2021年9月27日月曜日

「The Secret World of Sleep」年と共に睡眠の質は低下する!

 昨日は折角の休日だというのに私の体調は最悪でした。

何故だか体が重く朝からずっと眠い、とにかく眠い。そのまま夕方になっても眠いので、このまま明日の朝まで眠れてしまうのではないだろうか?などと思いました。

「なぜこんなに眠いのだ?まだ筋トレの疲れが残っているのだろうか?」

とも考えましたが、世間ではいつの間にか、何の相談も無く台風が接近していたようで、もしかするとその急激な気候の変化に体がついていけていなかったのかもしれません。


打って変わって本日は晩夏の快晴。

清々しい天気に昨日の不調もどこ吹く風、私の体調はすっかり回復していました。

まるで自然を忌避しているかのように遠ざけていく現代の都市生活の中にあっても、やはり我々の身心は自然と共にあるようです。

人生に、生活に、社会に疲れた時、人は自然の中に回帰しようとしますが、これは至って自然な行為なのだと思います。

都市生活は心にとって実に複雑で高負荷ですが、五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)にとっては実に単調で低刺激です。空の見えない密室の中に在っては、五感は麻痺しているも同然なのです。

それに比べると自然は心にとっては穏やかですが、五感にとっては実に複雑で刺激的です。

美しい景色、小川のせせらぎや鳥のさえずり、大地を踏みしめる感触、木々や海の匂い、おいしい水や果物、いずれも我々の感覚を生き生きと蘇らせてくれます。

とまあ、こんな事を書いていると、またどっか散策に行きたくなりました。

早くこの異常事態が収束しないものかと切に願う日々です。


さて、前置きが長くなりましたが。

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」の一応最終回です。(原題「The Secret World of Sleep」)


人は年をとると睡眠時間が短くなるということは、おおよそにおいて体感、或いは周囲の状況から察することが出来ると思います。

年齢によるその時間差が、太古の昔には集団の保全に役立っていたことは以前の記事【「人≒チンパンジー」 いや 「人>チンパンジー」 だ!】に書きました。

しかし、やはり睡眠時間が短くなるということは老化そのものであり、またそれを促進することにも直結します。

何故なら、ただ時間が短くなるだけではなく、(以前の記事【「The Secret World of Sleep」寝たのに疲れる理由とは?】で説明した)徐波睡眠がハッキリ減少するという弊害を伴っているからです。

徐波睡眠は疲労を取り除き、記憶を整理するという重要な役割を担うパートなので、これが減少すると当然疲れは抜けず、記憶の固定がされづらくなって記憶力が低下します。

なので昨今の長寿社会において、老年期の睡眠はそれまでに増して重要になってきます。


ではその重要な徐波睡眠をどう確保すればよいのか?


本著で紹介されている手法の一つに、午睡をとるというものがあります。

もちろん前述した私のように朝から夕方までうとうとしていては、本来夜にとるべき睡眠が犠牲になってしまうので、あくまでうたた寝程度にとどめる必要があります。

本著では、午後の睡眠は一般的に徐波睡眠であると紹介されています。

つまり睡眠の第3段階です。

これを越えて第4段階にまで入るとレム睡眠に移行してしまうので注意が必要です。

あくまで午睡は「うたた寝」が最適です。


仕事中でも昼食を採って暫くすると眠くなってうとうとすることがありますが、(許されれば)思い切ってうたた寝をすると、午前の(頭や体の)疲れが取れ、リフレッシュされるので業務効率の向上に効果的なのですが、今のところ日本の企業風土においてはそのような志向にはなっていないようです。

(ちなみにアメリカの某大手IT企業などは、自由にうたた寝がとれる環境を完備している所もあるのだとか)

いずれ、日本の先進的な企業もこれに追随していくのではないでしょうか?


このように軽く昼寝をして夜はしっかり眠ることで、老化の弊害を最小限に食い止める事ができるようです。


また、睡眠には全くの静寂、無音の環境よりも、むしろ自然のものに近い音環境が効果的だという研究結果もあります。

英国のいくつかの病院では、鳥のさえずり、波の音、ときにはいびきの音まで含んだサウンドスケープが導入されているようですし、インターネットで人気のバイノーラル・ビート(両耳性うなり)の異なる周波数を両耳で聴かせる音楽も人気です。


最後に貴重な夜の睡眠前の食事について一つ。

一般的に就寝の3~5時間目に食べるものは、睡眠の質を左右すると言われています。


・眠気を誘う食品としては以下のものが挙げられます。

ヨーグルト、ホットミルク、チーズ、豆乳、はちみつ、マグロ、バナナ、ジャガイモ、アーモンド、豆腐など。

つまり主に良質のたんぱく質。


・逆に睡眠の質を低下させてしまうものとしては、

コーヒー、チョコレート、アルコール、チラミンが含まれる食品、

コショウ、燻製の肉や魚など。

つまり主に刺激物!


不眠っぽいなと思ったら、これらに気を付けて夕食のメニューを組んでみてもいいかもしれません。


さて、如何だったでしょうか?

近年は睡眠についての研究や、それに伴う著作物も多く出版されています。

それだけ睡眠という行為が我々人間にとって重要で、これまで想像もしていなかった効果を我々の身心に及ぼしていた事が次々に解明されていることの証拠なのだと思います。

睡眠についての研究は、恐らくこれからまだまだ発展していくでしょう。

来年には、もしかすると今日の常識は非常識になっているかもしれません。


でも確実なのは一つ、

「我々人類は、こと身心において原始人の頃とさほど変わっていない」

という事実です。

これさえ押さえておけば、様々な学説も何となくその是非が推察できるのではないでしょうか?


まだまだ私の睡眠学習?の旅は続きます。


それでは!

 
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2021年9月22日水曜日

衣笠選手の特集を観て……意味づける!

