2021年12月23日木曜日

果汁100%ジュースはジャンクフード?

ついさっき暑くて熱いオリンピックで盛り上がっていたかと思うと、もう目の前に大晦日が見えてきました。

いつから時の流れってこんなに速くなったのでしょうか?

このようにあらゆるものが移り変わっていくのですが、相変わらずコロナだけは安定継続中のようです。

さて、年末年始。

もういくつ寝るとお正月?

それでもやっぱり日本人にとってこの時期はお目出度いのです。

そして必然的に暴飲暴食の時期でもあるのです。

一時的な過食ならまあなんとかなるのでしょうが、とかく現代人は定常的にその状態になりがちです。

現代病と言われて久しい糖尿病や高血圧、高脂血症などはまさにその結果に他なりません。

我々の体はとにかく糖と脂肪に目が無いのですが、その理由はそもそもそれらがめったに手に、いや腹に入れる事が出来ないにもかかわらず重要なエネルギー源だからです。

人間はその大きくて燃費の悪い、更に数十秒もエネルギー供給を止めれば機能停止してしまう「脳」という臓器を有する宿命として、主に以下2つの改変を体に施しました。


1.腸を短くする

 ミミズのような下等生物は身体のほとんどが腸(消化吸収器官)で占められています。

 ところが哺乳類など大きな脳を有する高等生物は、エネルギーの分配比率を脳の方に振り分けるために、身体に対する腸の比率をかなり下げました。

 その最たる生物が人類です。

 一説によると、人間は腸を元来の約半分の長さにして、その分だけ脳を大きくする進化を選択しました。

 「腸は第二の脳」などとよく言われ、消化吸収だではなく性格や気分を左右するホルモンなどの生成も行っています。

 考えてみれば身体にはもともと腸しかなかったのですから、それは至極当然です。

 むしろ「脳は第二の腸」と言えるかもしれません。


2.エネルギーを貯蔵しやすくする

豊かな森の中で果実などを食べて暮らす類人猿などは、基本的に飢餓のリスクがありません。なので体に無駄なエネルギーを脂肪として貯蔵する必要がないどころか、あると活動の妨げになります。

ところが二足歩行で森を出て狩猟採集の道を選んだ人類は、ともすれば数日間食事にありつけない事はざらにあり、常に飢餓のリスクを背負って生きていました。

なのでエネルギーを体脂肪に変えて自らの身体に貯蔵する方式をとりました。

人間の赤ちゃんがあんなにも丸々と太っているのは、一刻も早く脳を大きくするために脂肪をたっぷり蓄えて生まれてくるからです。

ところが、狩猟採集時代の人類は今と違ってたくさん活動するので、いわゆる現代病にかかることはありませんでした。

エネルギー収支のバランスがとれていた訳です。



さて、人類はこのように必要に迫られて身体を進化させてきたわけですが、産業革命以後、文化的進化が身体的進化の速度を大きく上回ったことにより様々な弊害を生むことになりました。

それらの一つが上述した現代病です。

原因ははっきりしていて、「食べすぎ&動かなすぎ」、以上となります。

様々なウィルスや病原菌に打ち勝ってきた人類がこの問題を解決できない大きな理由の一つは、高度に発展した資本主義にあると思われます。


糖尿病になるまでの経過をざっくりと説明すると、

1.糖を体に入れる

2.血糖値が急上昇する

3.血糖値を下げるために膵臓がインスリンを放出する

4.インスリンに反応して脂肪や筋肉、肝臓が糖を取り込む

5.血糖値が”グッ”と下がる

6.血糖値の急激な下降により空腹感が刺激される


後は再び1.に戻って無限ループが続きます。

デザートは別腹なのはきちんとした理由があって、主に6.の効果によるものです。

このループを繰り返していくと、やがて膵臓は疲れ果て、インスリンが出せなくなって、糖が分解されなくなります。

過剰な糖は基本的に体にとって毒です。

やがて糖尿病になり、インスリン注射を定期的に打たないと生きていられなくなります。

恐ろしいデスループです。


ここで注目したいのは2.です。

なぜ急激に血糖値が上がるのか?

結論としては、お菓子メーカーなどがそのような食品を作り、それを我々が好んで食するからです。

例えば健康に良いとされている「果汁100%ジュース」ですが、これもまさに急激に血糖値を上げる食品の一つです。

マラソンやロードバイクレースなどでもコーラなどと同じ扱いでオレンジジュースを摂る事がありますが、それは激しい活動で下がった血糖値をあげるためのものとしては理にかなっている訳です。

なぜそれらの加工食品が急激に血糖値を上げるかというと、食物繊維を完全に取り除いているからです。

食物繊維は消化を緩やかにし、血糖値の上昇を抑えます。

さらに腸内をスムーズに通過させる効果もあります。(便通が良くなる)

なので決して2.の状態にはなりません。

つまり、蜜柑はあまいデザートと違って別腹にはならないのです。


ではなぜメーカーは食物繊維を取り除くのかというと、それが資本主義経済たる所以となります。

食物繊維は腐るのです。(更に言うと取り除いた方が美味しくなるのです)

なので取り除くと美味しくなったうえに消費期限がぐっと伸びて資本主義経済的には最高なのです。

オレンジジュースはなかなか腐りませんが、蜜柑やリンゴはすぐに痛みます。

という訳で、いくら果汁100%だろうと食物繊維を除去している時点でジャンクフードと同じ立ち位置だという訳です。


生の果物に関して言えば、恩恵は食物繊維だけではありません。

それらの果物に常在している細菌類を摂取することで、腸内フローラにも好ましい影響を与える事ができます。

完全除菌の加工食品からはそのような恩恵はうけられません。


ついでに書きますが、

産業革命の遥か以前、人類が農業を始めて「主食」という定義が出来た頃、アジアでは主に「米」がそれが該当しました。

この米も精米によって食物繊維を除去し、白米として売られている訳です。

そのほうが日持ちがして、もしもの時の保存食として都合が良かったわけです。

(欧州の麦も同様です)

結果、白米は澱粉(糖)の塊となって、美味しくて長持ちする主食という地位を得ました。


さて、長くなりましたが、これが現代病がなかなか根本解決できない1つの原因です。

我々はこれからも資本主義経済のジレンマと付き合っていかなければならないのです。

でも個人の意識次第で如何様にも変えられることです。

かなり苦しいですが、まあ知っているだけでも対処は随分変わってくると思われます。


それでは!


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2021年12月14日火曜日

『三四郎(一)』夏目漱石を読んで-人の思いは変わるものである?

 昔一度読んだことは有るのですが、今回夏目漱石の『三四郎』を改めて”朗読”という形で読み直す機会を得ました。

第一話は、晴れて熊本の高校を卒業した三四郎が、大学生活に不安と期待に胸を膨らませながら汽車で上京するシーンから始まります。

三四郎は汽車の中でまず最初の洗礼を受けます。様々な人生を生きる様々な人の姿を目にするのです。

それは、三四郎が生まれて初めて抱く未知の世界に対する瑞々しい心象風景として描かれます。

その人々の中に、ある学者風の男がいました。

その男は羨望と諦めの眼差しで西洋人を評し、同時に日本を冷笑するかのような言葉を三四郎に投げかけます。

日露戦争直後のことでもあり、三四郎は多くの日本人と同様に自国に対する誇りと明るい将来への漠然とした希望を抱いていました。と同時に、彼もまた(その男とは趣が少し異なってはいましたが)西洋人に対する諦めに似た羨望を抱いていました。

このシーンにおいて、私は三四郎とこの男との関係が、恐らく漱石自身の若いころと現在とを反映したものなのだろうと感じずにはいられませんでした。

以前読んだ時には全くそんなことは感じませんでした。

同じ物語でも、読者のその時の立ち位置によって、感じ方や見え方はこうも変わるものかと不思議に感じました。


人が望郷の念を感じるのには理由があると、何かの本で読みました。

それはただ故郷を懐かしんでいるのではなく、当時の自分を懐かしんでいるのだという事です。幸福で希望に溢れ、元気はつらつとした(と想定する)当時の自分に郷愁を感じているのだと。

例えば音楽でも同様の事が起こります。

若くがむしゃらだった暑い夏に聞いた曲、別れ話をしていた寒い冬に車内で流れていた曲、いずれも今聴くと当時の感情が鮮やかに蘇ってきます。

或いは匂いでも同様です。

線香の香りや釜を焚く炭の匂いなどは、幼いころ祖父母の田舎で無邪気に遊んでいたときの情景が目に浮かんできます。それらの匂いを人は安心感や幸福感などの感情と結び付けて記憶しているのです。


こう考えると三四郎を書いた時の漱石も、やはり当時の感情を汽車の石炭の匂いや、水蜜桃の味や、汽笛の音などで感覚的に思い出していたのではないでしょうか?

文章だけで味覚や聴覚や嗅覚などを、ましてやその時に想起される個人的な感情などを作者と共有するのはまず不可能だと思いますが、それらを自分の記憶に照らし合わせて推測してみると、また違った味わいが出てくると思います。

そういう意味において同じ本を期間をあけて再読するという行為は、その間の人生経験の分だけ、より深く更に鮮やかな感情を読者にもたらせてくれるのだと思います。

そして、それが後世に残る名著の所以だと思いました。


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2021年12月10日金曜日

『歯車』芥川龍之介を読んで-彼はなぜ狂ったのか?

 『歯車』芥川龍之介を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。

まあ、ずいぶん時は経ってしまっているのですが……


この小説は芥川自身を主人公としたもので、当時の彼がいかに悩み苦しんでいたかがその内容から窺い知ることが出来るものです。

彼の視界には時々半透明の歯車が現れ、それがぐるぐると回りだし、やがて激しい頭痛を伴う発作へと彼を誘います。

これ、もう完全に強度のストレスによる鬱や統合失調症の症状ではないでしょうか?

かなり苦しかったと思います。

なにしろ最後には「もうこれ以上書けない。誰か絞め殺してくれ」で括っていますから。


原因は様々だと思いますが、私はその内の一つに「自尊心の肥大」があるように思いました。

自尊心にも色々ありますが、ここで言う自尊心とは、つまりこういう事です。


今、私はガムを噛んでいる。

でも味がしなくなったので口から出したい。

どこに捨てようか?

周りには誰も居ない。

しれっとここに吐き捨ててしまおうか?

でも罪悪感が……

でも、まあいいかこのくらい。今回だけ良いような気がする。


というささやかな心の葛藤の後で、思い切って道端にガムを吐き捨てます。

悪いことと分かっていながら、罪悪感を少しでも緩和する為に様々な自己弁護を展開して実行するのです。

ところが、もし他人が同じような行動をとるのを目撃した場合、どう感じるでしょうか?

