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2021年7月17日土曜日

ゲームにおける世界観とは!Bloodborneの世界観って何?

 ビデオゲームの論評などによく「世界観」という言葉が使われています。

ところでこの「世界観」って一体何の事なのでしょう?

漠然と≒「雰囲気」のような捉え方をされている感もありますが、私は似て非なるものだと考えています。


ビデオゲームは主に以下の3つの要素で構成されていると思います。

1.世界観

2.ストーリー

3.主体的行動(アクション)


1と2は小説や映画などと共通する要素です。

3の主体行動とは、プレイヤーが実際にコントローラーなどの入力デバイスを操作して主体的な行動を起こす行為、すなわちゲームプレイのことで、ビデオゲーム特有の要素です。

これら3つの要素を予算の中で適切に割り振って、1つのビデオゲームが製作されます。

ここでいう適切とは、主にアクションゲームなら3を多く、アドベンチャーゲームなら2を多く、RPGなら1,2,3を割と均等に分配するということです。


さてここで「世界観」の話に戻りますが、私の定義としては以下になります。

「人々(キャラクター)の生活が垣間見え、そこでの自分の生活が想像できる世界」

つまり社会のことです。


ここで1つ例を挙げましょう。

『BloodBorne』というPS4アクションゲームの傑作があります。

ゴシックホラー様式のいわゆる「死にゲー」で、2015年にフロム・ソフトウェアが開発、SIEから発売され世界中でヒットした傑作です。

このゲームは、高い難易度にも関わらず何度死んでもまた挑戦したくなる秀逸なアクションが売りですが、一方でその独特な「世界観」、そして誰しも深く考察したくなる「ストーリー」も評価されております。

改めて3要素で考えてみましょう。

1.世界観

2.ストーリー

3.主体的行動(アクション)


3は間違いなく最高です。コスト(時間、お金、アイデア)もここに一番かかっているはずです。

ただ1と2はどうでしょうか?

上述したように「世界観」とは社会です。

はたして『BloodBorne』の世界の中で自分の生活が想像できるでしょうか?

出来ないと思います。

これが世界観とよく混同される「雰囲気」です。

『BloodBorne』に世界観は無く、ただ雰囲気をうまく演出しているだけなのです。

またこのゲームの「ストーリー」は極限までコストが削られています。

開発者の頭の中にはしっかりとした設定があったとしても、ゲームには最小限の反映しかされていないはずです。


では何故『BloodBorne』は世界観とストーリーも上質に感じるのでしょうか?


1,2,3の質の向上(底上げ)に欠かせない副次要素があります。

「絵」「音」です。

「絵」は主にグラフィック、「音」はBGMや効果音などです。

『BloodBorne』「絵」はもちろんですが、とにかく「音」の演出がうまい。

面白いのは「無音」でさえうまく活用している事です。

あえて無音にすることにより、心地いい靴音は強調され、さらにはボス戦BGMの特異性が際立ってくるのです。


『BloodBorne』3(アクション)に比重を置いた分、いかに1(世界観)と2(ストーリー)を(悪く言うと)ごまかせるか、そしてそれに成功した稀有なゲームだと言えます。


そういえばフロム・ソフトウェアの次回作『ELDEN RING』ですが、聞けばRPGとのこと。

理屈通りなら少なくとも『BloodBorne』よりも1(世界観)と2(ストーリー)にコストがかけられるはずです。

ちなみに、ストーリーにはゲーム・オブ・スローンズ』の原作者であるジョージ・R・R・マーティン(George Raymond Richard Martin)氏が加わるということ。

ごまかし無しのフロム・ソフトウェア「世界観」「ストーリー」

いやぁ、楽しみですねぇ(^.^)/~~~


追記:

ちなみに私が思う「世界観」が素晴らしいゲームは、『ElderScroll スカイリム』と『ウィッチャー3』です。

しかし残念ながらこれらのゲームは3.主体的行動(アクション)をうまくごまかしきれていないのが残念ですが……



2021年7月12日月曜日

ビデオゲームが「高尚」とはならない理由。

 散歩の途中でふと頭をよぎったので考えてみました。

ゲーム業界の方とかが「ゲームはまだまだ映画や小説などと比べて低俗に見られる」などと不満を発しているのを聞いたことがあります。

私はPS4でゲームをよくしているのですが、近年のビデオゲームの進化は著しく、映画や小説なみかそれ以上に心に刺さるストーリーや演出などを体験することも少なくありません。

それでもやはり「高尚」とは感じないのです。

これは一体何故なのでしょうか?