 ついさっき、某NHKで衣笠選手の17年間連続試合出場の特集を放送していたので、途中からだが一応最後まで観た。

実は私は記念すべき当ブログの初投稿記事において、フランスのサッカー選手の差別的行為について述べたついでに、当時たまたま知った衣笠選手のインタビュー記事を引用したことがある。

なので、今回も”たまたま”チャンネルが合っこの特集に興味をそそられたのだ。

特集では、氏の17年にわたる努力、葛藤、そしてスランプの時の苦悩について淡々と描かれていた。

特にスランプの時のエピソードは、まるで網に掛かった魚が身もだえしているような焦燥と、逆に金縛りにあったように体が動かなくなる恐怖とが入り混じって、思わず手に力が入ってしまうような緊迫感を私に抱かせた。

残念ながら連続イニング出場回数はそこで途切れてしまうのだが、それでも連続試合出場記録は続いていく。

監督やチームメイトなども氏の扱いや接し方にかなり気を遣っているようだ。

ただ、球団の経営層や一部ファンからは「もう変えろ」の声も聞こえてくる。

それらの期待や批判の声を背中で受け留め、氏はたとえデッドボールで骨折しても打席に立ち続ける。


ある日、氏がシーズン中に宿泊しているホテルの一室にカメラが入った。

そこには読書をする氏の姿があった。

本のタイトルは正確に覚えていないが、確かゴルフをする時の心がどうこうという類の古い本だったように思う。

野球選手がなぜゴルフの本を?と私は思ったのだが、氏によると、それは遠征先にも持っていくほど大事な本なのだそうだ。

氏は本の内容を一言でこう言い表した。

「とにかく練習しろ!」

いかに鉄人と呼ばれる「衣笠」でも、やっぱり疲れて練習をさぼりたい日もあるそうで、そんなときにこの本を読んでモチベーションを上げるらしい。

氏は続けてこう言う。

「練習するとね、ただ野球がうまくなるだけじゃないんですよ。それ以外にも一杯成長(勉強)する要素があるんですよ」

と正確には覚えていないが、確かこのような内容のことを語った。


それを聞いて私は思った。

なるほど、練習の為の練習をするなとはよく言うが、それなら目的の為の練習ならOKかと思いきや、氏は更にもう一枚練習の意義を付与している。

練習は目的(野球の上達)を達成する為の行為だが、それ以外にも様々な付加価値を生む(与えてくれる)行為であると。

精神的な成長、思考の成長、或いは身体的……その他。

何をするにしても、その行為に対する意味づけが異なると、結果は大きく違ってくるのだろう、恐らく。

私は自分の行為(仕事、練習、勉強、運動など)に対して、どのくらい深く意味づけをしているだろうか?

いや、ほとんどしていない。

ただ漠然と、惰性で、ルーチンワークとしてやっていることが多い。


氏は自分のプレイについて常に事細かくノートをつけているそうで、なぜ?どうして?をかなり深く掘り下げて考えるらしい。

同じバットの素振りでも、捉え方や意味づけの仕方で随分と得られるものが違ってくるのだろう。

一般的に練習は地味で苦しくて楽しくない。

すぐに報酬が得られないし、また確実に得られるとも限らないからだ。

でもそれは練習の報酬がただ一つ「野球の上達のみ」と限定しているからで、実はそれ以外にもたくさんの報酬が得られる事が理解出来れば、そういう地味な作業に対する取り組み方も変わってくるのだ。


私は記念すべき当ブログの初投稿記事において、衣笠選手から引用した下記の言葉が、なぜ氏の口から至極当たり前のように出てきたのか理解出来た気がする。


―――私は子供たちに向けて野球をしている。スポーツ選手は常に子供たちのお手本でなければならない――


今、このようなスポーツ選手がどのくらいいるのだろうか?

疑問である。


それでは!

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2021年9月20日月曜日

人は何も決めていない。意識(意思)の話。

散歩をしていると何故か頭が活性化される。

なんだか前向きな思考になるし、色々なアイデアも湧いてくる。

私はこれまでその理由が「ただ単に運動して頭に血が巡っているから」という風に考えていたが、最近の脳科学についての研究をいろいろ漁ってみると、どうやら一概にそれだけではないように思えてきた。

一説によると、意識とは会社の社長のような決定権を担う存在などではなく、社史編纂係のような割と受動的な立場のものであるという。

実は我々は自分の意識(意思)で何も決定しておらず、体の感覚やその他の機能によって決定された行動のログを受けとって、あたかもそれが意思により決定されたかのように認識させられているのだ。

つまり、ここでの意識(意思)とは、会社の誰かが決定した結果を記録し、それを社内報で発信する担当であり、社の活動に対する決定権など何一つ有していないことになる。


例えば、蜂に刺されて手に「痛み」を感じるという認識は、

①まず触覚によって感知された刺激が脳に伝わり、

②そして身体的な反応(血流増加、瞳孔拡大、発汗、表情の歪みなど)を経て

③それが意識に痛みとして記録されるのだという。

つまり①から②の間、我々は痛みを感じていない。意識として認識されるのは必ず体の反応の後なのだ。(言い換えれば、体の反応が無ければ何も感じないということで、いくらお化け屋敷で脅かされても、体の反応が無ければ脳は脅威を感じないということだ)

そして③のあとに蜂を払いのけようとして手を動かすのだが、脳の電気信号をモニターすると不思議な事に意識を司る領域が反応するのは実際に手が動かされたコンマ何秒か後らしい。

我々の手は、意識(意思)で手を動かそうと思う以前に既に動いているのだ。

これは意識(意思)で手を動かそうと思って手が動いたのではなく、意識以外の何らかの指示で手が動かされていることを示している。

一体なんだろう?


手を動かしたという行為が意識に伝えられると、そこで意識はあたかも自分で決定して手を動かしたかのようにコンマ何秒か前の出来事をたった今自分の意思で行ったかのように時間を書き換えて認識して(させて)いる。(過去を今と誤認させる)

パソコンで例えると、人間が決定のマウスボタンを押した時間と、それが記録としてメモリーに書き込まれる時間には僅かなズレが生じるはずだが、パソコン本体は後者の時間を決定時間とみなし、あたかもその決定がその時間に自身の能動的に発した行為として見なしているようなものだ。

人間の意識とは、実際の決定行動とその認識の時間差を埋め(ごまかし)、自分の行動は全て自らの意思決定の結果であるという錯覚をもたらすためのものなのだ。

能動的、主体的とは一体なんなのだろうか?

そしてその主体とは一体誰なのだろうか?