恐らくこう思うのではないでしょうか。

「最悪な奴だ、常識を持ち合わせていないのか?信じられない」


何が言いたいかと言うと「人間は自分だけを特別扱いにする、いや、”出来る”生き物だ」ということです。

つまりこれが「自らを尊ぶ心」という自尊心の一要素だと思います。

これはある意味での自我であり、それは他人と自分とを明確に区別できるという能力でもあります。

人類が群れの中で協調して生きるためには高度なコミュニケーション能力が要求されます。

そのコミュニケーションという行動を成立させるためには、自分と他人の区別がつき、他人が何を考えているのか想像できなくてはなりません。

それは共感力と呼ばれます。

喜びも悲しみも苦しみも、その人の身になって想像し、その感覚を自分のものとして追体験することが出来る能力です。

さて、この人間特有の能力によって人類にもたらされたのはもちろん良い事ばかりではありません。

(一概には言えませんが)悪いことの一つに「嘘」があります。

人は(ある状況下において)平気で嘘をつけるようになったのです。

たとえばおべっかやお世辞、或いは人を鼓舞する為に褒めたり、或いは貶したり。

これは共感の能力が無ければ成立しません。他人が何を考えているか想像できるからこそ嘘がつけるのです。

実際、自閉症の人は嘘がつけないと言われています。

意味が無いと思っているからです。

彼らは、自分の考えている事は全て他人も知っていると思っているのです。

これは自分と他人との境界が限りなく薄くなっている、言い換えると自我が希薄な状態であると言えます。

皮肉なことですが、自他との境を捨て、嘘をつかずに生きるというのは、まるで解脱した聖人を表しているようにも思えます。


人間の生みだした映画や小説や芸術などの文化は、全てそれが嘘であると理解していながら、あたかも現実の体験としてそれを受け取る事ができるこの共感力なくしては成立しないものだと思います。

悪く言うと、作り手も受け手も全てが嘘つきの俗人だということです。

ネアンデルタール人は脳の量量が我々ホモサピエンスと同等だったにもかかわらず、文化的進化の遅れによって滅びました。

彼らは嘘のつけない、そして共感力の乏しい聖人でした。


芥川の話に戻すと、彼は極度に強い”自尊心”と”共感力”の持ち主のように思えます。

そしてそれ故、社会が自分に対して正当な評価を下していないという妄想を抱いていたように思います。


芥川の他の作品(例えば「闇中問答」)でもありましたが、彼は自分の受ける報酬や名声にかなりの失望を感じていたようです。

また本作では、彼は周囲が自分の事を「先生」と呼ぶのに酷い嫌悪感を抱いています。彼らは自分を「先生」とへりくだって呼びながら、内心では自分の事を嘲り、馬鹿にしていると感じています。更に自分の義兄も常に自分を卑下していたと感じています。


これらはいずれも高すぎる彼の自尊心と共感力が、その想像を誤った領域にまで立ち入らせた結果のように思えます。

恐らく彼は、

「人間は嘘をつくことが出来る」ではなく、

「人間は嘘しかつかない」

と思うようになってしまったのではないでしょうか?

そしてその人間の中に自分自身も含んでいるのですから、これはたまらないでしょう。

いつの間にか、彼はその強すぎる自尊心のために自分で自分を卑下するようになりました。


自尊心でも共感力でも何でもそうですが、強すぎても弱すぎてもダメです。

その反動は必ず顕れます。

しかし、その結果としてこの大作家なのかもしれません。


彼は暗闇の中で猜疑心にまみれて苦しみました。

とにかく、辛かったでしょう。


この作品を読んでそう感じました。


それでは!

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2021年11月27日土曜日

雨宿り。

 木枯らしの吹く朝だった。

天気予報を見ると、京都は「晴れ時々曇り」だった。

しかし、空は今にも降って来そうな雲行きだった。

「どうしようか?でも雨は0%だし」

私は借りていた本を返すために、散歩ついでに近所の図書館へと向かった。

近所と言っても徒歩で約20分ほどあるので割と面倒くさい。

ついでに、その本はあまり面白くなかった。

外国の医学系の本だったのだが、悪影響の事ばかり語っていて、肝心な根拠についての説明が希薄なので「あぁ、そうですか……」と、次第にページを繰る指の動きが速くなっていくような、そんな感じの本である。

なので、返却に向かう私の気持ちも、この空模様と同様に曇っていた。


約10分ほど歩いたところで、ポツリポツリと空から雨が落ちてきた。

「やばい、こんな中間地点で」

あっという間に土砂降りになった。

「おい天気予報!何を根拠に0%と断言したんだ」

純真な心で天気予報を信じた私は、もちろん傘などは持ち合わせていなかった。

私は目に入ったガレージの軒先にとりあえず非難した。

すぐに犬を連れたおじいさんが同じ場所に入ってきた。

空を見上げると、遠くの方は明るかった。

「おそらく通り雨だろう。しばらくここで雨宿りしよう」

狭い路地の向こうにある理髪店で仕事中のお婆さんが、急に降りだした雨か、或いは雨宿りをしている我々か、恐らくその両方だろうと思うのだが、散髪の手を休めてしきりにこちらの様子を窺っていた。

それから約5分ほど経っただろうか。

やや小降りになったのを見計らって、おじいさんは犬を(強引に)連れて、軒下を出ていった。

犬としてはどうなのだろう?雨にぬれてもやっぱり散歩優先なのだろうか?

私はというと、特に時間に追われている訳でも無かったので、まあもう少し待ってみようという気でボーッと軒下での雨宿りを楽しんでいた。

更に数分後、雨は止むどころかその勢力を増したように感じられた。

すると理髪店のお婆さんが、慌ただしく2階への急な階段を登る姿が目に入った。

それは見ていて恐ろしいくらいの急階段だったので、私はおばあさんが誤って転倒してしまわないかちょっと不安気に見守っていた。

「入れ忘れた洗濯物でも取り込みに行ったのだろうか?」

やがてお婆さんが、再びあの急階段を下りてくる姿が目に入った。

手には傘を2本持っていた。

そして、お婆さんはつかつかと私の元に歩み寄り、

「これ、つこうて。(返却は)今度ここ通ったときでええから」

と、私に傘を一本渡してくれた。

恐らくもう一本は、さっきまでここで私と雨宿りをしていたおじいさんの為のものだったのだろう。

私は「ありがとうございます。助かりました。お借りします」と、深く一礼して傘を受け取った。

お婆さんは、そのままそそくさと理髪店に戻っていった。

「なんて良い人なんだ。さっきからこっちを覗いていたのは我々が困っているのを察したからだったんだな」

私は一気に心の中が晴れあがったように感じた。

土砂降りの中、私はおばあさんの親切がこもった傘をさして、図書館への道を急いだ。

図書館に着くまでに雨はすっかりあがり、天気予報どおりの陽光が差した。

まるで天気に私の心が反映したかのように。

下らない本の返却という苦行と、天気予報に裏切られたショックとで散々になるはずだった散歩が、ある意味そのお蔭で、こんなにも明るく晴れやかなものに変容するとは。

本当に何が幸いするか分からないものである。


下らない本、ありがとう。

嘘つき天気予報、ありがとう。

そして、親切なおばあさん、本当にありがとう。


それでは!

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2021年10月29日金曜日

ネオ・マルクス主義とポストモダニズムに踊らされるな!

 すっかり秋も深まってきた今日この頃。

ここ京都でも、徐々に太陽は優しく、風は厳しくなってきたようです。

どうやら季節が刻々と移り変わるように、社会も常に変容しているようです。

そういえば選挙です。

という訳でたまには政治ネタでも投下してみようかと思い立った私は、近年の社会の変容について考えてみました。


グローバル化が叫ばれて久しくなりましたが、それ自体は実は古くからある形態の一つで別段新しくも何ともありません。

ギリシャやローマ、そして唐などの古代から、常に世界は(その当時における)グローバルでした。シルクロードなどはそれを示す顕著な事例の一つでしょう。

ただ近代になって流通の範囲が格段に広がったことから、その影響力の大きさが注視の対象となったのだと思います。


国を越えて商売をする為には様々な障壁を乗り越える必要があります。

関所で支払う関税や国に支払う所得税、そして各国ごとに定められた商売のルールや使用する貨幣など。

シルクロードの時代から、政府や役人にとってそれは大きな権益となり、商人にとっては逆に障壁となったのでした。

これは現代のGAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)に代表されるようなグローバル企業にとっても全く変わっていません。

彼らにとって政府や役人(つまり国家)とは、自分の利益を棄損する障壁でしかないわけです。

なので、これらの企業は税金を極力払わないで済むような方法で企業経営を行います。

ビル・ゲイツはこう考えています。

「政府に税金を納めても碌なことに使わないのだから、その金は我々インテリが公益に利するように使う方が良いのだ」

100%間違っているとは言いませんが、では彼と中国共産党とのつながりはどうなのでしょうか?

面白いことに、中国やロシアはこれらの企業を自国からシャットアウトしています。自国の産業を食い荒らされ、ひいてはそれが国を弱体化させ、実質的に乗っ取られることを知っているからです。

それでも彼らはお互いに協力するのです。

何故か?

共通の敵がいるからです。

それが西側の民主主義国家です。


国家の最大の権力とは何でしょうか?

徴税権です。

無条件に全国民からお金を集める事が出来る強大な権力です。

前述したように、グローバル企業家にとってこれは自らの利益を棄損する圧倒的な障壁です。かれらは国家という存在が邪魔で邪魔で仕方がないのです。

いわゆる一種のアナーキズム(無政府主義)の考え方です。


そして、この考え方に非常に親和性の高い主義が近年誕生しました。

・ネオ・マルクス主義

・ポストモダニズム


簡単に説明すると、

ネオ・マルクス主義とは、旧マルクス主義における階級(資本家と労働者)を別のカテゴリーで構築し、一方を悪とみなして批判する事です。

例えば人種(白人と有色人種)、ジェンダー(トランスジェンダーと男女)、宗教などで善悪(大抵はマイノリティが善となる)を決めつけ、悪とした方を徹底的に批判します。

ポスト・モダニズムとは、既存の価値観(例えば道徳的観念や科学的理論)を否定し、破壊することで新しい価値観を創造していく考え方です。

いずれの主義にもある共通した目的が垣間見えます。

社会を分断し、政府を弱体化させ、ひいては国家の破壊へと繋げる事です。


これらを鑑みると、近代のグローバル企業家たちが少なからずこれらの主義に影響されて行動している事が理解できます。


国連の幸福度ランキングの常連国であるフィンランドやオランダは、これら左翼的イデオロギーの恰好の遊び場になっています。

民主的な先進国で国力が比較的小さい国は、これらイデオロギーの美辞麗句に倫理的に抗う事が難しいのです。

例えば同性婚が法的に許容されたのもこれらの国が最初でした。

これは既存の価値観を覆しただけではなく、キリスト教における同性愛の禁止という信教の自由にも抵触しています。

これらの国にはもう一つ共通点があります。

税金が異常に高いという事です。

しかし、グローバル大企業にはなぜか優遇の度合いが高いのです。

この仕組みを利用してある一つの策が考えられます。

ベーシックインカムです。

前述したように国家の最大権力は徴税権です。

グローバル企業家はこれをむしろ自分たちの利益の為に利用しようと考えているのではないでしょうか?

例えば、税金をさらに増やす代わりにベーシックインカムを導入すると、これまで生活するだけで一杯だった貧しい層に将来を懸念しなくても良い余剰金が入ることになります。

さあ、そのお金は一体どこへ行くでしょうか?

