとりあえず包丁でざっくりいってみました。


赤、とみせかけて中は白か。

その上どことなくチョコミント的なつぶつぶまでトッピングされている。

さて、一体どう食べるのが正解なのだ?

スプーンですくう?それとも……


皮と果実の境目がわざとらしいほどにくっきりしている、まるで

「これをむいて食べるんだよ」と言わんばかりに。


私は試しに龍の鱗のような(見たことは有りませんが)真っ赤な皮をむいてみました。

「むける。スルッと」

その皮はまさにお菓子の包装紙同様、「保護と剥がしやすさ」を両立させた恐ろしく人間にとって都合の良い仕様になっていました。


私は、そのまま口に入れて「はい終了」というのも勿体なかったので、とりあえず何個かに切り分け、真ん中に爪楊枝を立ててみました。


「なんかちょっとオシャレになった。白い大学芋に見えなくもないが」

ドラゴンフルーツの正しい食べ方がどのようなものなのかは知りませんが、どうやらこれで食べられそうなのでそのままいってみました。


そして感想、

「イチジクとキウイを足して、(甘さ含め全ての)味を引いたもの」


触感はイチジクとキウイの間で、味はまさかの”無”

「なるほど、半額で売られてるわけだ」

納得した私です。


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2021年8月3日火曜日

「ヤドカリ君、自分ピュアやな」実はただの無知。

 その昔、聖地奪還を大義に掲げ、エルサレムを目指した十字軍。

しかし実際のところは、当時戦争が減って職を失った兵士の為の失業対策でした。

教化による幸福を理念に掲げ、大航海に乗りだしたカトリック諸国。

これも実際は植民地からの搾取による本国の経済対策でした。

美辞麗句に彩られた歴史的事実には必ずと言っていいほどその裏があって、実は裏こそが真の目的だったりするものです。


昔私の上司Aのパワハラともとれる振る舞いを、さらにその上の上司Bに相談したことがあるのですが、その時のBの言葉は今でも忘れません。

「保身……やな」

保身??当時の私にはそんな発想など微塵も無く、ただ単にAの性格的問題としか捉えられていなかったのですが、社会的地位が高くなればなるほど足の引っ張り合い、いかに競争相手を蹴落としてのし上がるかが当たり前の状況において、保身(如何に責任を逃れるか)に気を遣うのは当たり前の人間心理なのでしょう。

しかし処世術、人心掌握術に優れた人ならば、その心理もうまく隠して社会の荒波を乗り越えていくのでしょうが、どうやら当時のAにも私にもそのようなスキルは無かったようです。

私はBに「いや保身とかではなく……」とその後も頑張ってAの人間性云々を訴えたのですが、Bからは更にこんな言葉が返ってきました。

「ヤドカリ君、自分ピュアやな」

???ピュア

素直に受け取ると「純真、心が綺麗」というプラス評価の言葉なので、当時の私もその言葉の直接の意味そのままに受け取って割と悦に浸っていました。

でもその後、上述の「保身」云々のくだりも含めよくよく考えてみると、いやこれはむしろ反語、ある意味における皮肉、つまりは

「君、世間知らずの無知だねえ」

という意味なのではないだろうか、いや少なくとも半分はそうに違いないと思うようになりました。

今となっては恥ずかしい経験です。


物事に裏表が有るように、人間も必ず裏と表を持っています。

いつも鷹揚として穏やかな後輩が、実はねたみひがみの塊だったり、

人当たりの良い女子社員が、嫉妬にくるって裏でデマばかり流していたり、

まあいろいろある訳です。


結局何が言いたいのかと言うと、何かを本気でなそうとしたとき、必ず裏と表、その両輪が必要になるという事です。

本気の人は必ずその両輪を持っています。

Aは本気で生き残りたかったのでしょう、後輩は本気で出世を考えていたのでしょう、女子社員は本気で幸せが欲しかったのでしょう。

例えば好きな子に振り向いてもらいたいとき、いつもの自分をありのまま見せる人はいません。心の中には欲望が渦巻いていますが、表面では「素敵な自分」を演出します。

企業も同じです。

裏では日々利益を追求し一円でも儲ける方法を考えていますが、公表する企業理念(表)には美辞麗句が並んでいます。


ここまで「本気」の前提として裏表の所有をあげましたが、

この裏表が両輪として正しく機能している「人」或いは「企業」或いは「国」が成功するのだと思います。(ちなみにここでいう成功とは自己実現のことです)

十字軍だって大航海だって大義(表)と実利(裏)、その両面がきちんと両輪として機能したからこそ実現できたのですから。


裏表のない人になりなさいと言われた?

……なんだその薄っぺらい人間は。

裏も表も厚くするのです!

そうすれば人から裏は見えなくなりますし、表の重さに耐えられなくなることも無いでしょう。


私も裏と表をうまく張り合わせて、厚みのある人間になりたいものです。


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2021年8月1日日曜日

「適当」がもたらす快眠!

 八月に突入した日曜日の今日。

久しぶりによく眠れました。

熟睡した後の目覚めのなんと気持ちの良い事。

夏まっさかりだというのに汗もそれほどかいておらず、目を開いて見慣れた天井を見つめながら「ん?まだ夢の中か?」と訝しんでおりました。

思えばこのところ、まるで猫の目のように「よく眠れるとき」と「眠れないとき」がくるくる入れ違いにやってくるような気がします。

そしてその原因は明確で、入眠がスムーズであるかないか、に大きく依存しております。

ではなぜスムーズなときとそうではないときがあるのか?

きっと一日の過ごし方になにか違いがあるはず!

私は思い当たることを並べて考え、ある一つの推論を導き出しました。


「快眠の日は、体と頭を適度に使っている」


今のところこれしか思い当たりません。

昨日は図書館まで1時間ほど(半強制的に)散歩をしました。

そして夜は最近始めたYouTubeの動画作り、およびそのアイデアなどに苦心しておりました。

作業を終えた時には「あぁ、気になってまた眠れそうにないな」と、ある種の諦観に浸っておりましたが、床に就いた途端にそれ以降の記憶を失いました。


「ストレスは悪い、避けなければ!」

「ストレスフリー、ストレスの無い人生を!」

などと、昨今よく目にするフレーズですが、実体験から言うと程度問題だと思います。

以前の記事にも書きましたが、

トーマス・マン著 『ブッテンブローク家の人びと』

我が子よ、昼は仕事に喜びもて励め、されど、夜、安らかに眠れるごとき仕事にのみ励め。

くらいのストレス(仕事など)はむしろ必要なのだろうと思っております。


中々寝付けない夜は、だいたい日中に「強いストレスを受けた」或いは「全く何もしなかった」場合が多いように思います。

何事もそうだと思いますが、多すぎても少なすぎても良くありません。

特に「薬」などの強い作用を有するものは当然副作用も強いわけで、適量適当を心掛ける必要があるのだと思います。

「ストレス」や「筋トレ」などももちろんそれに該当し、個人個人の器に合わせて自分自身で処方(コントロール)する必要があるように思います。


過信は禁物ですが無関心も禁物です。

「適当」をこころがけて生活しましょう。


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2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...