話頭を転じて、良く知られているように熱湯に触れて手を引っ込めるというような「反射的な行動」はどうだろうか?

この場合、意識は無視される。

なので我々は自分の意思で手を引っ込めたという風には認識できない。命にかかわるような出来事に対しては意識への記録という作業のプライオリティは低下するからだ。

意識を介さない行動は反射として認識される。


意識は、陰で決定を下すその他の感覚によって常に占有されている。

パソコンで言えば一時的に作業記憶を留めるメモリーのような物だ。

ボーッとして何もしていない時でさえも、「今私は暇である、どうしよう?」などという事を記録し続けている。

つまり逆説的にいうと、反射的な行動とは、意識の一時的な解放のことである。

そして私は思うのだが、もう一つのケースとして、習慣的あるいは単調な行動をしている場合も意識は解放されているのではないだろうか?


例えばこんな経験をしたことはないだろうか?


会社での仕事を終え、いつものように慣れ親しんだ道を慣れ親しんだ車で帰途に就く。

「あぁ、今日は大変だったな。でもまだ解決していない。明日どうしようか?あ、そういえばビールが無くなっていたな。今日は帰りにちょっとスーパーに寄らないと」

などと考えながら運転していると、いつの間にか家についていた。

道中、意識の中にはほぼ運転のことなど無かったのに、

かつ、スーパーに寄ろうと思っていたのに、

あの曲がり角でウィンカーを右に出して、ハンドルを右に切って右折するなどと、一瞬たりとも思わなかったのに、

きちんと帰宅出来ている。


或いは朝、家の玄関を出て数秒後、

「あれ?ちゃんと鍵閉めたっけ。覚えてないな、念のため確認しとこう」

と玄関まで戻って確認すると、きちんと鍵はかかっている。

かけた覚えはないが、結果としてちゃんとかかっている。


このような誰もが少なからず経験する出来事は、我々が意識で行動を決定しているのではないことを示唆しているような気がする。

そして、そのような場合(意識に行動記録が書かれない)には、意識はその他の感覚からの占有を解かれる。

そして占有を解かれた意識はどうするか?

自由に考えはじめるのである。

誰の束縛も受けていないその時、我々の意識は初めて自由意思を持つことを許される。


無意識の行動をすることで他感覚の束縛から意識を解放する。

これが、散歩をしているときにアイデアが溢れてくる一つの要因なのではないだろうか?

では同じように無意識で行う貧乏ゆすりや頭を掻いている時などでも同様なのか?という疑問に対しては、こう答える事が出来る。

それは脳を流れる血流の量に違いがある、と。

同じように無意識の行動でも、体を動かす散歩と指先足先をちょっと動かすだけの行動とでは脳の環境が異なっている。

血流促進によって脳に新鮮な酸素と栄養が行き渡った状態で、記録係としての役割から解放された意識の活動は最高のパフォーマンスを発揮するのだろうと思う。


人がまだ獲物を追っていた時代、何かを求めて歩く、或いは走るという行為は人の最大の武器であり、生命に関わる重要な行為だった。

なのでその最中は最も知恵が必要であり、最も創造的な行動が必要だった。

散歩で頭が活性化される要因は、このような太古の人類の必要に応じたものではないだろうか?

そう考えると、何かを思索中(例えば作文や数式を解くなど)に無意識に頭を掻いたり髪をいじったり貧乏ゆすりをするのは、脳が意識を解放する為の疑似的な散歩だとも考えられる。

そして、意思決定が意識の所業でないとすれば、思索をするから貧乏ゆすりが始まるのではなく、貧乏ゆすりを始めるから思索に集中できるのだ、とも言える。


ドーパミンの扇動的な行為といい、意識の虚偽的な作為といい、我々はまだまだ自分自身について分かっていない事が多い。

このように考えてみると、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我有り」という言葉は、確かに我が意思だとすると我は有るのだが、それは(意思)決定する我=自我ではないということになる。

それでは我とは一体なんだろう?などという事になって、ますます収拾がつかなくなる。

不思議である。


というような無駄な事をつい考えてしまうのも散歩の最中であり、パスカルが「人間は考える葦である」とはよく言ったものだと思う。


それでは!


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2021年9月18日土曜日

恋愛と不眠とH&Nについて。

 昨日は久しぶりに徹夜をしてしまった。

いや、決してヒャッホー的な意味で楽しく過ごしたのではなく、どちらかというと眠れなくてただ悶々としていたという具合で。


こういう時に想い出す言葉がある。

 トーマス・マン著 『ブッテンブローク家の人びと』

 我が子よ、昼は仕事に喜びもて励め、されど、夜、安らかに眠れるごとき仕事にのみ励め。


この言葉に照らして言うと、つまり今の私は日中に適切ではないストレスを感じているという事だ。

今になってつくづく感じるのだが、私は気分転換、すなわち興味の方向を変えることが下手らしい。一つの事に執着してしまう傾向がある。

これまで読んだ脳内の仕組みに関する著書によれば、私は恐らくドーパミン濃度はそれほど高くないように思われる。どちらかというとH&N回路の方に比重が置かれている性格のようだ。


ドーパミンとH&N物質は互いに補完しあう関係にあり、例えば恋愛でいうと、

気に入ったあの娘を落とすために働くのがドーパミン、

そして見事成就するとドーパミンはその役割を終える。

やがて一年もするとあんなに熱く燃えていた恋愛感情も薄れ、不満の種が頭をもたげてくる。

そこでようやく動き出すのがH&N物質だ。

H&Nはドーパミンのように未来を見ない。

現在あるものに関心を示し、それを維持することで幸福感や満足感を得るためのものだ。

つまり簡単に言うと、

ドーパミン特性の強い人は移り気で現状に満足することは少なく、H&N特性の強い人は一途で現状に対する満足感も得やすい、

という事である。


私の場合よくあるのが、

付き合い始めると割とすぐに友達モードに移行してしまい、ただ一緒にいるだけでも割と幸福感を得られるせいか、強い恋愛関係を求める相手からするとどうも冷めた感じに見えるらしく、もの足りなさを感じるらしい。