恐らくドーパミンの命ずるまま、ギャンブルや嗜好品などに向かう事でしょう。

ベーシックインカムと同時にカジノを設置し、そこにスロットマシンを配置するだけで、政府が集めた税金は庶民を通して更にグローバル企業家を富ますことになる訳です。

いわばこの時点で政府は、一部のグローバル企業家の為の集金マシンになり下がるのです。

こう考えると、ベーシックインカムとカジノ設置は彼らにとって非常に相性の良い施策だということに気が付きます。なのでこれらの案が同時に出てきた場合には注意が必要です。


ネオ・マルクス主義やポストモダニズムの激流は、現在ヨーロッパやアメリカを席巻しています。

BLM(ブラックライブズマター)やアンティファ(反ファシスト)などはその典型的な例で、かれらは倫理的優位を逆手にとって政府、警察、教会や化石燃料産業などを徹底的に攻撃しました。

いずれも既存の価値観を壊し、社会を分断することに成功しています。


私は社会の革新については何ら異論を唱えるつもりもありませんし、むしろ必要な事だと思っています。

ただ問題なのは、それらが一部の人の私的野心や私益に基づいて強制される事です。

日本においては明治維新という革新がありましたが、例えば吉田松陰は自らをして「狂狷(きょうけん)の徒」と呼んでいました。

狂狷とは論語の言葉で、今風に言うと「狂」は変革、「狷」は保守という意味です。

彼は、変えなければならない部分と守らなければならない部分とをしっかりと区別しており、そしてそれらは常に公益、国益に基づいていました。

現在の革新のように、その目的が私益に基づく国家の破壊などという恐ろしいものとは真逆のものだったのです。


ここで現在のわが国についてはどうなのか考えてみましょう。

ネオ・マルクス主義やポストモダニズムは決して対岸の火事などではない事に気が付くはずです。

男女別姓、男女雇用均等、沖縄やアイヌの問題などがすぐに挙げられます。

いずれも倫理的正論で武装し、民意を分裂させることで国家の弱体化につなげます。

そして一番大きな問題が、女系天皇許容論です。

日本における女系天皇許容論というものは、彼らにとって日本人に強固な普遍的価値観と統一性をもたらしている礎への挑戦であり、民意を分断するのに最も効果的な材料となっているのです。

彼らはこれらの問題を、ただ倫理的正論によってだけではなく、ある機関を利用して強要しています。

国連の何々委員会です。

通常、国内のある一つの問題を解決する為の立法は国会で十分な議論を交わし、複雑な手続きを経て承認されるのですが、国際条約というものはそれらの手順を踏まずに、同時に多数の国家を制約するルールを決める事が出来るのです。

こんな便利な機関を国家の破壊を目的とする輩が利用しない手はありません。

なので、国連の何々委員会の委員長などというポストを得るために、多くの国や団体がそこに献金し、代表を送り込むのです。

「献金できるのは国に限らない」というのがミソです。


最近、かの日本航空は機内での英語による挨拶を次のように変更したそうです。

以前:「Ladies and Gentlemen」 淑女と紳士の皆さま

現在:「All Passengers」 全ての搭乗者の皆さま


私はこれを日本航空が、「人間の性は男と女だけではない」という、どこかの過激団体からの圧力に屈したように見えました。

何なんでしょう?これ。

しかし、次々と追随する企業が出てくることでしょう。

既存の価値観、常識の破壊。

その先には一体どんな未来が待っているのでしょうか?


さて、簡単ではありますが色々と述べてみました。

ここまで複雑だと、じゃあどうすればいいの?と混乱してしまいますが、近年はマスコミに頼らずとも必要な情報が収集できる時代です。

倫理的正論に騙されてはいけません。

特に、なになに権とかいう言葉が出てきたときは注意しましょう。

所詮「権」などというものは実体の無い夢や幻のようなものです。

権威、権力、人権、権利、などはそれ故、いかようにも利用できるのです。

ついでに名無しの権兵衛。

名前が無いから「権」兵衛なのです。


それでは!


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2021年10月18日月曜日

幸福を感じるとき。そして、とある幸福度ランキング。

 とあるインタビュー番組でこのような問いが発せられました。

「あなたはどんな時に幸福を感じますか?」

それに対し、男女問わずたいていの青年~中年層はこう答えました。

「美味しいご飯を食べている時」

「寝ている時」


私はこれらのやりとりを聞いて「やっぱり原始人から変わっていないんだな、人間って」と思いました。

食べて寝る。

生きるために必須の毎日行うこの基本的な行為に、人は満足感を覚えるのです。


インタビューは続き、こんどは或る老年の紳士2人(A,B)に同じ問いが投げかけられました。

A、Bともにこう答えました。

「人に喜んでもらえた時」

「人の役に立っていると感じた時」


私はこの回答に対し、「なるほど、やっぱり原始人から変わっていないんだな、人間って」と先ほどと同じ感想を持ちました。


子育てから引退し、激しい労働にも耐えられなくなっても、なぜ人の寿命は尽きないのか?

それは彼らに群れの中できちんとした役割が与えられていたからです。

現役層の補助、あるいは導き役(知識の伝承者)としての存在。

以前も書きましたが、それは親戚であるチンパンジーの群れには存在しない役割です。

チンパンジーのオスは獲った食料を決して分配しません。例え妻でも我が子でも。

そしてメスは我が子にしか分配しません。なので子が独り立ちできるまで次の子をもうけません。

つまり、チンパンジーは食料を独りでとれなくなったとき、そして子を産めなくなった時が寿命となります。

ほとんどの哺乳類はこの法則で生涯を終えるのですが、ほぼ唯一人間だけが、それよりもはるかに長い寿命を持つのです。


人間の群れでは、老年層の女は群れの子育てを手伝い、また若い女の採集の指導を行います。

そして男は同様に採集の手伝い、或いは若い男に狩りの指導を行います。

こうすることで女は子が未熟なうちに安心して次の子を産めるようになり、男の狩猟技術の向上は食糧の確保を容易にし、それらは群れの拡大(子孫繁栄)に繋がります。

つまり、老年層は繁殖能力や体力の減衰によって現役世代のような働きは出来ませんが、これまでの知識や技術の伝承によって、群れ全体に貢献するのです。


現代の老齢の人間が、「人に貢献している自分」を認識することで幸福を感じるというのは、まさにこの原理ではないでしょうか?


国連が実施している「幸福度ランキング」とか何とかいう指標があります。

毎回上位を独占するのは北欧諸国(とくにフィンランド)で、2021年度版では日本は56位でした。

そのランキングの指標は以下のような物です。


主観的に自分の生活の満足度を11段階で評価し、

 + 以下の項目を含めて判断する。

1.一人当たり国内総生産(GDP)

2.社会保障制度などの社会的支援

3.健康寿命

4.人生の自由度

5.他者への寛容さ

6.国への信頼度


これを見て私は思いました。

「安心して眠れることや、美味しいご飯が食べられる事が入ってないじゃないかっ!」

さらにこうも思いました。

「そもそも幸福度って相対的なものなのでは?」

隣の芝は青く見える。

これも隣の家に庭が無ければそんなことは思わない訳ですし、とにかく人というものは他人と比べたがる生き物です。

自分がコミュニティーの中でどのような位置にあり、どのような境遇に置かれているのか。

結局のところ、損得勘定は比較することでしか判断できないという訳です。

以前にも説明したH&N回路などによって、生まれつき幸福を感じやすい人というのは確かに存在します。しかしそれらの人がフィンランドに特別多いという訳でも日本に特別少ないという訳でもないので、このランキングの差異はやはり外的要因だと思います。


ここで堂々第一位のフィンランドについてその特徴を挙げてみましょう。

1.高負担高福祉の代表国です。

2.人口密度は約16人/km2で世界171位です。

つまり、フィンランドでは他人と比較しようにもまず隣近所がいない、さらに高負担高福祉なので望まなければ生活にさほど不足を感じないということ。

これが国連の意味不明な幸福度ランキングで、フィンランドが何故か毎回1位の理由だと私は思っています。


フィンランドの特徴として、もう少し挙げておきましょう。

3.隣にロシアがある

4.寒い

国民は常にロシアの脅威にさらされています。なので一人当たりの小型武器の所有率は世界3位ですし、もちろん徴兵制も残っています。ロシアに気を遣ってNATOにも加盟していません。

北欧なので当然寒いです。農作物は育ちませんし、日光の恩恵も少ないので、当然そのような所で豊かな食文化が育まれるはずもありません。

日本人がインタビューで答えた、「安心して眠れることや、美味しいご飯が食べられる」という人間古来からの本質的幸福を、少なくとも日本人より享受できているとはどう考えても思えません。


とまあ、国連の意味不明な幸福度ランキングについてちょっと触れてみました。


最後に、インタビューに答えた老年の紳士A,Bですが、

AとBがその後に続けた言葉に、私は彼らに成熟の差を感じました。


A:「もう富とか名誉とかには興味ないので」

B:「私が出来ることはこのくらいなので」


Aには明らかに虚栄が見られました。(それらはもう持っているから、或いはそれら下劣なものには興味がないから)

それに比べBは正直です。


Aも人間臭くて良いのですが、信用できるのはBだと思いました。

老年の原始人に同じ質問をしたら彼らはどう答えるのでしょうか?


それでは!


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2021年10月10日日曜日

初秋の嵐山まで自転車散歩。

もう初秋の京都。

私は久しぶりに自転車で嵐山を目指しました。

MTBを街乗りに改造した自転車なので走行感は最高なのですが、永らく怠惰に甘んじていた私のお尻は、そのとがったサドルの洗礼にしばしの苦痛と戯れるのでした。


「あぁ、風が気持ちいい。

ジョギングでは得られない景色の流れが心地いい」


ほとんど、というか全くメンテナンスをしていなかったにも関わらず、自転車は私がペダルに込める力を推進力に転換し、グングンと前に進んでいきました。

そして、到着。













嵐山は相変わらず世界に冠たる観光地の威光を保っていました。

それでも休日の人出としては全盛期の半分くらいでしょうか?

直ぐに気が付いたのは、

もちろんほぼみんなマスクをしている事、

そして欧米人の数が激減していた事、

です。

それでも中国語だけはしっかりと至る方向から聞こえていたのは違う意味での驚きでしたが。













渡月橋も相変わらずでした。

大雨の被害にも会っていないのでしょうか?いつもよくやっている護岸や修復の工事も行われていませんでした。














そして奥に見える山こそ、春には桜、秋には紅葉で美しく彩られる嵐山です。

この地域の地層は地殻変動で大きく隆起しており、そのために周囲を断崖絶壁のような景観で囲われています。

それ故、自然を背景として庭を造る(借景)、いわゆる「日本庭園、枯山水」の名所が随所に見られます。


さて、桂川に沿って少し上流に行ってみましょう。













ここもかなりの急斜面です。

そしてその麓に見えるのが貸しボート乗り場、兼食事処です。

たまに着物を着たカップルがボート漕ぎデートを楽しんでいるのを見かける事がありますが、衣裳が濡れてしまわないのか心配になります。

ちなみにこの日も何組が見かけましたが、一組は岸に詰まって立ち(漕ぎ)往生していました。恐らく彼女の彼に対する評価はガタ落ちでしょう。














この川で有名なアトラクションとしては、保津川下りがあります。

この日は見かけませんでしたが、多くの観光客を船に乗せ、舳先に立って講釈しながら急流を下る船頭の姿は実に頼もしく見えます。


「さて、日も暮れそうだしそろそろ帰るか」

踵を返すと、渡月橋が見えました。













こうしてみると、まさか世界が今伝染病の恐怖と戦っている最中などと誰が想像できるでしょうか?

実にのどかなものです。


「たまには自転車で遠出するのもありだな」


私はこの風景にしばし現実を忘れ、ぼーっと見惚れていました。

心の洗濯を終え、再び自転車に跨った私は、再び襲うお尻の痛みと格闘しながら家路に就きました。


私は帰路を快調に飛ばしながら、ふとこんなことを考えました。

「自転車は実に体に優しい乗り物だ。

 何しろ体と硬い地面とが接していないので、ジョギングのように骨に衝撃がかからない。

 膝に故障を抱えている人には最適な運動手段だが、健康ならばやはり骨にもある程度の負荷は必要になる。骨も甘やかしすぎると脆くなるのだ」


こう考えるとトライアスロンとは実に合理的な競技です。

筋肉負荷 : ジョグ < 自転車 < 水泳

骨の負荷 : 水泳 < 自転車 ジョグ  

と、実にバランスよく構成されているのです。

さらにいずれの種目も持久力を要します。


「なるほど、どうやら適当に組み合わせた訳ではないようだ」

私は意味なく独り言ちながらペダルを回していました。

滲む汗を爽やかな風が拭います。

するとまたこんな事が頭に浮かんできました。


「何のために汗をかくのか?

