2021年12月23日木曜日

果汁100%ジュースはジャンクフード?

ついさっき暑くて熱いオリンピックで盛り上がっていたかと思うと、もう目の前に大晦日が見えてきました。

いつから時の流れってこんなに速くなったのでしょうか?

このようにあらゆるものが移り変わっていくのですが、相変わらずコロナだけは安定継続中のようです。

さて、年末年始。

もういくつ寝るとお正月?

それでもやっぱり日本人にとってこの時期はお目出度いのです。

そして必然的に暴飲暴食の時期でもあるのです。

一時的な過食ならまあなんとかなるのでしょうが、とかく現代人は定常的にその状態になりがちです。

現代病と言われて久しい糖尿病や高血圧、高脂血症などはまさにその結果に他なりません。

我々の体はとにかく糖と脂肪に目が無いのですが、その理由はそもそもそれらがめったに手に、いや腹に入れる事が出来ないにもかかわらず重要なエネルギー源だからです。

人間はその大きくて燃費の悪い、更に数十秒もエネルギー供給を止めれば機能停止してしまう「脳」という臓器を有する宿命として、主に以下2つの改変を体に施しました。


1.腸を短くする

 ミミズのような下等生物は身体のほとんどが腸(消化吸収器官)で占められています。

 ところが哺乳類など大きな脳を有する高等生物は、エネルギーの分配比率を脳の方に振り分けるために、身体に対する腸の比率をかなり下げました。

 その最たる生物が人類です。

 一説によると、人間は腸を元来の約半分の長さにして、その分だけ脳を大きくする進化を選択しました。

 「腸は第二の脳」などとよく言われ、消化吸収だではなく性格や気分を左右するホルモンなどの生成も行っています。

 考えてみれば身体にはもともと腸しかなかったのですから、それは至極当然です。

 むしろ「脳は第二の腸」と言えるかもしれません。


2.エネルギーを貯蔵しやすくする

豊かな森の中で果実などを食べて暮らす類人猿などは、基本的に飢餓のリスクがありません。なので体に無駄なエネルギーを脂肪として貯蔵する必要がないどころか、あると活動の妨げになります。

ところが二足歩行で森を出て狩猟採集の道を選んだ人類は、ともすれば数日間食事にありつけない事はざらにあり、常に飢餓のリスクを背負って生きていました。

なのでエネルギーを体脂肪に変えて自らの身体に貯蔵する方式をとりました。

人間の赤ちゃんがあんなにも丸々と太っているのは、一刻も早く脳を大きくするために脂肪をたっぷり蓄えて生まれてくるからです。

ところが、狩猟採集時代の人類は今と違ってたくさん活動するので、いわゆる現代病にかかることはありませんでした。

エネルギー収支のバランスがとれていた訳です。



さて、人類はこのように必要に迫られて身体を進化させてきたわけですが、産業革命以後、文化的進化が身体的進化の速度を大きく上回ったことにより様々な弊害を生むことになりました。

それらの一つが上述した現代病です。

原因ははっきりしていて、「食べすぎ&動かなすぎ」、以上となります。

様々なウィルスや病原菌に打ち勝ってきた人類がこの問題を解決できない大きな理由の一つは、高度に発展した資本主義にあると思われます。


糖尿病になるまでの経過をざっくりと説明すると、

1.糖を体に入れる

2.血糖値が急上昇する

3.血糖値を下げるために膵臓がインスリンを放出する

4.インスリンに反応して脂肪や筋肉、肝臓が糖を取り込む

5.血糖値が”グッ”と下がる

6.血糖値の急激な下降により空腹感が刺激される


後は再び1.に戻って無限ループが続きます。

デザートは別腹なのはきちんとした理由があって、主に6.の効果によるものです。

このループを繰り返していくと、やがて膵臓は疲れ果て、インスリンが出せなくなって、糖が分解されなくなります。

過剰な糖は基本的に体にとって毒です。

やがて糖尿病になり、インスリン注射を定期的に打たないと生きていられなくなります。

恐ろしいデスループです。


ここで注目したいのは2.です。

なぜ急激に血糖値が上がるのか?

結論としては、お菓子メーカーなどがそのような食品を作り、それを我々が好んで食するからです。

例えば健康に良いとされている「果汁100%ジュース」ですが、これもまさに急激に血糖値を上げる食品の一つです。

マラソンやロードバイクレースなどでもコーラなどと同じ扱いでオレンジジュースを摂る事がありますが、それは激しい活動で下がった血糖値をあげるためのものとしては理にかなっている訳です。

なぜそれらの加工食品が急激に血糖値を上げるかというと、食物繊維を完全に取り除いているからです。

食物繊維は消化を緩やかにし、血糖値の上昇を抑えます。

さらに腸内をスムーズに通過させる効果もあります。(便通が良くなる)