つまり、薄く長い関係になりがちなのだ。

これは恋愛初期の女性にとっては不満だろうと思う。


この保守的?な性格をどうにかしたいとは思っているのだが、性格ゆえになかなか難しい。

もう少しドーパミンをうまい具合に操れればいいのだが、今のところその案も無い。


まあとにかく、眠れない事の原因は分かっているのだし、そこに留意してまずは眠れるようにしよう。

ドーパミンのことを考えるのはそれからだ。


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2021年9月16日木曜日

天才と狂人、モデル化とドーパミンの話。

 今日は、いつぞやの記事に書いた「蝉時雨の道」を通って帰宅しました。

ほぼ同時刻だというのに森の中は薄暗く、すでに蝉の声は絶え、かわりに虫の音が響いておりました。

もう夏は終わったんだなと、少しもの悲しくなりました。

ずっと街の中に暮らしていれば、このようなささやかな事象から季節の変化を感じるのは難しく、我々人間の感性を刺激する情報というものはやはり自然の中にあるんだなと思いました。

日本人にとって蝉は夏の象徴で、虫の音は秋の象徴です。

たとえ目には見えなくとも、耳で感じるだけで移ろう季節を認識できるのです。

いわば、季節の聴覚的なモデルです。


モデルと言えば、私は真っ先に以下のリンゴを思い浮かべます。








そう、日本人が大好きなAppleのロゴです。

私がこのロゴを見て凄いと感じるのは、リンゴなのに赤くないということです。

モデルというのは一般的に「抽象」という訳で通っていますが、私はもう一つ「捨象」という行為も重要だと思っています。

抽象とは重要な部分だけをすくい上げる行為で、捨象とは必要ない部分を切り取ることです。

このロゴは抽象によってリンゴの形状をすくい上げていますが、捨象によって「赤い色」を切り取っているのです。

誰がリンゴの絵を描くときに黒で塗りつぶすでしょうか?

それでもこのロゴはちゃんとリンゴに見えます。いやリンゴ以外には見えないと言っても良いと思います。

すなわち、「赤い色」はリンゴをモデル化する時に必須の要素ではなかったということをこのロゴは示しているのです。


このような発想は一般人には出来ません。

なぜなら、普通人間は効率よく生活できるようにほぼ全ての物をモデル化して把握しているからです。

例えば人間は車やテレビの形を見るだけで、例えそれが初めて見るものだったとしても、それが何をするものでどう使うものなのかが分かります。

逆に脳でモデル化されていないものを見た時、人間の脳内には一気にドーパミンが噴出します。

そして我々の意思にこう命令するのです。

「これは何だ!調べろ!そして把握しろ」


余談ですが、人間のここまでの繁栄にはドーパミンが強く関わっているようです。

生殖的には「あの娘の事をもっと知りたい」とか、

探索的には「この先どうなっているのか知りたい」とか、

科学技術的には「この謎を解明したい」とかいうふうに。

ただドーパミンには見境がありません。

とにかく好奇心を煽る一方です。ネットサーフィンが止められないのはそういう理由です。


ただ、これだけだといずれカオスになることは請け合いで、当然のようにストッパーが必要です。サーキットを綺麗に速く走るためには、秀逸なブレーキが必要なのと同じです。

なので人間には遠い未来を予測して損得勘定するという、ドーパミン抑制回路が備わっています。「ああもうこんな時間だ、明日起きられないかも」

この回路によって我々はネットサーフィンを中断する事が出来るのです。


さて、モデル化の話ですが、

Appleのロゴを考えだすのがなぜ難しいのか?

それは、一度脳内でモデル化されてしまったものを再構成しなおすという作業が必要だからです。

脳は認識に優先順位をつけていて、当然ですがモデル化されて既知のものは低く、逆に未知のものは高くなります。(全ての事象にいちいちドーパミンを噴出させていては生活が破たんしてしまいますから)

なので、リンゴという優先順位の低い概念を脳内から一度きれいさっぱり取り払い、新しいリンゴ象を脳内で(意図的に)再構成する必要があるのです。

固定観念の再構成は脳の仕様からして中々に至難の業です。


ただし、この至難の業にも抜け道があります。

例えば夢の中です。

夢の中ではドーパミン抑制回路の規制は緩くなります。

なのでそこにはモデルの制約は多くありません。車を食べてテレビが飛んでもおかしくない世界です。夢が奇想天外なことが多いのはそういう事です。


ではこの夢の中の状態を覚醒しているときにも発揮出来たら?

すなわち、頭の中の既成概念やモデルを全て取り払って、ドーパミンの命ずるままに思考出来たらどうなるか?

これこそ天才の片鱗だと思います。

例えば有名なミュージシャンや画家、それに小説家などの作品は夢で見た出来事をきっかけに製作されたものも多いとか。

当然それが夢の中だけでなく現実でも出来れば、後世に語り継がれる芸術家、或いはノーベル賞クラスの科学者や文筆家になれるでしょう。


ところで科学技術の進歩は、(残念ですが)この効果を薬物で人為的に発現させることに成功しました。

(日本のミュージシャン、作曲家などもたまに検挙されている”あれ”とか”これ”ですね)

例えばパーキンソン病に処方されるアンフェタミン(ドーパミンの量を増やす)などは、誤って使用すれば酷い幻覚作用の発現、つまりドーパミンの虜になってしまいます。

そして一度その網に掛かれば、もはや抜け出す事は困難でしょう。

つまり薬物中毒患者です。


ドイツの哲学者ショーペンハウアーは言いました。

「夢は束の間の狂気であり、狂気は醒めない夢である」と。


現在の精神病の一つに統合失調症というものがあります。

酷くなるとドーパミン抑制回路が機能しなくなり、興味があっちこっちに向いて会話が飛び飛びになったり、幻覚幻聴に悩まされたりします。

つまり、認識の優先順位というものがほぼ失われ、感じる全ての物に興味と興奮とを覚えるのです。脳内にはモデル化されたものはほとんど存在しません。なので同じものでも見るたびに違う認識になります。

まさに日常が夢の中のようであり、ショーペンハウアーの言は的確にそれを表現しています。


エジソンは「天才とは1%のひらめきと99%の努力」だと言いました。

私はこのドーパミンの与える影響について考えているうちに、なんだかこの言葉の意味が違う事を示唆しているように思えました。

つまり、

1%の狂気が残り99%の努力を相殺できるほどの効果があり、

その1%の狂気が無ければ、どんなに努力しても決して100%にはならない

のだと。


考えすぎですかね?