もちろん走るためである。

それでは何のために走るのか?

もちろん狩猟の為である」


その昔、我々の遠い祖先が狩猟採集で生きていた時代、肉を確保する主な手段は腐肉漁りでした。

動物の死骸を漁って貴重なたんぱく質を得ていたのですが、それとて危険と隣り合わせです。ハイエナやその他の肉食動物との競争率がとにかく高かったのです。

当時から戦闘力が最弱だった人類は、やがて多くの肉食獣とは異なる狩猟方法を思いつきました。

昼の炎天下、動物が木陰にこもり動かない時間を見計らって、草食獣を狩るのです。

汗で体温を下げられる人間は、呼吸でしか体温を下げることの出来ないその他の動物に比べ高い気温に対する耐性が高かったのです。


車で例えると、

高性能の水冷式冷却システム = 人間

空冷のみの冷却システム = その他の動物

となります。

もし空冷のみのF1(つまりラジエター無し)と一般乗用車がサーキットで競争すれば、後者が必ず勝ちます。

前者は間違いなくオーバーヒートするからです。


更に二足歩行によって、直射日光を受ける面積が四足歩行動物に比べ圧倒的に狭いこともそれに寄与しました。

この特性を以て人間はとにかく獲物を追い続けました。

いつまで追うかと言うと、相手が日射病で動けなくなるまでです。

瞬発的なスピードでは全然かないませんが、人間は獲物の逃げる方向を予測し、獲物が自分の熱を冷ます時間を与えないようにして徐々に追い詰めるのです。

当時は槍などの投擲武器も無かったので、人間の狩猟手段はただ獲物が熱暴走を起こして動けなくなるまで追い続けるという持久作戦しかなかったのです。

ちなみにこの手法は、割と近年までアジアやオーストラリアの原住民が採っていたようです。


つまり、人間の体は(長く)走るために最適化されているという事です。

なので、人は走る事が大好き(なはずです)。

犬が意味なく全力疾走して実に楽しそうに遊んでいる光景を思い浮かべてください。

それはそのまま我々人類にも当てはまります。

これほどジョギングやマラソンなどの長距離走を自ら進んで娯楽として楽しむ動物は他にいません。

もし我々の上位の存在がいるとしたら、彼らはきっと我々が犬を見て感じる微笑ましさを同じように我々に対して抱いている事でしょう。


さて、こんな事を考えているうちに気が付くと帰宅していました。

サイクリングにはジョギングには無い楽しみがあります。

遠くまで行ける事、

そして、走りながらでも割と思考が出来る事。

更にその思考は、散歩のときと同様に前向きで創造的なものになります。


「たまには自転車にも乗らないとな。

 今度洗車でもしてやろうか」


決意が実行されるかどうかは定かではありませんが、少なくともこの時の前向きな自分はそう思ったようです。


それでは!

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2021年10月8日金曜日

人でありたいなら爪先を意識しろ!

 「適度に散歩をして適度な日光を浴びる」

これまでの記事にも度々書いてきたように、これほどコストパフォーマンスに優れた健康法は無いと私は思っています。

日光に含まれる紫外線B波は、ビタミンD生成に欠かせないものですし、それが欠乏することにより様々な(睡眠含む)弊害が発生します。

また二足歩行こそ人の人たる所以といっても過言ではないほど、人の体(或いは脳も)は歩くことが前提のシステムで構築されているように思えます。

(いずれも過去の記事に詳しく書いてありますので、もし気になる方がおられれば検索してみてください)


私は散歩をしながら、歩くことについて考えを巡らせていました。

「なぜ人だけが二足歩行なのだ?

 私は今ほぼ無意識に歩いているが、歩き方はこれで合っているのだろうか?

 そもそも私は今まで生きてきた中で、人から歩き方などを習った覚えが無い」

我ながらなんと平和な散歩でしょうか……


約600万年前、人は猿と分かれて独自の進化系統に進んでいきました。

その後多種多様な人類が誕生しましたが、今や人類は我々ホモサピエンスだけになってしまいました。

なので人が人たる所以を説明するのに最も適当な動物が、DNA配列が人と極めて近いと言われるチンパンジーです。

そのチンパンジーと人がおなじ祖先から分かれて、まず最初に現れた差異が二足歩行だと言われています。

詳しい背景は省略しますが、様々な環境要因から人は移動の必要に迫られ、逆にチンパンジーはさほどその必要に迫られませんでした。


それではなぜ二足歩行なのか?


手で道具を使うためという説も有りますが、実は人が道具(石器)を使うようになったのはそれから何百万年も後の事です。

そう考えると、二足歩行の直接的動機としては弱く感じます。

むしろ順序が逆で、手を使うための二足歩行ではなく、二足で歩くようになった結果、わりと手が自由になったと考えるほうが自然に思えます。

ある本によると、数あるデメリットを承知で人が二足歩行を始めた理由は、とにかく長距離を移動する必要に迫られたからだということです。

しかし四足に比べると、二足歩行のデメリットは多岐に渡ります。

(チンパンジーと人との比較だと考えると分かり易いと思います)


1.速く走れない。

2.走行中に急な転回ができない。

3.木登りが下手になる。(足の親指が短く真っすぐになり、木をつかめない)

4.出産が大変。(骨盤の変形)


このうち1から3は捕食者に捕まる可能性が高くなります。

4は子孫を残せる可能性が低くなります。

つまり、いずれも生物の進化の方向から考えると有りえないものばかりなのです。

それでも人は二足歩行を選択しました。


つぎに人がチンパンジーと別れた頃の二足歩行のメリットを考えてみましょう。


1.省エネで長距離移動が可能。


結局、このたった1つのメリットがその他の致命的なデメリットを上回った結果、彼らは生き残り、そして今の我々に繋がっています。


ちなみに1.を説明する為には、人とチンパンジーの足のつくりを比べればよく分かります。


①人は足が長い。

②人の足は真っすぐ前を向いている。

③人は膝が大きい。

④人には土踏まずがある。

⑤人の踵は大きい。

⑥人の足の親指は真っすぐで短い。


他にもありますが、これらはいずれも二足歩行の為の進化です。

さて、ようやく本題に戻ってきました。

ここで私は⑥に着目することにしました。


まず人の「歩く」という行為を横から見てみましょう。

基本、片足を前後交互に動かして進みます。

その時の腰の位置を確認してみると、ある事実が浮かび上がります。

片方の足のつま先で地面を蹴ってもう片方と丁度重なった時に腰の位置は最も高くなり、そしてかかとで着地した瞬間、つまり両足が最も開いた時に腰の位置は最も低くなります。

この高さの差はそのまま位置エネルギーに置き換える事が出来ます。

つまり、二足歩行ではつま先で地面を蹴って得た位置エネルギーを前方への推進力として活用していると言えるのです。

確かにチンパンジーの”がに股”、”すり足”での二足歩行では、高低差を利用した位置エネルギーなどは活用できるはずもありません。

かれらの足の親指は、木の枝などを掴めるように長くて内側を向いている(人間の手と同じ)ので、二足歩行には適していないようです。

実験によると、二足は四足の3分の1ほどの消費カロリーで移動できるという事です。

つまり、同じ食糧でも移動距離は3倍ということです。

チンパンジーの一日の移動距離は約2kmということですから、二足歩行の人間は一日にその3倍の約6㎞ほど移動できたわけです。


余談ですが、人が走る時の位置エネルギーの推移は歩行時とは真逆になります。

つまり両足を開いた時に最も高くなり、交差する瞬間に最も低くなるのです。

なので必然的に使う筋肉や用いる技術が異なってきます。

競歩とマラソンが似て非なる理由がここにあります。


さて話を戻して、本来手の親指と同じ役割だった我々の足の親指は、二足歩行のためにそれ専門の形状へと進化しました。

逆に言うと、

二足歩行の為には足の親指が必須!

ここを意識せずに正しい二足歩行などあり得ない!

という事にもなるのです。


ところがスニーカーや革靴などで歩行するようになった我々は、ともするとチンパンジーのような「がに股」「すり足」になりがちです。

腰の上下動が無く、位置エネルギーも使えていないので、歩いてもすぐに疲れたりします。

そうすると更に歩くのが嫌になって、やがて土踏まずの筋肉も徐々に退化していきます。

そうです、言い方を変えるとチンパンジー化しているのです。


私はこの理屈から、歩くときに出来るだけ足の親指を意識するようにしました。

腰の上下動に連動し、視界の上下の揺れも少し大きくなったような気がしました。

するとどうでしょう、

歩幅が少し広くなりました。

胸が張り、背筋がピーンと伸びました。

ふくらはぎとお尻の筋肉に張りが出て来ました。

それほど長く歩いていないので、疲れやすさの有無はよく分かりませんでしたが、明らかに楽になりました。

測定していないので感覚だけですが、つま先の筋肉まで動かしているので、おそらく足の血流も良くなっているでしょう。


よく背筋を伸ばして、猫背にならずに歩きましょうなどと言われますが、そんなことをせずとも足の親指に少し注意を向けるだけで必然的に歩き方は正しく美しくなるのです。

たるんだ紐を真っすぐにするには、垂れ下がった中心を持ち上げるのではなく、端を引っ張れば良いのと同じ理屈です。


これらは靴を履いていると中々実感しにくくても、家で裸足の時に試してみると直ぐに分かると思います。(靴の弊害の一つですね)

本来ならば裸足で歩くのが最もいいのでしょうが、現代においては無理があります。

なので、最初は意識して、慣れればそれが当たり前になると思います。

ただ一つ注意しなければならないことがあります。

このように人間らしく歩けるようになると、周囲の「がに股」「すり足」で歩く人達が本当にチンパンジーに見えてきます。

もし接する場合、認識は直ちに元に戻すように!


という訳で私は決めました。

次にスニーカーを買う時は、出来るだけ底の薄いものにしよう、と。


それでは!


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2021年10月3日日曜日

「もっと!」ドーパミンが誘う我々の未来。

「もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学」

 ダニエル・Z・リーバーマン、マイケル・E・ロング

最近私が読んでいる本です。


このブログでも何度かドーパミンに触れましたが、ドーパミンはこれまで快楽物質とかいう変なレッテルを貼られていました。

しかし近年の研究によって、ドーパミンは人間の探求心を惹起する脳内物質だということが分かってきました。

「あの山の向こうには何があるのだろう」

「あの娘の事がもっと知りたい」

「これは何だろう」

などと言うように、主に人間の未来(将来)について、少しでも良い(生存確率を上げる)結果をもたらすように我々を駆り立てる役割を果たしています。

動物にもあるのでしょうが、これは人間の専売特許です。

なぜ人間にこのような機能が備わっているのでしょうか?