なので決して2.の状態にはなりません。

つまり、蜜柑はあまいデザートと違って別腹にはならないのです。


ではなぜメーカーは食物繊維を取り除くのかというと、それが資本主義経済たる所以となります。

食物繊維は腐るのです。(更に言うと取り除いた方が美味しくなるのです)

なので取り除くと美味しくなったうえに消費期限がぐっと伸びて資本主義経済的には最高なのです。

オレンジジュースはなかなか腐りませんが、蜜柑やリンゴはすぐに痛みます。

という訳で、いくら果汁100%だろうと食物繊維を除去している時点でジャンクフードと同じ立ち位置だという訳です。


生の果物に関して言えば、恩恵は食物繊維だけではありません。

それらの果物に常在している細菌類を摂取することで、腸内フローラにも好ましい影響を与える事ができます。

完全除菌の加工食品からはそのような恩恵はうけられません。


ついでに書きますが、

産業革命の遥か以前、人類が農業を始めて「主食」という定義が出来た頃、アジアでは主に「米」がそれが該当しました。

この米も精米によって食物繊維を除去し、白米として売られている訳です。

そのほうが日持ちがして、もしもの時の保存食として都合が良かったわけです。

(欧州の麦も同様です)

結果、白米は澱粉(糖)の塊となって、美味しくて長持ちする主食という地位を得ました。


さて、長くなりましたが、これが現代病がなかなか根本解決できない1つの原因です。

我々はこれからも資本主義経済のジレンマと付き合っていかなければならないのです。

でも個人の意識次第で如何様にも変えられることです。

かなり苦しいですが、まあ知っているだけでも対処は随分変わってくると思われます。


それでは!


■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。
  ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年12月14日火曜日

『三四郎(一)』夏目漱石を読んで-人の思いは変わるものである?

 昔一度読んだことは有るのですが、今回夏目漱石の『三四郎』を改めて”朗読”という形で読み直す機会を得ました。

第一話は、晴れて熊本の高校を卒業した三四郎が、大学生活に不安と期待に胸を膨らませながら汽車で上京するシーンから始まります。

三四郎は汽車の中でまず最初の洗礼を受けます。様々な人生を生きる様々な人の姿を目にするのです。

それは、三四郎が生まれて初めて抱く未知の世界に対する瑞々しい心象風景として描かれます。

その人々の中に、ある学者風の男がいました。

その男は羨望と諦めの眼差しで西洋人を評し、同時に日本を冷笑するかのような言葉を三四郎に投げかけます。

日露戦争直後のことでもあり、三四郎は多くの日本人と同様に自国に対する誇りと明るい将来への漠然とした希望を抱いていました。と同時に、彼もまた(その男とは趣が少し異なってはいましたが)西洋人に対する諦めに似た羨望を抱いていました。

このシーンにおいて、私は三四郎とこの男との関係が、恐らく漱石自身の若いころと現在とを反映したものなのだろうと感じずにはいられませんでした。

以前読んだ時には全くそんなことは感じませんでした。

同じ物語でも、読者のその時の立ち位置によって、感じ方や見え方はこうも変わるものかと不思議に感じました。


人が望郷の念を感じるのには理由があると、何かの本で読みました。

それはただ故郷を懐かしんでいるのではなく、当時の自分を懐かしんでいるのだという事です。幸福で希望に溢れ、元気はつらつとした(と想定する)当時の自分に郷愁を感じているのだと。

例えば音楽でも同様の事が起こります。

若くがむしゃらだった暑い夏に聞いた曲、別れ話をしていた寒い冬に車内で流れていた曲、いずれも今聴くと当時の感情が鮮やかに蘇ってきます。

或いは匂いでも同様です。

線香の香りや釜を焚く炭の匂いなどは、幼いころ祖父母の田舎で無邪気に遊んでいたときの情景が目に浮かんできます。それらの匂いを人は安心感や幸福感などの感情と結び付けて記憶しているのです。


こう考えると三四郎を書いた時の漱石も、やはり当時の感情を汽車の石炭の匂いや、水蜜桃の味や、汽笛の音などで感覚的に思い出していたのではないでしょうか?

文章だけで味覚や聴覚や嗅覚などを、ましてやその時に想起される個人的な感情などを作者と共有するのはまず不可能だと思いますが、それらを自分の記憶に照らし合わせて推測してみると、また違った味わいが出てくると思います。

そういう意味において同じ本を期間をあけて再読するという行為は、その間の人生経験の分だけ、より深く更に鮮やかな感情を読者にもたらせてくれるのだと思います。

そして、それが後世に残る名著の所以だと思いました。


それでは!

■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年12月10日金曜日

『歯車』芥川龍之介を読んで-彼はなぜ狂ったのか?