ちなみに私は今「ドーパミン」についての本を読んでいます。

今回の情報の元ネタもその本に多く依拠しています。

その本の内容についても、またいずれ紹介しようと思っています。


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2021年9月13日月曜日

「The Secret World of Sleep」寝たのに疲れる理由とは?

とある休日の夕刻、私は以前の記事「憂鬱、不眠、倦怠……全て走る事で改善する!」の教えに従って走り始めました。

そう、忘れてなどいません!

長い脚、土踏まず、熱暴走を防ぐ汗、薄い体毛、これらは全てただ長く走り続けるためだけのものです。

すなわち、(パスカル風に言うと)人間とは考える葦ではなく「走る葦」なのです。


「それにしてはしんどい、疲れる、辛い。

 いや、まだ若干だが涼しくなってきただけましだ。

 とにかく走れ、体中の血を循環させろ!」


そうして約45分後、

無事ゴールした私は、火照った肌を冷ます心地よい夕風に身をゆだねながら、

「あぁ、これで今日もぐっすりだな」

と、達成感と満足感の海に浸っていたのでした。


しかし、現代人の睡眠はそう簡単に片づけられるものではありません。

よく眠れた=良い睡眠

とは限らないのです。


皆さんはこんな経験はないでしょうか?

特に何か悩みが有ったり、鬱っぽかったりしたとき、


・寝ているはずなのに起きた瞬間から疲れている、体が重い。

・いくら寝ても疲れが取れない。


私はたまにあるのですが、これも現在読書中の

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」

(原題「The Secret World of Sleep」)

で原因が理解できました。


睡眠中の脳波は以下の4つの段階で推移します。


①浅い眠り 

睡眠紡錘波が出現する

徐波睡眠 (深い眠り)

④レム睡眠 (眼球運動)


ここで重要なのが③徐波睡眠です。

徐波睡眠中の脳ではニューロン間(シナプス)の結合を緩め、不要な記憶と重要な記憶の精査(すなわち脳の整理整頓)をしているのですが、同時にアセチルコリン(活動を促すホルモン)の量がほぼ0に落ちます。

つまり③徐波睡眠は身心のメンテナンスを行う重要なフェーズなのです。


以前の記事「The Secret World of Sleep」夢はその人の知性を表す?例えば漱石。

にも書きましたが、鬱っぽくなるとセロトニンバランスが崩れ、④レム睡眠の比率が高まる傾向があります。

なので、いくら寝ても③徐波睡眠を確保しにくくなり、その結果疲れが取れない(メンテナンスされない)まま翌朝を迎えるのです。


ちなみに「睡眠紡錘波」にも少し触れておきましょう。

これは「電気生理学の指紋」とも呼ばれ、人によって大きく異なります。

12~16Hzの波で、おもに睡眠の第二段階に出現します。(徐波睡眠中でも見られるが、レム睡眠では現れない)

近年の研究で、この波の密度からIQ(全検査と動作)の高さを予測できるそうです。

つまり紡錘波の密度が高い(波が多い)人はIQが高い傾向が見られるのです。

ちなみに学習障害を持つ人の波も密度が高いのですが、その場合振幅(振れ幅)が異常に大きく、これは過剰紡錘波と呼ばれています。


以上、睡眠中の脳波についての説明でした。

なんとなくですが「寝たはずなのに疲れが取れない」理由の一端が理解できますね。

要は寝ててもその大半はレム睡眠じゃ意味が無いと。

なのでレム睡眠の合計量を減らさないといけないのですが、その為にはセロトニン濃度を高めるしかありません。

抗うつ薬のSSRIなどがセロトニンの再取り込みを阻害し、結果脳内のセロトニン濃度を高める効果があるのはその為ですね。


という訳で「出来れば薬に頼らずセロトニン量を最適化しましょう!」

いや、どうやって?

とにかく運動を始めよう、疲れて(いると感じて)いてもまずは走ってみよう。


それでは!

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2021年9月11日土曜日

「The Secret World of Sleep」夢はその人の知性を表す?例えば漱石。

 皆さん、こんばんは。

まだまだ暑い京都ですが、夕方になると肌を撫ぜる風も心地よく、散歩で見かける赤とんぼに秋の訪れを感じます。

ついさっきまでオリンピックの熱気にほやされていたことを思うと、月日のながれるのはなんと速い事でしょう。

改めて「一日一日を大事に生きないと」と思いました(一瞬ですが)。


さて、本日も前回に引き続いて

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」

(原題「The Secret World of Sleep」)

をいってみたいと思います。


最近朗読した夏目漱石の作品に「夢十夜」というものがあります。

漱石が見た夢を10の物語として書かれたものですが、どの夢もちょっとオカルト要素を含む魔訶不思議なストーリーです。

時間軸も過去、現在、未来に渡っており、場所も海や川や森など実に多様なシチュエーションが展開されます。

私は、やっぱり文豪の見る夢はそれだけで小説になるほど奇異で複雑なものなんだなあと思って読んでいましたが、「眠っている時、脳では凄い事が起きている」を読み進めるうちにそれにも理由があることを知りました。