自分なりにたどり着いたのは主に以下の3つ。

1.本能に訴えかける商業的要素が強い。

2.受動ではなく能動、或いは主体性を重視している。

3.環境(テクノロジーなど)の影響を強く受けすぎている。


まず1.本能に訴えかける商業的要素が強い。ですが、

商業的であればあるほど販売対象は広く大きくなり(所謂一般化)、そうなると「爽快感」「征服感」などの割と本能に近い部分を刺激する必要が出てきます。

絵画やクラシック音楽などの観賞でもこのような感覚を覚えることは無くはないのですが、それよりも理性の方に訴えかける割合が高いように思います。

同じ裸でも名画とグラビア写真の違いのように、訴えかける対象の違いがあるのではないでしょうか?

中世の絵画や音楽が特定のパトロンや展覧会などをターゲットにしていれば良かった(商業的にも成立していた)のに比べ、現代社会では一般大衆へとその範囲を広げなければならなくなったという時代背景も大きいと思います。


2.受動ではなく能動、或いは主体性を重視している。

受動的よりも能動的な方が一見「自由度」が高いように思いますが、見方を変えれば逆転するような気がします。

ゲームは自分が主体となって進めているように見えて、実は製作者の決めたレールの上を進まされています。自分が主人公ですが神様は製作者なのです。近年オープンワールドや多数の分岐で複数のエンディングなどを謳うゲームもありますが、やはりレールは決められており、主人公といえどそこから外れることは許されません。

ところが絵画やクラシック音楽などは、一度製作者の手を離れればあとの解釈は自分の主観次第で自由に料理できるのです。

つまり製作者は神にはなれず、一見受け取るだけの鑑賞者が神となれるのです。

小説や映画なども逆に主体性が無いがゆえに解釈の余地を広くとれているのではないでしょうか?


3.環境(テクノロジーなど)の影響を強く受けすぎている。

数百年前の絵画や音楽、或いは数十年前の小説や映画などの名作は現代においてもその地位は揺らぎません。

ところが40年前のビデオゲームに(コレクターという趣味以外)で大枚をはたいてプレイしようという方はほぼいないでしょう。(たとえ名作だとしても)

これはやはり「テクノロジーの進化」の影響が大きいと思います。

テクノロジーの進化により、当時のグラフィックやシステムが余りにも稚拙に感じるのです。

つまりビデオゲームは環境への強い依存によって、評価される期間が余りにも短いのです。

このライフサイクルでは「高尚」になるまでの積み上げが起こりにくく、その結果ビデオゲームはただの消費文化で終わってしまいます。

テクノロジーなどの環境依存を極限まで下げないと「高尚」への階段を登るのは難しいでしょう。


うーん、難しい……


で結局何が言いたいのかと言うと、

私はそもそもビデオゲームに高尚さなどを求めていません。

そして、業界の方々の忸怩たる思いも理解できますが、あまりそこにこだわりすぎないように頑張ってほしい。

この2点です。


近年、まるで映画のようなムービーを多用して「これでもか!これでもか!」と演出を押し付けてくるゲームが増えているような気がするのですが、なんだかゲームが勝手にゲームをしているような、自分だけ置いていかれているような気がして白けてしまう事があります。

「この30分コントローラー全く操作してないよっ!」


「高尚」よりも楽しけりゃいいよね、ゲームなんだから。

今度ドラクエ11でもやってみよう。


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