2021年12月14日火曜日

『三四郎(一)』夏目漱石を読んで-人の思いは変わるものである?

 昔一度読んだことは有るのですが、今回夏目漱石の『三四郎』を改めて”朗読”という形で読み直す機会を得ました。

第一話は、晴れて熊本の高校を卒業した三四郎が、大学生活に不安と期待に胸を膨らませながら汽車で上京するシーンから始まります。

三四郎は汽車の中でまず最初の洗礼を受けます。様々な人生を生きる様々な人の姿を目にするのです。

それは、三四郎が生まれて初めて抱く未知の世界に対する瑞々しい心象風景として描かれます。

その人々の中に、ある学者風の男がいました。

その男は羨望と諦めの眼差しで西洋人を評し、同時に日本を冷笑するかのような言葉を三四郎に投げかけます。

日露戦争直後のことでもあり、三四郎は多くの日本人と同様に自国に対する誇りと明るい将来への漠然とした希望を抱いていました。と同時に、彼もまた(その男とは趣が少し異なってはいましたが)西洋人に対する諦めに似た羨望を抱いていました。

このシーンにおいて、私は三四郎とこの男との関係が、恐らく漱石自身の若いころと現在とを反映したものなのだろうと感じずにはいられませんでした。

以前読んだ時には全くそんなことは感じませんでした。

同じ物語でも、読者のその時の立ち位置によって、感じ方や見え方はこうも変わるものかと不思議に感じました。


人が望郷の念を感じるのには理由があると、何かの本で読みました。

それはただ故郷を懐かしんでいるのではなく、当時の自分を懐かしんでいるのだという事です。幸福で希望に溢れ、元気はつらつとした(と想定する)当時の自分に郷愁を感じているのだと。

例えば音楽でも同様の事が起こります。

若くがむしゃらだった暑い夏に聞いた曲、別れ話をしていた寒い冬に車内で流れていた曲、いずれも今聴くと当時の感情が鮮やかに蘇ってきます。

或いは匂いでも同様です。

線香の香りや釜を焚く炭の匂いなどは、幼いころ祖父母の田舎で無邪気に遊んでいたときの情景が目に浮かんできます。それらの匂いを人は安心感や幸福感などの感情と結び付けて記憶しているのです。


こう考えると三四郎を書いた時の漱石も、やはり当時の感情を汽車の石炭の匂いや、水蜜桃の味や、汽笛の音などで感覚的に思い出していたのではないでしょうか?

文章だけで味覚や聴覚や嗅覚などを、ましてやその時に想起される個人的な感情などを作者と共有するのはまず不可能だと思いますが、それらを自分の記憶に照らし合わせて推測してみると、また違った味わいが出てくると思います。

そういう意味において同じ本を期間をあけて再読するという行為は、その間の人生経験の分だけ、より深く更に鮮やかな感情を読者にもたらせてくれるのだと思います。

そして、それが後世に残る名著の所以だと思いました。


それでは!

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