一説によると、夢を見る能力は「その人の創造的、想像的、感情的思考の全般的能力につながっている可能性がある」らしいのです。

例えば反証として挙げられる事例に以下のものがあります。


・自閉症の人は比較的短く単純な夢を見て、それをあまり詳細に想い出せない。

・統合失調症の人が見る夢は短く、幻覚のような内容は少ない。攻撃の場面が多く、多くは自分が攻撃されている。

・うつ病の人は様々だが割と否定的で自虐的な夢を見る。


更に、ソームズの研究によると前頭前皮質腹内側部が傷ついた人は夢を見る能力を失っているらしいことが発見されました。

逆に脳の報酬系に化学的な刺激(L-ドパ製剤)を投与すると、過度の異常なほど鮮明な夢が現れるそうです。


どうやら夢をみる行為と言うのは、記憶を適当に組み合わした映像を見るだけのものではないようです。

有名どころでいうとフロイトの「欲望現出説」などがありますが、現在は「脅威に対するリハーサル説」なども提唱されているようです。

つまり実際に危機に遭遇したときにより良く順応できるように、寝ている間にイメージトレーニングをしているというものです。


ちなみに夢はレム睡眠時にだけ見るようなイメージがありますが、実際のところはノンレム睡眠時にも見ています。

ノンレム睡眠時の夢は、レム睡眠の時よりも短いがまとまっている傾向があり、前日の出来事に関連している事が多いそうです。

逆にレム睡眠時の夢は奇妙で支離滅裂です。

漱石の見た夢はおそらくレム睡眠時のものでしょう。


しかし夢ってあまり覚えていませんよね。

見ている事は覚えているのですが、内容が思い出せない。それも朝目覚めると突然に。

実はこれにも理由があったのです。


我々の脳は睡眠中にコルチゾール濃度が徐々に高まっていきます。

コルチゾールはストレスホルモンとも呼ばれているもので、動く為のやる気をもたらす脳内物質です。

このコルチゾールとセロトニンがバランスを取り合って、朝に目覚め、夜に眠るのですが、起床前に最大限にまで高まったコルチゾールは脳内の海馬(記憶領域)と新皮質(思考領域)の接続をあえて阻害します。

つまり、新皮質で想像した出来事が海馬に蓄積されなくなるのです。

なので考えた事(つまり夢)が記憶に残りにくくなるのです。


ではなぜあえて夢を記憶に残さないようにしているのか?

実はこれにも理由があって、人が夢で見た脅威と現実とを混同して、混乱してしまうことを防いでいるのです。(恐らくこの能力を獲得する以前の人間は、混乱して命の危険に何度も晒されたのでしょう。例えば夢で見た捕食動物の存在が現実と区別できなくなったとか……)

同じような理由で、脳は夢を見て体が反応しないようにあえて眼球以外の運動神経接続を切っているようです。アクティブな夢に反応して怪我をしないようにしているのです。(これも恐らく何度も命の危険にさらされたのでしょう)

金縛りなどはこの状態で意識が覚醒してしまった状態、或いはそれも夢なのかもしれません。


という訳で、さらっと夢について説明してみました。

これらを鑑みたうえで改めて漱石の10の夢を読むと、確かに「創造的、想像的、感情的思考」の突出具合がうかがえます。

さらに漱石は神経症(今でいう鬱っぽい症状)にも悩まされていたそうなので、必然的にレム睡眠比率が長くなっていたはずです。

同様の意味でコルチゾール濃度も上がりにくくなっていたはずなので、見た夢も割と記憶に残っていた、と。

作家としてはプラスだったのかもしれませんが、QoL(生活の質)は最悪だったでしょう。おそらく夢も鮮明で生々しかったはずでしょうし。


最後に、私は漱石の「夢十夜」はあまり好きではありません。

(自分の夢も意味不明なのに他人の夢が理解出来るはずがない!)


それでは!


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2021年9月8日水曜日

「The Secret World of Sleep」綱渡りは勇気があると言えるのか!?


皆さんこんばんは。

季節が急激に移っているようで、どことなくメランコリックなヤドカリです。


さて、最近「睡眠」についての著書を読み漁っている私なのですが、ほぼタイトルのみで次のターゲットに選んだのはこちら!

 

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」です。

(原題「The Secret World of Sleep」)

ちなみに副題は「眠りと夢と記憶の秘密」となっております。

(原題は「The Surprising of the Mind at Rest」)


こうして原題と見比べてみると若干盛っている感が否めませんが、まあ兎に角それくらいタイトルというものは重要だということです。


読み始めてまず感じたのが、これまでの著書に比べ若干学術書、或いは専門書の雰囲気が強くなっている事でした。

つまり、専門用語が多用されております。

さらに「こうすればいいよ」という大衆向けスタンスではなく、「こうなるメカニズムの説明」という学識的スタンスが強くなっております。

なので考えようによっては、この本の理解によって眠るのではなく、この本を読むこと自体で眠くなるとも言えます。


という訳で、眠気を抑えながら眠るための本を読んだ成果をご紹介しましょう。


■睡眠不足は人格をも変える

 高所での綱渡りやビルの屋上で逆立ちをする人、或いはベースジャンパーやエクストリームスキーヤーなどは、見ているこっちがハラハラするくらい危険な事をむしろ喜んでやっているようにも見えます。

我々は彼らを見て「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」だと思いがちですが、著書によればそうとも限らないようです。


両耳の内側にある脳の部分に、脅威や不愉快な刺激に強く反応する「偏桃体」という組織があります。

例えばこの偏桃体から海馬(長期記憶の保存)への神経接続が断たれると、情動記憶が威力を失ってしまい、本来トピックであるはずの出来事はありふれた日常と同じ扱いになるようです。(ファーストキス ≒ 晩御飯を食べた という感じ)


研究結果によれば、一見「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」の偏桃体のニューロンは、危険な状況に陥った時も発火速度があまり高くならなかったそうです。

(つまりさほど危険とは感じていない)

さらに、報酬系が関係する別の領域が強く関与することがあるらしいのです。

(つまり快感を感じる)


このことから、世間で「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」と見られている彼らは、さほど危険ではない事を快感を伴いながらやっているだけ、という見方も出来るわけです。

こう考えると、勇気って一体なんなんだろう?と思ってしまいますね。


さて、なぜこんなことを説明したのかというと、

実は睡眠不足(睡眠の乱れ)によって、一般人でもこの傾向が現れるということを言いたかったからです。

睡眠不足になると、まず臭いの種類をかぎ分ける能力が落ちます。

特に酸っぱい味に気付きにくくなります。

(酸っぱさというのは腐っているかどうかを判断する重要なファクターです)

そして聴覚も少し損なわれ(どちらが先に聞こえたのか分からない)、視覚にも問題が生じます(右側の視野により強く注意を払う)。

つまり、人間が長い時間をかけて生き残るために獲得した能力が徐々に失われていくのです。


もちろんこれだけでは済みません。

さらに、人は危険を冒す傾向が強くなります。

脳内で報酬系が強くなるかわりに懲罰系が弱くなり、道徳的判断も鈍っていくそうです。

これらは上述した「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」の脳の活動パターンとそっくりです。

確かに寝不足の日は何をしても雑になったり、注意力が散漫になったり、色々思い当たることがあります。


なので私はこれらのことを鑑み、こう思いました。

1.睡眠不足の時に重要な事を決断してはいけない。

2.逆に勇気が湧かなくて中々踏み出せない場合など、むしろ使えるのではないか!?

