2021年12月10日金曜日

『歯車』芥川龍之介を読んで-彼はなぜ狂ったのか?

 『歯車』芥川龍之介を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。

まあ、ずいぶん時は経ってしまっているのですが……


この小説は芥川自身を主人公としたもので、当時の彼がいかに悩み苦しんでいたかがその内容から窺い知ることが出来るものです。

彼の視界には時々半透明の歯車が現れ、それがぐるぐると回りだし、やがて激しい頭痛を伴う発作へと彼を誘います。

これ、もう完全に強度のストレスによる鬱や統合失調症の症状ではないでしょうか?

かなり苦しかったと思います。

なにしろ最後には「もうこれ以上書けない。誰か絞め殺してくれ」で括っていますから。


原因は様々だと思いますが、私はその内の一つに「自尊心の肥大」があるように思いました。

自尊心にも色々ありますが、ここで言う自尊心とは、つまりこういう事です。


今、私はガムを噛んでいる。

でも味がしなくなったので口から出したい。

どこに捨てようか?

周りには誰も居ない。

しれっとここに吐き捨ててしまおうか?

でも罪悪感が……

でも、まあいいかこのくらい。今回だけ良いような気がする。


というささやかな心の葛藤の後で、思い切って道端にガムを吐き捨てます。

悪いことと分かっていながら、罪悪感を少しでも緩和する為に様々な自己弁護を展開して実行するのです。

ところが、もし他人が同じような行動をとるのを目撃した場合、どう感じるでしょうか?

恐らくこう思うのではないでしょうか。

「最悪な奴だ、常識を持ち合わせていないのか?信じられない」


何が言いたいかと言うと「人間は自分だけを特別扱いにする、いや、”出来る”生き物だ」ということです。

つまりこれが「自らを尊ぶ心」という自尊心の一要素だと思います。

これはある意味での自我であり、それは他人と自分とを明確に区別できるという能力でもあります。

人類が群れの中で協調して生きるためには高度なコミュニケーション能力が要求されます。

そのコミュニケーションという行動を成立させるためには、自分と他人の区別がつき、他人が何を考えているのか想像できなくてはなりません。

それは共感力と呼ばれます。

喜びも悲しみも苦しみも、その人の身になって想像し、その感覚を自分のものとして追体験することが出来る能力です。

さて、この人間特有の能力によって人類にもたらされたのはもちろん良い事ばかりではありません。

(一概には言えませんが)悪いことの一つに「嘘」があります。

人は(ある状況下において)平気で嘘をつけるようになったのです。

たとえばおべっかやお世辞、或いは人を鼓舞する為に褒めたり、或いは貶したり。

これは共感の能力が無ければ成立しません。他人が何を考えているか想像できるからこそ嘘がつけるのです。

実際、自閉症の人は嘘がつけないと言われています。

意味が無いと思っているからです。

彼らは、自分の考えている事は全て他人も知っていると思っているのです。

これは自分と他人との境界が限りなく薄くなっている、言い換えると自我が希薄な状態であると言えます。

皮肉なことですが、自他との境を捨て、嘘をつかずに生きるというのは、まるで解脱した聖人を表しているようにも思えます。


人間の生みだした映画や小説や芸術などの文化は、全てそれが嘘であると理解していながら、あたかも現実の体験としてそれを受け取る事ができるこの共感力なくしては成立しないものだと思います。

悪く言うと、作り手も受け手も全てが嘘つきの俗人だということです。

ネアンデルタール人は脳の量量が我々ホモサピエンスと同等だったにもかかわらず、文化的進化の遅れによって滅びました。

彼らは嘘のつけない、そして共感力の乏しい聖人でした。


芥川の話に戻すと、彼は極度に強い”自尊心”と”共感力”の持ち主のように思えます。

そしてそれ故、社会が自分に対して正当な評価を下していないという妄想を抱いていたように思います。


芥川の他の作品(例えば「闇中問答」)でもありましたが、彼は自分の受ける報酬や名声にかなりの失望を感じていたようです。

また本作では、彼は周囲が自分の事を「先生」と呼ぶのに酷い嫌悪感を抱いています。彼らは自分を「先生」とへりくだって呼びながら、内心では自分の事を嘲り、馬鹿にしていると感じています。更に自分の義兄も常に自分を卑下していたと感じています。


これらはいずれも高すぎる彼の自尊心と共感力が、その想像を誤った領域にまで立ち入らせた結果のように思えます。

恐らく彼は、

「人間は嘘をつくことが出来る」ではなく、

「人間は嘘しかつかない」

と思うようになってしまったのではないでしょうか?

そしてその人間の中に自分自身も含んでいるのですから、これはたまらないでしょう。

いつの間にか、彼はその強すぎる自尊心のために自分で自分を卑下するようになりました。


自尊心でも共感力でも何でもそうですが、強すぎても弱すぎてもダメです。

その反動は必ず顕れます。

しかし、その結果としてこの大作家なのかもしれません。


彼は暗闇の中で猜疑心にまみれて苦しみました。

とにかく、辛かったでしょう。


この作品を読んでそう感じました。


それでは!

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