遺伝子マーカーのパターンや出現頻度の調査によって、約20万年前にアフリカに出現した我々の直接の先祖は、およそ10万年前に突然その母なる地から旅立つことを決意しました。


やがて、

約5万年前にアジア全域に拡がり、

4万6千年前にオーストラリアに到達し、

4万3千年前にはヨーロッパに、

そして3万年前~1万4千年前には北米にまでたどり着きました。


それまでの長いアフリカでの狩猟採集生活を捨て、未知の世界へ乗り出した力の根源こそドーパミンだというのです。

我々の祖先は、その進化の過程において、何度か絶滅の危機に瀕したことがあるようです。

詳細は不明ですが、大部分が死滅し、一時人口が2万人未満にまで激減したこともあるようです。

「一か所に留まっていてはダメだ!リスクを分散しろ!絶滅するぞ!」

と誰が言ったのかは知りませんが、とにかく我々は急に探索意欲に満ち溢れた生き物に進化したようです。


ドーパミンは極めて未来志向です。

「現在」や「既存」(すでに所有しているもの)には全く興味がありません。

とにかく「遠く」、「手の届かない場所」に我々を誘うのです。

本著ではドーパミンの正体は「報酬予測誤差」にあり、ポイントは予想外の良いニュースがもたらすゾクゾクするようなな快感にあるとしています。

例えば現代においては、「出会い系」とか「ギャンブル」とか「海外旅行」とか(もうドーパミン産業といっても良いと思う)、この原理に即したアクティビティ?が我々を取り巻いています。

面白いことに、ドーパミンは「予想外」に特に惹かれます。

なのでこれらの産業は巧みにその性質を利用しています。

それは現代の標準的なカジノの80%のスペースがスロットマシンに割かれていることからも明白だという事です。

エサを求めてひたすらボタンを押し続ける研究用マウスと同様に、777の快感を求めて人はスロットマシンのボタンを押し続けるのです。


突然ですが、ドーパミンについて一つの例題があります。

もし以下のような状況に置かれた場合、あなたはどのような行動をとるでしょうか?


《例題》

部屋に入ると、中央の大きなテーブルの向こうに一人の男が腰かけていました。

男はいかにも尊大な態度で豪奢なソファに深く腰掛け、腕組みをしてあなたを不審そうな目つきで睨んでいます。

「さあ、どうぞ、座りなさい」

男は低く事務的な声で私にそういいました。

私は男の言うとおりに手前の椅子に座りました。

さて、その時の私の態度は?


1.小さく縮こまり、出来るだけ男の印象に良いイメージを与えようと努める。

2.男と同じように、いやそれ以上に尊大な態度で対抗しようとする。

3.男には無関心と言わんばかりに、平静を装う。


実はこの問いと同様のケースを実験した研究があるようで、結果は多数の人が1.の態度をとったそうです。

そしてこの結果は、まさに我々の行動がドーパミンによって制御されていることを証明しているということです。

なぜ?


前述したように、ドーパミンは我々の未来(将来)を少しでも良いものにする為に存在しています。

ただし、ドーパミンに倫理感や道徳感はありません。

手段を択ばず良い未来に誘う!

それがドーパミンです。

そして、良い未来というのは必ずしも自分が上に立つ必要はないのです。

相手に屈したくない、卑屈になりたくないという、変に人間臭いプライドが邪魔になる時だってあるのです。


上述のケースおいては、

相手の成功(権力)を無意識に感じ取った人は、相手の邪魔にならないように服従する体を取り、悪く言うとその力に与かっておこぼれを貰う、良く?は言えませんが、とにかく相手を利用して自分にとって幸福な未来を手に入れようとしているのです。

ドーパミンの目的は未来の為に環境を支配することであって、その環境にいる誰かを支配することではないのです。

いわゆる「面従腹背」、「虎の威を借る狐」ということですが、

皆さんは相手に服従していながらも、その相手を自分の意のままに動かし主導権は握ってい無いにもかかわらずその場を支配しているという感覚に、妙な高揚と喜びを感じた事は無いでしょうか?

これがドーパミンのもたらす快感です。


本著によると、

「道徳的だろうが不道徳だろうが、支配的だろうが服従的だろうが、良い未来につながる限り、それはドーパミンのなせるわざなのだ」

という事になる訳です。


なので、もし例題の相手が弱々しく卑屈な態度で座っている男ならば、ここでの「私」の態度は180度転換することになります。

成功しそうにない、力を持っていそうにない相手に対し、今度は自分が主導権を握るべく尊大な態度をとるのです。

「人を見て態度を変える」

なんとも嫌な奴ですが、ドーパミンにとっては幸せの為の最適解なのです。


ちなみにですが、私の選択は2.です。

私はドーパミン活性が低い?のでしょうか。将来よりも変な見栄やプライドにこだわる性質は大人になってより顕著になっているような気がします。

何とかしないと。


さて、

1.= ドーパミン活性が普通の一般人

2.= 私のようにドーパミン活性が低い人(多分)

だと思うのですが、

それではドーパミン活性が高い人はどうなるのでしょうか?

本著には書かれていませんでしたが、以下の例で何となく分かるような気がします。


●ドストエフスキー

 人類への愛が大きくなればなるほど特定の人間への愛は小さくなる。

●エドナ・ミレイ

 人類を愛しているが、人間は大嫌いだ。

●チャールズ・シュルツ

 人類の事は愛しているよ……僕が我慢できないのは人間なんだ。


そして極め付きは、かの

●アインシュタイン

「私の燃えるような社会正義感と社会的責任感は、他の人間たちとの直接的な触れ合いを求める気持ちの明らかな欠如と、常に奇妙な対照をなしていた」


いずれもドーパミンの塊のような人たちばかりですが、共通するのは個としての人には興味が無いどころがむしろ「嫌い」だという事です。

彼らにとって人間とは、研究、或いは探索対象としての「人類というカテゴリー」であって、交流して友情や愛を共有する「個としての人」では無いということです。


さて、如何だったでしょうか?

何事もそうですが、ドーパミンもありすぎても無さ過ぎても困りものだということが分かりました。

そして、我々を取り巻くネットやギャンブルなどの娯楽の渦は、本来は将来の幸せの為にあるドーパミンの性質をうまく利用して利益を上げているという事も。


本著をさらに読み進めて、また紹介したいと思います。

それでは!



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2021年9月27日月曜日

「The Secret World of Sleep」年と共に睡眠の質は低下する!

 昨日は折角の休日だというのに私の体調は最悪でした。

何故だか体が重く朝からずっと眠い、とにかく眠い。そのまま夕方になっても眠いので、このまま明日の朝まで眠れてしまうのではないだろうか?などと思いました。

「なぜこんなに眠いのだ?まだ筋トレの疲れが残っているのだろうか?」

とも考えましたが、世間ではいつの間にか、何の相談も無く台風が接近していたようで、もしかするとその急激な気候の変化に体がついていけていなかったのかもしれません。


打って変わって本日は晩夏の快晴。

清々しい天気に昨日の不調もどこ吹く風、私の体調はすっかり回復していました。

まるで自然を忌避しているかのように遠ざけていく現代の都市生活の中にあっても、やはり我々の身心は自然と共にあるようです。

人生に、生活に、社会に疲れた時、人は自然の中に回帰しようとしますが、これは至って自然な行為なのだと思います。

都市生活は心にとって実に複雑で高負荷ですが、五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)にとっては実に単調で低刺激です。空の見えない密室の中に在っては、五感は麻痺しているも同然なのです。

それに比べると自然は心にとっては穏やかですが、五感にとっては実に複雑で刺激的です。

美しい景色、小川のせせらぎや鳥のさえずり、大地を踏みしめる感触、木々や海の匂い、おいしい水や果物、いずれも我々の感覚を生き生きと蘇らせてくれます。

とまあ、こんな事を書いていると、またどっか散策に行きたくなりました。

早くこの異常事態が収束しないものかと切に願う日々です。


さて、前置きが長くなりましたが。

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」の一応最終回です。(原題「The Secret World of Sleep」)


人は年をとると睡眠時間が短くなるということは、おおよそにおいて体感、或いは周囲の状況から察することが出来ると思います。

年齢によるその時間差が、太古の昔には集団の保全に役立っていたことは以前の記事【「人≒チンパンジー」 いや 「人>チンパンジー」 だ!】に書きました。

しかし、やはり睡眠時間が短くなるということは老化そのものであり、またそれを促進することにも直結します。

何故なら、ただ時間が短くなるだけではなく、(以前の記事【「The Secret World of Sleep」寝たのに疲れる理由とは?】で説明した)徐波睡眠がハッキリ減少するという弊害を伴っているからです。

徐波睡眠は疲労を取り除き、記憶を整理するという重要な役割を担うパートなので、これが減少すると当然疲れは抜けず、記憶の固定がされづらくなって記憶力が低下します。

なので昨今の長寿社会において、老年期の睡眠はそれまでに増して重要になってきます。


ではその重要な徐波睡眠をどう確保すればよいのか?


本著で紹介されている手法の一つに、午睡をとるというものがあります。

もちろん前述した私のように朝から夕方までうとうとしていては、本来夜にとるべき睡眠が犠牲になってしまうので、あくまでうたた寝程度にとどめる必要があります。

本著では、午後の睡眠は一般的に徐波睡眠であると紹介されています。

つまり睡眠の第3段階です。

これを越えて第4段階にまで入るとレム睡眠に移行してしまうので注意が必要です。

あくまで午睡は「うたた寝」が最適です。


仕事中でも昼食を採って暫くすると眠くなってうとうとすることがありますが、(許されれば)思い切ってうたた寝をすると、午前の(頭や体の)疲れが取れ、リフレッシュされるので業務効率の向上に効果的なのですが、今のところ日本の企業風土においてはそのような志向にはなっていないようです。

(ちなみにアメリカの某大手IT企業などは、自由にうたた寝がとれる環境を完備している所もあるのだとか)

いずれ、日本の先進的な企業もこれに追随していくのではないでしょうか?


このように軽く昼寝をして夜はしっかり眠ることで、老化の弊害を最小限に食い止める事ができるようです。


また、睡眠には全くの静寂、無音の環境よりも、むしろ自然のものに近い音環境が効果的だという研究結果もあります。

英国のいくつかの病院では、鳥のさえずり、波の音、ときにはいびきの音まで含んだサウンドスケープが導入されているようですし、インターネットで人気のバイノーラル・ビート(両耳性うなり)の異なる周波数を両耳で聴かせる音楽も人気です。


最後に貴重な夜の睡眠前の食事について一つ。

一般的に就寝の3~5時間目に食べるものは、睡眠の質を左右すると言われています。


・眠気を誘う食品としては以下のものが挙げられます。

ヨーグルト、ホットミルク、チーズ、豆乳、はちみつ、マグロ、バナナ、ジャガイモ、アーモンド、豆腐など。

つまり主に良質のたんぱく質。


・逆に睡眠の質を低下させてしまうものとしては、

コーヒー、チョコレート、アルコール、チラミンが含まれる食品、

コショウ、燻製の肉や魚など。

つまり主に刺激物!


不眠っぽいなと思ったら、これらに気を付けて夕食のメニューを組んでみてもいいかもしれません。


さて、如何だったでしょうか?

近年は睡眠についての研究や、それに伴う著作物も多く出版されています。

それだけ睡眠という行為が我々人間にとって重要で、これまで想像もしていなかった効果を我々の身心に及ぼしていた事が次々に解明されていることの証拠なのだと思います。

睡眠についての研究は、恐らくこれからまだまだ発展していくでしょう。

来年には、もしかすると今日の常識は非常識になっているかもしれません。


でも確実なのは一つ、

「我々人類は、こと身心において原始人の頃とさほど変わっていない」

という事実です。

これさえ押さえておけば、様々な学説も何となくその是非が推察できるのではないでしょうか?


まだまだ私の睡眠学習?の旅は続きます。


それでは!

 
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2021年9月22日水曜日

衣笠選手の特集を観て……意味づける!