と。


まあ2.はともかくとして、安全で普通に暮らせる現代と違って、もし石器時代だったら命がいくつあっても足りないことは確かなようです。

まさに「偏桃体」は人間にとって命綱、ということですね。


以上、難しい内容を出来るだけ分かり易く説明してみました。


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2021年9月5日日曜日

「山月記」を読んで - 彼はなぜ虎になったのか?

 「山月記」中島敦を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。


まずは大ざっぱにあらすじから。


幼少時から俊英として名を鳴らした李徴は、賤しい官吏の下で働くことに嫌悪を感じ、詩で名を成そうと思ったが、上手くいかなかった。

生活のため結局彼は下級官吏に職を求めることになるのだが、ある日、職務中に忽然と姿を消してしまった。

彼の旧友である袁餐が、職務の途中に虎が出没するという噂の道を通りかかった。すると草むらから突然咆哮が聞こえた。

袁餐はそれが李徴だということに気付き、二人はこれまでことを語り合った。

李徴は自分が虎になった理由を「自分の自尊心が傷つくことを恐れる羞恥心ゆえ」と語り、自分の詩と残した妻子を袁餐に託し、再び草むらの中に姿を消した。


と、まあこんな感じです。


李徴は人間だったころ、他の人と交流したり、詩の師匠に師事したりすることを避けてきたのですが、それはただ尊大で他人を見下していたというよりは、高すぎる自尊心のあまり自分に対する批判や否定に対する羞恥心、つまり自分が傷つくことが怖かったからという事です。

私はこの物語を読んで、なにか物足りないと思いました。

なぜ李徴は死について全く言及しないのか?

なぜ自殺、或いは友に自分を殺してくれと泣きつくような場面が無いのか?と思いました。


私は自尊心というものは決して傷つかないものだと思っています。まして羞恥心など伴うはずはありません。

私は李徴の言う自尊心とは、「虚栄心」のことだと思います。

自尊心と虚栄心の違いを簡単に説明すると、

その発現に第三者が絡んでいるかどうかです。

あるいは生理学的に言うと、それが(海馬や偏桃体など)本能に近いものなのか?それとも(大脳新皮質など)理性によるものなのか?ということです。

例えば、

1.「頭や歯が痛い、何を置いてもまず何とかしないと」これは自尊心です。

2.「お腹がすいて死にそう、何を置いてもまず何か食べないと」これも自尊心です。

3.「発表会でいいとこを見せないと」これは虚栄心です。

4.「私の考えをアピールしたい」これも虚栄心です。


人間は太古の昔から集団で生活する動物です。

集団に属するためには、いかに自分が役立つ人間かということをアピールしなければなりません。周囲に認めてもらえなければ居場所は与えられないのです。

恐らく虚栄心はこの集団行動によって生まれたのではないでしょうか?

人は誰でも他人に自分の力量を突きつけられることに恐れを抱きます。

自分可愛さに自分の能力(容姿なども)を過大評価するものです。

属する社会或いはグループで不必要の烙印を押されることは、そのまま死に直結するのですから、3.や4.などのいわゆる第三者に向けられる虚栄心とか承認欲求などは特に人間に強く発現する感情なのだと思います。


これとは異なり、1.や2.は人の関与に左右されません。

まさに意図せず自分が自分を守る(尊ぶ)感情、というか行動です。

ゆえに自尊心は(うつなどの病気以外は)傷つかないのです。


……と私は思っています。


その虚栄心の強さゆえ詩に逃げた李徴は、そこでも不必要の烙印を押され社会から抹殺されました。

つまり、社会動物である人間として死んだのです。

そして虎になりました。


なぜ虎になったかって?

虎は一人でも生きていける動物だからです。

結局、李徴は救われたのです。


ここまで考えて、ようやく私は最初の疑問の答えを見つける事が出来ました。

これは人間の(社会的)死についての物語であり、そして救われる方法は虎になるしかない(つまり現実には処方無し)ということを。


それではっ!

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2021年9月4日土曜日

SLEEP「睡眠の技術」その他トピックと読了後感想!

 SLEEPを読了し、私はいつものように付箋部分をノートに書きだす作業に取り掛かりました。

「あれ、出ない」

どうやら、私の愛用しているボールペン「uni JetStream」のインクが切れたようでした。

「なんてこった!すぐに買いに行かないと」

今の私は、これ以外のペンでは字が書けない体になっていたのです。


近所の雑貨屋に走った私は、そこで相変わらずその威厳を保っているJetStreamを見つけました。

確か値段は130円ほど。そして替え芯は80円ほどだったと思います。


私曰く?このペンは文房具大国「日本」の名作だと思っています。

一見シンプルなボールペンですが、実はそんじょそこらの国には真似できないノウハウが詰まっています(と勝手に思っています)。


・限りなく真球に近いボールペン先。

 これは、日本の高品質な工業用ベアリング技術にも通じるところがあります。精度が甘いと、綺麗に転がらない、インクが上手く乗らないなど、そのまま書き心地に直結する不具合が出てきます。