 『歯車』芥川龍之介を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。

まあ、ずいぶん時は経ってしまっているのですが……


この小説は芥川自身を主人公としたもので、当時の彼がいかに悩み苦しんでいたかがその内容から窺い知ることが出来るものです。

彼の視界には時々半透明の歯車が現れ、それがぐるぐると回りだし、やがて激しい頭痛を伴う発作へと彼を誘います。

これ、もう完全に強度のストレスによる鬱や統合失調症の症状ではないでしょうか?

かなり苦しかったと思います。

なにしろ最後には「もうこれ以上書けない。誰か絞め殺してくれ」で括っていますから。


原因は様々だと思いますが、私はその内の一つに「自尊心の肥大」があるように思いました。

自尊心にも色々ありますが、ここで言う自尊心とは、つまりこういう事です。


今、私はガムを噛んでいる。

でも味がしなくなったので口から出したい。

どこに捨てようか?

周りには誰も居ない。

しれっとここに吐き捨ててしまおうか?

でも罪悪感が……

でも、まあいいかこのくらい。今回だけ良いような気がする。


というささやかな心の葛藤の後で、思い切って道端にガムを吐き捨てます。

悪いことと分かっていながら、罪悪感を少しでも緩和する為に様々な自己弁護を展開して実行するのです。

ところが、もし他人が同じような行動をとるのを目撃した場合、どう感じるでしょうか?

恐らくこう思うのではないでしょうか。

「最悪な奴だ、常識を持ち合わせていないのか?信じられない」


何が言いたいかと言うと「人間は自分だけを特別扱いにする、いや、”出来る”生き物だ」ということです。

つまりこれが「自らを尊ぶ心」という自尊心の一要素だと思います。

これはある意味での自我であり、それは他人と自分とを明確に区別できるという能力でもあります。

人類が群れの中で協調して生きるためには高度なコミュニケーション能力が要求されます。

そのコミュニケーションという行動を成立させるためには、自分と他人の区別がつき、他人が何を考えているのか想像できなくてはなりません。

それは共感力と呼ばれます。

喜びも悲しみも苦しみも、その人の身になって想像し、その感覚を自分のものとして追体験することが出来る能力です。

さて、この人間特有の能力によって人類にもたらされたのはもちろん良い事ばかりではありません。

(一概には言えませんが)悪いことの一つに「嘘」があります。

人は(ある状況下において)平気で嘘をつけるようになったのです。

たとえばおべっかやお世辞、或いは人を鼓舞する為に褒めたり、或いは貶したり。

これは共感の能力が無ければ成立しません。他人が何を考えているか想像できるからこそ嘘がつけるのです。

実際、自閉症の人は嘘がつけないと言われています。

意味が無いと思っているからです。

彼らは、自分の考えている事は全て他人も知っていると思っているのです。

これは自分と他人との境界が限りなく薄くなっている、言い換えると自我が希薄な状態であると言えます。

皮肉なことですが、自他との境を捨て、嘘をつかずに生きるというのは、まるで解脱した聖人を表しているようにも思えます。


人間の生みだした映画や小説や芸術などの文化は、全てそれが嘘であると理解していながら、あたかも現実の体験としてそれを受け取る事ができるこの共感力なくしては成立しないものだと思います。

悪く言うと、作り手も受け手も全てが嘘つきの俗人だということです。

ネアンデルタール人は脳の量量が我々ホモサピエンスと同等だったにもかかわらず、文化的進化の遅れによって滅びました。

彼らは嘘のつけない、そして共感力の乏しい聖人でした。


芥川の話に戻すと、彼は極度に強い”自尊心”と”共感力”の持ち主のように思えます。

そしてそれ故、社会が自分に対して正当な評価を下していないという妄想を抱いていたように思います。


芥川の他の作品(例えば「闇中問答」)でもありましたが、彼は自分の受ける報酬や名声にかなりの失望を感じていたようです。

また本作では、彼は周囲が自分の事を「先生」と呼ぶのに酷い嫌悪感を抱いています。彼らは自分を「先生」とへりくだって呼びながら、内心では自分の事を嘲り、馬鹿にしていると感じています。更に自分の義兄も常に自分を卑下していたと感じています。


これらはいずれも高すぎる彼の自尊心と共感力が、その想像を誤った領域にまで立ち入らせた結果のように思えます。

恐らく彼は、

「人間は嘘をつくことが出来る」ではなく、

「人間は嘘しかつかない」

と思うようになってしまったのではないでしょうか?

そしてその人間の中に自分自身も含んでいるのですから、これはたまらないでしょう。

いつの間にか、彼はその強すぎる自尊心のために自分で自分を卑下するようになりました。


自尊心でも共感力でも何でもそうですが、強すぎても弱すぎてもダメです。

その反動は必ず顕れます。

しかし、その結果としてこの大作家なのかもしれません。


彼は暗闇の中で猜疑心にまみれて苦しみました。

とにかく、辛かったでしょう。


この作品を読んでそう感じました。


それでは!

■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...