 ついさっき、某NHKで衣笠選手の17年間連続試合出場の特集を放送していたので、途中からだが一応最後まで観た。

実は私は記念すべき当ブログの初投稿記事において、フランスのサッカー選手の差別的行為について述べたついでに、当時たまたま知った衣笠選手のインタビュー記事を引用したことがある。

なので、今回も”たまたま”チャンネルが合っこの特集に興味をそそられたのだ。

特集では、氏の17年にわたる努力、葛藤、そしてスランプの時の苦悩について淡々と描かれていた。

特にスランプの時のエピソードは、まるで網に掛かった魚が身もだえしているような焦燥と、逆に金縛りにあったように体が動かなくなる恐怖とが入り混じって、思わず手に力が入ってしまうような緊迫感を私に抱かせた。

残念ながら連続イニング出場回数はそこで途切れてしまうのだが、それでも連続試合出場記録は続いていく。

監督やチームメイトなども氏の扱いや接し方にかなり気を遣っているようだ。

ただ、球団の経営層や一部ファンからは「もう変えろ」の声も聞こえてくる。

それらの期待や批判の声を背中で受け留め、氏はたとえデッドボールで骨折しても打席に立ち続ける。


ある日、氏がシーズン中に宿泊しているホテルの一室にカメラが入った。

そこには読書をする氏の姿があった。

本のタイトルは正確に覚えていないが、確かゴルフをする時の心がどうこうという類の古い本だったように思う。

野球選手がなぜゴルフの本を?と私は思ったのだが、氏によると、それは遠征先にも持っていくほど大事な本なのだそうだ。

氏は本の内容を一言でこう言い表した。

「とにかく練習しろ!」

いかに鉄人と呼ばれる「衣笠」でも、やっぱり疲れて練習をさぼりたい日もあるそうで、そんなときにこの本を読んでモチベーションを上げるらしい。

氏は続けてこう言う。

「練習するとね、ただ野球がうまくなるだけじゃないんですよ。それ以外にも一杯成長(勉強)する要素があるんですよ」

と正確には覚えていないが、確かこのような内容のことを語った。


それを聞いて私は思った。

なるほど、練習の為の練習をするなとはよく言うが、それなら目的の為の練習ならOKかと思いきや、氏は更にもう一枚練習の意義を付与している。

練習は目的(野球の上達)を達成する為の行為だが、それ以外にも様々な付加価値を生む(与えてくれる)行為であると。

精神的な成長、思考の成長、或いは身体的……その他。

何をするにしても、その行為に対する意味づけが異なると、結果は大きく違ってくるのだろう、恐らく。

私は自分の行為(仕事、練習、勉強、運動など)に対して、どのくらい深く意味づけをしているだろうか?

いや、ほとんどしていない。

ただ漠然と、惰性で、ルーチンワークとしてやっていることが多い。


氏は自分のプレイについて常に事細かくノートをつけているそうで、なぜ?どうして?をかなり深く掘り下げて考えるらしい。

同じバットの素振りでも、捉え方や意味づけの仕方で随分と得られるものが違ってくるのだろう。

一般的に練習は地味で苦しくて楽しくない。

すぐに報酬が得られないし、また確実に得られるとも限らないからだ。

でもそれは練習の報酬がただ一つ「野球の上達のみ」と限定しているからで、実はそれ以外にもたくさんの報酬が得られる事が理解出来れば、そういう地味な作業に対する取り組み方も変わってくるのだ。


私は記念すべき当ブログの初投稿記事において、衣笠選手から引用した下記の言葉が、なぜ氏の口から至極当たり前のように出てきたのか理解出来た気がする。


―――私は子供たちに向けて野球をしている。スポーツ選手は常に子供たちのお手本でなければならない――


今、このようなスポーツ選手がどのくらいいるのだろうか?

疑問である。


それでは!

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2021年9月20日月曜日

人は何も決めていない。意識(意思)の話。

散歩をしていると何故か頭が活性化される。

なんだか前向きな思考になるし、色々なアイデアも湧いてくる。

私はこれまでその理由が「ただ単に運動して頭に血が巡っているから」という風に考えていたが、最近の脳科学についての研究をいろいろ漁ってみると、どうやら一概にそれだけではないように思えてきた。

一説によると、意識とは会社の社長のような決定権を担う存在などではなく、社史編纂係のような割と受動的な立場のものであるという。

実は我々は自分の意識(意思)で何も決定しておらず、体の感覚やその他の機能によって決定された行動のログを受けとって、あたかもそれが意思により決定されたかのように認識させられているのだ。

つまり、ここでの意識(意思)とは、会社の誰かが決定した結果を記録し、それを社内報で発信する担当であり、社の活動に対する決定権など何一つ有していないことになる。


例えば、蜂に刺されて手に「痛み」を感じるという認識は、

①まず触覚によって感知された刺激が脳に伝わり、

②そして身体的な反応(血流増加、瞳孔拡大、発汗、表情の歪みなど)を経て

③それが意識に痛みとして記録されるのだという。

つまり①から②の間、我々は痛みを感じていない。意識として認識されるのは必ず体の反応の後なのだ。(言い換えれば、体の反応が無ければ何も感じないということで、いくらお化け屋敷で脅かされても、体の反応が無ければ脳は脅威を感じないということだ)

そして③のあとに蜂を払いのけようとして手を動かすのだが、脳の電気信号をモニターすると不思議な事に意識を司る領域が反応するのは実際に手が動かされたコンマ何秒か後らしい。

我々の手は、意識(意思)で手を動かそうと思う以前に既に動いているのだ。

これは意識(意思)で手を動かそうと思って手が動いたのではなく、意識以外の何らかの指示で手が動かされていることを示している。

一体なんだろう?


手を動かしたという行為が意識に伝えられると、そこで意識はあたかも自分で決定して手を動かしたかのようにコンマ何秒か前の出来事をたった今自分の意思で行ったかのように時間を書き換えて認識して(させて)いる。(過去を今と誤認させる)

パソコンで例えると、人間が決定のマウスボタンを押した時間と、それが記録としてメモリーに書き込まれる時間には僅かなズレが生じるはずだが、パソコン本体は後者の時間を決定時間とみなし、あたかもその決定がその時間に自身の能動的に発した行為として見なしているようなものだ。

人間の意識とは、実際の決定行動とその認識の時間差を埋め(ごまかし)、自分の行動は全て自らの意思決定の結果であるという錯覚をもたらすためのものなのだ。

能動的、主体的とは一体なんなのだろうか?

そしてその主体とは一体誰なのだろうか?


話頭を転じて、良く知られているように熱湯に触れて手を引っ込めるというような「反射的な行動」はどうだろうか?

この場合、意識は無視される。

なので我々は自分の意思で手を引っ込めたという風には認識できない。命にかかわるような出来事に対しては意識への記録という作業のプライオリティは低下するからだ。

意識を介さない行動は反射として認識される。


意識は、陰で決定を下すその他の感覚によって常に占有されている。

パソコンで言えば一時的に作業記憶を留めるメモリーのような物だ。

ボーッとして何もしていない時でさえも、「今私は暇である、どうしよう?」などという事を記録し続けている。

つまり逆説的にいうと、反射的な行動とは、意識の一時的な解放のことである。

そして私は思うのだが、もう一つのケースとして、習慣的あるいは単調な行動をしている場合も意識は解放されているのではないだろうか?


例えばこんな経験をしたことはないだろうか?


会社での仕事を終え、いつものように慣れ親しんだ道を慣れ親しんだ車で帰途に就く。

「あぁ、今日は大変だったな。でもまだ解決していない。明日どうしようか?あ、そういえばビールが無くなっていたな。今日は帰りにちょっとスーパーに寄らないと」

などと考えながら運転していると、いつの間にか家についていた。

道中、意識の中にはほぼ運転のことなど無かったのに、

かつ、スーパーに寄ろうと思っていたのに、

あの曲がり角でウィンカーを右に出して、ハンドルを右に切って右折するなどと、一瞬たりとも思わなかったのに、

きちんと帰宅出来ている。


或いは朝、家の玄関を出て数秒後、

「あれ?ちゃんと鍵閉めたっけ。覚えてないな、念のため確認しとこう」

と玄関まで戻って確認すると、きちんと鍵はかかっている。

かけた覚えはないが、結果としてちゃんとかかっている。


このような誰もが少なからず経験する出来事は、我々が意識で行動を決定しているのではないことを示唆しているような気がする。

そして、そのような場合(意識に行動記録が書かれない)には、意識はその他の感覚からの占有を解かれる。

そして占有を解かれた意識はどうするか?

自由に考えはじめるのである。

誰の束縛も受けていないその時、我々の意識は初めて自由意思を持つことを許される。


無意識の行動をすることで他感覚の束縛から意識を解放する。

これが、散歩をしているときにアイデアが溢れてくる一つの要因なのではないだろうか?

では同じように無意識で行う貧乏ゆすりや頭を掻いている時などでも同様なのか?という疑問に対しては、こう答える事が出来る。

それは脳を流れる血流の量に違いがある、と。

同じように無意識の行動でも、体を動かす散歩と指先足先をちょっと動かすだけの行動とでは脳の環境が異なっている。

血流促進によって脳に新鮮な酸素と栄養が行き渡った状態で、記録係としての役割から解放された意識の活動は最高のパフォーマンスを発揮するのだろうと思う。


人がまだ獲物を追っていた時代、何かを求めて歩く、或いは走るという行為は人の最大の武器であり、生命に関わる重要な行為だった。

なのでその最中は最も知恵が必要であり、最も創造的な行動が必要だった。

散歩で頭が活性化される要因は、このような太古の人類の必要に応じたものではないだろうか?

そう考えると、何かを思索中(例えば作文や数式を解くなど)に無意識に頭を掻いたり髪をいじったり貧乏ゆすりをするのは、脳が意識を解放する為の疑似的な散歩だとも考えられる。

そして、意思決定が意識の所業でないとすれば、思索をするから貧乏ゆすりが始まるのではなく、貧乏ゆすりを始めるから思索に集中できるのだ、とも言える。


ドーパミンの扇動的な行為といい、意識の虚偽的な作為といい、我々はまだまだ自分自身について分かっていない事が多い。

このように考えてみると、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我有り」という言葉は、確かに我が意思だとすると我は有るのだが、それは(意思)決定する我=自我ではないということになる。

それでは我とは一体なんだろう?などという事になって、ますます収拾がつかなくなる。

不思議である。


というような無駄な事をつい考えてしまうのも散歩の最中であり、パスカルが「人間は考える葦である」とはよく言ったものだと思う。


それでは!