・インクの成分

 よく分かりませんが、恐らく色合いや粘性などの最適化が図られており、化学的なノウハウが詰まっているように思います。

・グリップ

 ラバーゴムの厚み、そして感触や質感など、とても書きやすく長時間握っても疲れにくい設計になっています。


ざっと挙げてもこれらの技術、ノウハウが詰め込まれています。

そして最も重要なのが、これらのスペックをこの値段で生産出来る事。

つまり、コストパフォーマンスに優れている事です。


たかがボールペンといえど侮れません。

そこには恐らく長年に渡る研究開発の積み重ねが集積しているはずだからです。


という訳で、この新しいJetStreamで記したノートを元に、SELLP「睡眠の技術」を締めくくりたいと思います。


健康診断などで脳波の測定をした方も多いと思いますが、脳波には主に以下のようなレベルがあるそうです。


1.ベータ波(15-40Hz) … 目覚めている時

2.アルファ波(9-14Hz) … リラックス、あるいは集中の状態

3.シータ波(4-8Hz) … 深い瞑想、浅い眠り(レム睡眠)。直感力が情報処理能力が高まる。

4.デルタ波(1-3Hz) … 深い眠り。体の修復、再生は主にこの状態の時に行われる。

()内は振動数(周波数)で、高いほど活動的な状態です。


なぜ脳波の話が出てくるかと言うと、もし起きている時に自分の意思で3.や4.の状態に自由に持って行けるようになれば、かなり心身の健康に寄与できるからです。

そしてその方法として紹介されていたのが、マッサージマインドフルネスです。


・マッサージ

 5,000年以上の歴史を持ち、世界中にその記録があります。

古代ギリシャの医師ヒポクラテスは

「医師は様々な経験を積まないといけないが、とりわけマッサージは必須である」

と言ったそうです。現代と違って、当時のマッサージは基礎医学だったようですね。

また、マッサージの中には東洋的治療法として「ツボ押し」があります。

その中でも特に不眠に効くツボが「神門」です。






実験では、不眠症患者の尿に含まれるメラトニンの代謝物の量が正常なレベルに増えていったそうです。

(メラトニンは主に腸内で生成されて、眠りのサインを体に送るホルモンで、年齢と共にその生成量は減少します)

自分で押すことが出来るので、就寝前に押してみるといいでしょう。


・マインドフルネス

いわゆる瞑想ですが、ただボーッとしているのではなく、「今に集中する」ことに意識を向けます。

これによって、気分を良くするホルモンや鎮静作用をもたらすエンドルフィンを増やし、逆にコルチゾールなどのストレスホルモンを減らし、さらに体内の炎症を抑える効果まであるそうです。

達人になると瞑想中にデルタ波が現れるそうで、これは深い眠りの状態と同じです。(ほんとにただ熟睡しているだけなのでは?という疑問も抱きましたが)


著書にはマインドフルネスの事についてはさほど詳しく書かれていなかったので、また機会があれば関連する書物を読んでみたいと思いました。


以上、何回かに分けてSLEEP「睡眠の技術」について紹介しました。

結論として知っている事でも、「なぜ?どうして?」が理解出来れば、誤って採ったり使ったりする可能性も無くなると思います。

なので、今後さらに我々の知ってるようで知らない我々自身のことについて、様々な情報や知識を取り入れていきたいと思います。


それではっ!

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2021年9月1日水曜日

「蜘蛛の糸」芥川龍之介、を読んで思う - 糸が切れた理由とは!

「 蜘蛛の糸」を朗読する機会があったので、改めてこの名作について考えてみました。

まずあらすじを要約すると、


ある朝、お釈迦さまは蓮池の下の地獄で苦しむ極悪人カンダタに目を留めました。

お釈迦さまは彼に地獄を抜けるチャンスを与えようと思いました。

何故なら彼は、生前に一度だけ”蜘蛛を踏み殺そうとしたのを思い留まった”という善行?を為していたからです。

はるか上空から降りてくる蜘蛛の糸を見たカンダタは、さっそくそれに掴まって登りはじめました。しかし、同時に大勢の罪人が下に続いてくる光景と、掴まっている糸の心許なさから、カンダタは「これは俺のだ!降りろ」と叫びました。

その刹那、握っていた糸はぷつりと切れ、カンダタは元の地獄へ堕ちていきました。


という感じです。


一見「エゴはダメだよ!」という教訓として受け取られることの多い作品です。

しかし私は本作にそれだけではない何かを常々感じていました。


例えば、

「もしカンダタがあのセリフを吐かなかったら、本当に糸を登って地獄から抜けられたのか?更に、その場合一緒に登ってきた罪人たちはどうなるのか?みんなハッピー、天国にGo!となるのか?」

或いは、

「ここで登場するお釈迦さまは本当にお釈迦さまだったのか?そんな気まぐれに地獄から罪人を救ったりするだろうか?」

など、実に様々な妄想、空想が膨らみます。


本来仏教は因果応報、犯した罪は償わなくてはならず、善行によって減免されたりはしません。

日本仏教のとある宗派のように「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで救われます!とは決してならないのです。

言霊による救済とは、「真言」つまり密教由来のこと。

あくまでも布教目的を主とした販促手法です。

(まあ、これによって実際(精神的に)救われる人もいますし、なにより現在まで宗教として生き残っている訳ですから否定はしませんが)


実は芥川の「蜘蛛の糸」には元ネタがあります。

19世紀ヨーロッパのポール・ケイラスという宗教哲学家が書いた仏教説話「Karma」の中の一節で「The Spider-web」というお話しです。

芥川版と話の筋に大した違いはありませんが、私には根本的に異なる部分があるように思えました。


それは「糸が切れた理由」です。


芥川版では、カンダタの罪人達に対するエゴイズム「これは俺のだ!降りろ」が決め手になったように読めますが、元ネタの方では「掴まっている糸の心許なさ」を感じた事が決め手になっているように思えるのです。


つまり、カンダタは「あのお釈迦さまが降ろした糸」に不信を抱いたのです。

宗教の本質である「無条件の信仰こそが救済への道」であることに従えなかったのです。

私は、こちらの解釈の方がより仏教という宗教の本質に近いような気がします。

ゆえに芥川版のほうは、宗教説話を童話的に書き起こした分、宗教味が薄れています。

まあ、それ故に教科書にも載るような道徳的名作になっている訳なのですが……。


こう考えると、本作を読んで私が抱いた様々な妄想、空想も、何となく収束してくるような気がします。(しかしその分、物語、小説としての魅力は半減してしまいます)

考察の余地をあまり与えてくれない元ネタと考察し放題の芥川版。

ほぼ同じ内容にもかかわらずこれだけの差を生む不思議。


芥川龍之介が敢えてその最も宗教臭い部分を廃したのかどうかは知りませんが、とにかく彼の小説家としての感性には驚かされるばかりです。


それではっ!

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2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...