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2021年9月18日土曜日

恋愛と不眠とH&Nについて。

 昨日は久しぶりに徹夜をしてしまった。

いや、決してヒャッホー的な意味で楽しく過ごしたのではなく、どちらかというと眠れなくてただ悶々としていたという具合で。


こういう時に想い出す言葉がある。

 トーマス・マン著 『ブッテンブローク家の人びと』

 我が子よ、昼は仕事に喜びもて励め、されど、夜、安らかに眠れるごとき仕事にのみ励め。


この言葉に照らして言うと、つまり今の私は日中に適切ではないストレスを感じているという事だ。

今になってつくづく感じるのだが、私は気分転換、すなわち興味の方向を変えることが下手らしい。一つの事に執着してしまう傾向がある。

これまで読んだ脳内の仕組みに関する著書によれば、私は恐らくドーパミン濃度はそれほど高くないように思われる。どちらかというとH&N回路の方に比重が置かれている性格のようだ。


ドーパミンとH&N物質は互いに補完しあう関係にあり、例えば恋愛でいうと、

気に入ったあの娘を落とすために働くのがドーパミン、

そして見事成就するとドーパミンはその役割を終える。

やがて一年もするとあんなに熱く燃えていた恋愛感情も薄れ、不満の種が頭をもたげてくる。

そこでようやく動き出すのがH&N物質だ。

H&Nはドーパミンのように未来を見ない。

現在あるものに関心を示し、それを維持することで幸福感や満足感を得るためのものだ。

つまり簡単に言うと、

ドーパミン特性の強い人は移り気で現状に満足することは少なく、H&N特性の強い人は一途で現状に対する満足感も得やすい、

という事である。


私の場合よくあるのが、

付き合い始めると割とすぐに友達モードに移行してしまい、ただ一緒にいるだけでも割と幸福感を得られるせいか、強い恋愛関係を求める相手からするとどうも冷めた感じに見えるらしく、もの足りなさを感じるらしい。

つまり、薄く長い関係になりがちなのだ。

これは恋愛初期の女性にとっては不満だろうと思う。


この保守的?な性格をどうにかしたいとは思っているのだが、性格ゆえになかなか難しい。

もう少しドーパミンをうまい具合に操れればいいのだが、今のところその案も無い。


まあとにかく、眠れない事の原因は分かっているのだし、そこに留意してまずは眠れるようにしよう。

ドーパミンのことを考えるのはそれからだ。


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2021年9月16日木曜日

天才と狂人、モデル化とドーパミンの話。

 今日は、いつぞやの記事に書いた「蝉時雨の道」を通って帰宅しました。

ほぼ同時刻だというのに森の中は薄暗く、すでに蝉の声は絶え、かわりに虫の音が響いておりました。

もう夏は終わったんだなと、少しもの悲しくなりました。

ずっと街の中に暮らしていれば、このようなささやかな事象から季節の変化を感じるのは難しく、我々人間の感性を刺激する情報というものはやはり自然の中にあるんだなと思いました。

日本人にとって蝉は夏の象徴で、虫の音は秋の象徴です。

たとえ目には見えなくとも、耳で感じるだけで移ろう季節を認識できるのです。

いわば、季節の聴覚的なモデルです。


モデルと言えば、私は真っ先に以下のリンゴを思い浮かべます。








そう、日本人が大好きなAppleのロゴです。

私がこのロゴを見て凄いと感じるのは、リンゴなのに赤くないということです。

モデルというのは一般的に「抽象」という訳で通っていますが、私はもう一つ「捨象」という行為も重要だと思っています。

抽象とは重要な部分だけをすくい上げる行為で、捨象とは必要ない部分を切り取ることです。

このロゴは抽象によってリンゴの形状をすくい上げていますが、捨象によって「赤い色」を切り取っているのです。

誰がリンゴの絵を描くときに黒で塗りつぶすでしょうか?

それでもこのロゴはちゃんとリンゴに見えます。いやリンゴ以外には見えないと言っても良いと思います。

すなわち、「赤い色」はリンゴをモデル化する時に必須の要素ではなかったということをこのロゴは示しているのです。


このような発想は一般人には出来ません。

なぜなら、普通人間は効率よく生活できるようにほぼ全ての物をモデル化して把握しているからです。

例えば人間は車やテレビの形を見るだけで、例えそれが初めて見るものだったとしても、それが何をするものでどう使うものなのかが分かります。

逆に脳でモデル化されていないものを見た時、人間の脳内には一気にドーパミンが噴出します。

そして我々の意思にこう命令するのです。

「これは何だ!調べろ!そして把握しろ」


余談ですが、人間のここまでの繁栄にはドーパミンが強く関わっているようです。

生殖的には「あの娘の事をもっと知りたい」とか、

探索的には「この先どうなっているのか知りたい」とか、

科学技術的には「この謎を解明したい」とかいうふうに。

ただドーパミンには見境がありません。

とにかく好奇心を煽る一方です。ネットサーフィンが止められないのはそういう理由です。


ただ、これだけだといずれカオスになることは請け合いで、当然のようにストッパーが必要です。サーキットを綺麗に速く走るためには、秀逸なブレーキが必要なのと同じです。

なので人間には遠い未来を予測して損得勘定するという、ドーパミン抑制回路が備わっています。「ああもうこんな時間だ、明日起きられないかも」

この回路によって我々はネットサーフィンを中断する事が出来るのです。


さて、モデル化の話ですが、

Appleのロゴを考えだすのがなぜ難しいのか?

それは、一度脳内でモデル化されてしまったものを再構成しなおすという作業が必要だからです。

脳は認識に優先順位をつけていて、当然ですがモデル化されて既知のものは低く、逆に未知のものは高くなります。(全ての事象にいちいちドーパミンを噴出させていては生活が破たんしてしまいますから)

なので、リンゴという優先順位の低い概念を脳内から一度きれいさっぱり取り払い、新しいリンゴ象を脳内で(意図的に)再構成する必要があるのです。

固定観念の再構成は脳の仕様からして中々に至難の業です。


ただし、この至難の業にも抜け道があります。

例えば夢の中です。

夢の中ではドーパミン抑制回路の規制は緩くなります。

なのでそこにはモデルの制約は多くありません。車を食べてテレビが飛んでもおかしくない世界です。夢が奇想天外なことが多いのはそういう事です。


ではこの夢の中の状態を覚醒しているときにも発揮出来たら?

すなわち、頭の中の既成概念やモデルを全て取り払って、ドーパミンの命ずるままに思考出来たらどうなるか?

これこそ天才の片鱗だと思います。

例えば有名なミュージシャンや画家、それに小説家などの作品は夢で見た出来事をきっかけに製作されたものも多いとか。

当然それが夢の中だけでなく現実でも出来れば、後世に語り継がれる芸術家、或いはノーベル賞クラスの科学者や文筆家になれるでしょう。


ところで科学技術の進歩は、(残念ですが)この効果を薬物で人為的に発現させることに成功しました。

(日本のミュージシャン、作曲家などもたまに検挙されている”あれ”とか”これ”ですね)

例えばパーキンソン病に処方されるアンフェタミン(ドーパミンの量を増やす)などは、誤って使用すれば酷い幻覚作用の発現、つまりドーパミンの虜になってしまいます。

そして一度その網に掛かれば、もはや抜け出す事は困難でしょう。

つまり薬物中毒患者です。


ドイツの哲学者ショーペンハウアーは言いました。

「夢は束の間の狂気であり、狂気は醒めない夢である」と。


現在の精神病の一つに統合失調症というものがあります。

酷くなるとドーパミン抑制回路が機能しなくなり、興味があっちこっちに向いて会話が飛び飛びになったり、幻覚幻聴に悩まされたりします。

つまり、認識の優先順位というものがほぼ失われ、感じる全ての物に興味と興奮とを覚えるのです。脳内にはモデル化されたものはほとんど存在しません。なので同じものでも見るたびに違う認識になります。

まさに日常が夢の中のようであり、ショーペンハウアーの言は的確にそれを表現しています。


エジソンは「天才とは1%のひらめきと99%の努力」だと言いました。

私はこのドーパミンの与える影響について考えているうちに、なんだかこの言葉の意味が違う事を示唆しているように思えました。

つまり、

1%の狂気が残り99%の努力を相殺できるほどの効果があり、

その1%の狂気が無ければ、どんなに努力しても決して100%にはならない

のだと。


考えすぎですかね?


ちなみに私は今「ドーパミン」についての本を読んでいます。

今回の情報の元ネタもその本に多く依拠しています。

その本の内容についても、またいずれ紹介しようと思っています。


それでは!


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2021年9月13日月曜日

「The Secret World of Sleep」寝たのに疲れる理由とは?

とある休日の夕刻、私は以前の記事「憂鬱、不眠、倦怠……全て走る事で改善する!」の教えに従って走り始めました。

そう、忘れてなどいません!

長い脚、土踏まず、熱暴走を防ぐ汗、薄い体毛、これらは全てただ長く走り続けるためだけのものです。

すなわち、(パスカル風に言うと)人間とは考える葦ではなく「走る葦」なのです。


「それにしてはしんどい、疲れる、辛い。

 いや、まだ若干だが涼しくなってきただけましだ。

 とにかく走れ、体中の血を循環させろ!」


そうして約45分後、

無事ゴールした私は、火照った肌を冷ます心地よい夕風に身をゆだねながら、

「あぁ、これで今日もぐっすりだな」

と、達成感と満足感の海に浸っていたのでした。


しかし、現代人の睡眠はそう簡単に片づけられるものではありません。

よく眠れた=良い睡眠

とは限らないのです。


皆さんはこんな経験はないでしょうか?

特に何か悩みが有ったり、鬱っぽかったりしたとき、


・寝ているはずなのに起きた瞬間から疲れている、体が重い。

・いくら寝ても疲れが取れない。


私はたまにあるのですが、これも現在読書中の

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」

(原題「The Secret World of Sleep」)

で原因が理解できました。


睡眠中の脳波は以下の4つの段階で推移します。


①浅い眠り 

睡眠紡錘波が出現する

徐波睡眠 (深い眠り)

④レム睡眠 (眼球運動)


ここで重要なのが③徐波睡眠です。

徐波睡眠中の脳ではニューロン間(シナプス)の結合を緩め、不要な記憶と重要な記憶の精査(すなわち脳の整理整頓)をしているのですが、同時にアセチルコリン(活動を促すホルモン)の量がほぼ0に落ちます。

つまり③徐波睡眠は身心のメンテナンスを行う重要なフェーズなのです。


以前の記事「The Secret World of Sleep」夢はその人の知性を表す?例えば漱石。

にも書きましたが、鬱っぽくなるとセロトニンバランスが崩れ、④レム睡眠の比率が高まる傾向があります。

なので、いくら寝ても③徐波睡眠を確保しにくくなり、その結果疲れが取れない(メンテナンスされない)まま翌朝を迎えるのです。


ちなみに「睡眠紡錘波」にも少し触れておきましょう。

これは「電気生理学の指紋」とも呼ばれ、人によって大きく異なります。

12~16Hzの波で、おもに睡眠の第二段階に出現します。(徐波睡眠中でも見られるが、レム睡眠では現れない)

近年の研究で、この波の密度からIQ(全検査と動作)の高さを予測できるそうです。

つまり紡錘波の密度が高い(波が多い)人はIQが高い傾向が見られるのです。

ちなみに学習障害を持つ人の波も密度が高いのですが、その場合振幅(振れ幅)が異常に大きく、これは過剰紡錘波と呼ばれています。


以上、睡眠中の脳波についての説明でした。

なんとなくですが「寝たはずなのに疲れが取れない」理由の一端が理解できますね。

要は寝ててもその大半はレム睡眠じゃ意味が無いと。

なのでレム睡眠の合計量を減らさないといけないのですが、その為にはセロトニン濃度を高めるしかありません。

抗うつ薬のSSRIなどがセロトニンの再取り込みを阻害し、結果脳内のセロトニン濃度を高める効果があるのはその為ですね。


という訳で「出来れば薬に頼らずセロトニン量を最適化しましょう!」

いや、どうやって?

とにかく運動を始めよう、疲れて(いると感じて)いてもまずは走ってみよう。


それでは!

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2021年9月11日土曜日

「The Secret World of Sleep」夢はその人の知性を表す?例えば漱石。

 皆さん、こんばんは。

まだまだ暑い京都ですが、夕方になると肌を撫ぜる風も心地よく、散歩で見かける赤とんぼに秋の訪れを感じます。

ついさっきまでオリンピックの熱気にほやされていたことを思うと、月日のながれるのはなんと速い事でしょう。

改めて「一日一日を大事に生きないと」と思いました(一瞬ですが)。


さて、本日も前回に引き続いて

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」

(原題「The Secret World of Sleep」)

をいってみたいと思います。


最近朗読した夏目漱石の作品に「夢十夜」というものがあります。

漱石が見た夢を10の物語として書かれたものですが、どの夢もちょっとオカルト要素を含む魔訶不思議なストーリーです。

時間軸も過去、現在、未来に渡っており、場所も海や川や森など実に多様なシチュエーションが展開されます。

私は、やっぱり文豪の見る夢はそれだけで小説になるほど奇異で複雑なものなんだなあと思って読んでいましたが、「眠っている時、脳では凄い事が起きている」を読み進めるうちにそれにも理由があることを知りました。

一説によると、夢を見る能力は「その人の創造的、想像的、感情的思考の全般的能力につながっている可能性がある」らしいのです。

例えば反証として挙げられる事例に以下のものがあります。


・自閉症の人は比較的短く単純な夢を見て、それをあまり詳細に想い出せない。

・統合失調症の人が見る夢は短く、幻覚のような内容は少ない。攻撃の場面が多く、多くは自分が攻撃されている。

・うつ病の人は様々だが割と否定的で自虐的な夢を見る。


更に、ソームズの研究によると前頭前皮質腹内側部が傷ついた人は夢を見る能力を失っているらしいことが発見されました。

逆に脳の報酬系に化学的な刺激(L-ドパ製剤)を投与すると、過度の異常なほど鮮明な夢が現れるそうです。


どうやら夢をみる行為と言うのは、記憶を適当に組み合わした映像を見るだけのものではないようです。

有名どころでいうとフロイトの「欲望現出説」などがありますが、現在は「脅威に対するリハーサル説」なども提唱されているようです。

つまり実際に危機に遭遇したときにより良く順応できるように、寝ている間にイメージトレーニングをしているというものです。


ちなみに夢はレム睡眠時にだけ見るようなイメージがありますが、実際のところはノンレム睡眠時にも見ています。

ノンレム睡眠時の夢は、レム睡眠の時よりも短いがまとまっている傾向があり、前日の出来事に関連している事が多いそうです。

逆にレム睡眠時の夢は奇妙で支離滅裂です。

漱石の見た夢はおそらくレム睡眠時のものでしょう。


しかし夢ってあまり覚えていませんよね。

見ている事は覚えているのですが、内容が思い出せない。それも朝目覚めると突然に。

実はこれにも理由があったのです。


我々の脳は睡眠中にコルチゾール濃度が徐々に高まっていきます。

コルチゾールはストレスホルモンとも呼ばれているもので、動く為のやる気をもたらす脳内物質です。

このコルチゾールとセロトニンがバランスを取り合って、朝に目覚め、夜に眠るのですが、起床前に最大限にまで高まったコルチゾールは脳内の海馬(記憶領域)と新皮質(思考領域)の接続をあえて阻害します。

つまり、新皮質で想像した出来事が海馬に蓄積されなくなるのです。

なので考えた事(つまり夢)が記憶に残りにくくなるのです。


ではなぜあえて夢を記憶に残さないようにしているのか?

実はこれにも理由があって、人が夢で見た脅威と現実とを混同して、混乱してしまうことを防いでいるのです。(恐らくこの能力を獲得する以前の人間は、混乱して命の危険に何度も晒されたのでしょう。例えば夢で見た捕食動物の存在が現実と区別できなくなったとか……)

同じような理由で、脳は夢を見て体が反応しないようにあえて眼球以外の運動神経接続を切っているようです。アクティブな夢に反応して怪我をしないようにしているのです。(これも恐らく何度も命の危険にさらされたのでしょう)

金縛りなどはこの状態で意識が覚醒してしまった状態、或いはそれも夢なのかもしれません。


という訳で、さらっと夢について説明してみました。

これらを鑑みたうえで改めて漱石の10の夢を読むと、確かに「創造的、想像的、感情的思考」の突出具合がうかがえます。

さらに漱石は神経症(今でいう鬱っぽい症状)にも悩まされていたそうなので、必然的にレム睡眠比率が長くなっていたはずです。

同様の意味でコルチゾール濃度も上がりにくくなっていたはずなので、見た夢も割と記憶に残っていた、と。

作家としてはプラスだったのかもしれませんが、QoL(生活の質)は最悪だったでしょう。おそらく夢も鮮明で生々しかったはずでしょうし。


最後に、私は漱石の「夢十夜」はあまり好きではありません。

(自分の夢も意味不明なのに他人の夢が理解出来るはずがない!)


それでは!


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2021年9月8日水曜日

「The Secret World of Sleep」綱渡りは勇気があると言えるのか!?


皆さんこんばんは。

季節が急激に移っているようで、どことなくメランコリックなヤドカリです。


さて、最近「睡眠」についての著書を読み漁っている私なのですが、ほぼタイトルのみで次のターゲットに選んだのはこちら!

 

ぺネルぺ・ルイス著「眠っている時、脳では凄い事が起きている」です。

(原題「The Secret World of Sleep」)

ちなみに副題は「眠りと夢と記憶の秘密」となっております。

(原題は「The Surprising of the Mind at Rest」)


こうして原題と見比べてみると若干盛っている感が否めませんが、まあ兎に角それくらいタイトルというものは重要だということです。


読み始めてまず感じたのが、これまでの著書に比べ若干学術書、或いは専門書の雰囲気が強くなっている事でした。

つまり、専門用語が多用されております。

さらに「こうすればいいよ」という大衆向けスタンスではなく、「こうなるメカニズムの説明」という学識的スタンスが強くなっております。

なので考えようによっては、この本の理解によって眠るのではなく、この本を読むこと自体で眠くなるとも言えます。


という訳で、眠気を抑えながら眠るための本を読んだ成果をご紹介しましょう。


■睡眠不足は人格をも変える

 高所での綱渡りやビルの屋上で逆立ちをする人、或いはベースジャンパーやエクストリームスキーヤーなどは、見ているこっちがハラハラするくらい危険な事をむしろ喜んでやっているようにも見えます。

我々は彼らを見て「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」だと思いがちですが、著書によればそうとも限らないようです。


両耳の内側にある脳の部分に、脅威や不愉快な刺激に強く反応する「偏桃体」という組織があります。

例えばこの偏桃体から海馬(長期記憶の保存)への神経接続が断たれると、情動記憶が威力を失ってしまい、本来トピックであるはずの出来事はありふれた日常と同じ扱いになるようです。(ファーストキス ≒ 晩御飯を食べた という感じ)


研究結果によれば、一見「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」の偏桃体のニューロンは、危険な状況に陥った時も発火速度があまり高くならなかったそうです。

(つまりさほど危険とは感じていない)

さらに、報酬系が関係する別の領域が強く関与することがあるらしいのです。

(つまり快感を感じる)


このことから、世間で「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」と見られている彼らは、さほど危険ではない事を快感を伴いながらやっているだけ、という見方も出来るわけです。

こう考えると、勇気って一体なんなんだろう?と思ってしまいますね。


さて、なぜこんなことを説明したのかというと、

実は睡眠不足(睡眠の乱れ)によって、一般人でもこの傾向が現れるということを言いたかったからです。

睡眠不足になると、まず臭いの種類をかぎ分ける能力が落ちます。

特に酸っぱい味に気付きにくくなります。

(酸っぱさというのは腐っているかどうかを判断する重要なファクターです)

そして聴覚も少し損なわれ(どちらが先に聞こえたのか分からない)、視覚にも問題が生じます(右側の視野により強く注意を払う)。

つまり、人間が長い時間をかけて生き残るために獲得した能力が徐々に失われていくのです。


もちろんこれだけでは済みません。

さらに、人は危険を冒す傾向が強くなります。

脳内で報酬系が強くなるかわりに懲罰系が弱くなり、道徳的判断も鈍っていくそうです。

これらは上述した「とてつもない勇気を持つ一握りの人間」の脳の活動パターンとそっくりです。

確かに寝不足の日は何をしても雑になったり、注意力が散漫になったり、色々思い当たることがあります。


なので私はこれらのことを鑑み、こう思いました。

1.睡眠不足の時に重要な事を決断してはいけない。

2.逆に勇気が湧かなくて中々踏み出せない場合など、むしろ使えるのではないか!?

と。


まあ2.はともかくとして、安全で普通に暮らせる現代と違って、もし石器時代だったら命がいくつあっても足りないことは確かなようです。

まさに「偏桃体」は人間にとって命綱、ということですね。


以上、難しい内容を出来るだけ分かり易く説明してみました。


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2021年9月5日日曜日

「山月記」を読んで - 彼はなぜ虎になったのか?

 「山月記」中島敦を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。


まずは大ざっぱにあらすじから。


幼少時から俊英として名を鳴らした李徴は、賤しい官吏の下で働くことに嫌悪を感じ、詩で名を成そうと思ったが、上手くいかなかった。

生活のため結局彼は下級官吏に職を求めることになるのだが、ある日、職務中に忽然と姿を消してしまった。

彼の旧友である袁餐が、職務の途中に虎が出没するという噂の道を通りかかった。すると草むらから突然咆哮が聞こえた。

袁餐はそれが李徴だということに気付き、二人はこれまでことを語り合った。

李徴は自分が虎になった理由を「自分の自尊心が傷つくことを恐れる羞恥心ゆえ」と語り、自分の詩と残した妻子を袁餐に託し、再び草むらの中に姿を消した。


と、まあこんな感じです。


李徴は人間だったころ、他の人と交流したり、詩の師匠に師事したりすることを避けてきたのですが、それはただ尊大で他人を見下していたというよりは、高すぎる自尊心のあまり自分に対する批判や否定に対する羞恥心、つまり自分が傷つくことが怖かったからという事です。

私はこの物語を読んで、なにか物足りないと思いました。

なぜ李徴は死について全く言及しないのか?

なぜ自殺、或いは友に自分を殺してくれと泣きつくような場面が無いのか?と思いました。


私は自尊心というものは決して傷つかないものだと思っています。まして羞恥心など伴うはずはありません。

私は李徴の言う自尊心とは、「虚栄心」のことだと思います。

自尊心と虚栄心の違いを簡単に説明すると、

その発現に第三者が絡んでいるかどうかです。

あるいは生理学的に言うと、それが(海馬や偏桃体など)本能に近いものなのか?それとも(大脳新皮質など)理性によるものなのか?ということです。

例えば、

1.「頭や歯が痛い、何を置いてもまず何とかしないと」これは自尊心です。

2.「お腹がすいて死にそう、何を置いてもまず何か食べないと」これも自尊心です。

3.「発表会でいいとこを見せないと」これは虚栄心です。

4.「私の考えをアピールしたい」これも虚栄心です。


人間は太古の昔から集団で生活する動物です。

集団に属するためには、いかに自分が役立つ人間かということをアピールしなければなりません。周囲に認めてもらえなければ居場所は与えられないのです。

恐らく虚栄心はこの集団行動によって生まれたのではないでしょうか?

人は誰でも他人に自分の力量を突きつけられることに恐れを抱きます。

自分可愛さに自分の能力(容姿なども)を過大評価するものです。

属する社会或いはグループで不必要の烙印を押されることは、そのまま死に直結するのですから、3.や4.などのいわゆる第三者に向けられる虚栄心とか承認欲求などは特に人間に強く発現する感情なのだと思います。


これとは異なり、1.や2.は人の関与に左右されません。

まさに意図せず自分が自分を守る(尊ぶ)感情、というか行動です。

ゆえに自尊心は(うつなどの病気以外は)傷つかないのです。


……と私は思っています。


その虚栄心の強さゆえ詩に逃げた李徴は、そこでも不必要の烙印を押され社会から抹殺されました。

つまり、社会動物である人間として死んだのです。

そして虎になりました。


なぜ虎になったかって?

虎は一人でも生きていける動物だからです。

結局、李徴は救われたのです。


ここまで考えて、ようやく私は最初の疑問の答えを見つける事が出来ました。

これは人間の(社会的)死についての物語であり、そして救われる方法は虎になるしかない(つまり現実には処方無し)ということを。


それではっ!

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2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...