2022年1月1日土曜日

2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。

つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。

コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。

恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。

時計を見ると0時2分前。

しばし小雨まじりの雪を肩に受けながら、私も列の最後尾につきました。

そして、ちょうど0時。

最前列から初詣の参拝が始まりました。

何か足りないなと思っていたら、参拝の時に鳴らす鈴が無いではありませんか!

何か事情があるのでしょうか?

もしかして直接手に触れるということから、省略されてしまったのでは!

鈴を鳴らさずに神様はちゃんと起きて来てくれるのでしょうか。

寒い中(5分ですが)歩いてきたのに心配です。

私はとりあえず鈴が無い分若干柏手を強めに打って、参拝を終えました。

そしてそのままおみくじ売り場へ。

ここもおそらく直接手を触れないようにという配慮からでしょうか、ジャラジャラ言わせて落とす番号札ではなく、自分で直接くじをとる方式に変更されていました。

肝心のみくじの結果は「う~ん」でした。

「道に迷って正道に出るように、君も自らの過ちを悔い改め、神仏を信じていればきっと救われるでしょう」と、まるで私が過ちだらけのうえ神も仏も信じていないような人間のようです。言っておきますが、私は神も仏も場合によっては信じるすこぶる日本人らしい日本人です。

しかしやはり神のお言葉、”道に迷って彷徨い歩くうちに正道にたどり着く”というのは、まさに人生そのものだなと少し感慨深く感じました。

さらに神社なのに「神仏」ときちんと仏のことも書いてあるのは、神仏習合、本地垂迹説という独特な宗教観念を持つ日本らしくていいなと思いました。(「悔い改め」というところはどこかキリスト教みたいですし)


私はその有り難いみくじを精読し、境内のたき火でしばし心を浄化しました。

燃え盛る炎と、そのはぜる音に目と耳を集中させていると、突然見知らぬおばさんがデパートの紙袋を投げ入れました。

「え!このたき火、そういうものなのか?」

私は、境内のたき火をまるでごみ焼却炉のように扱ったそのおばさんに、新年早々なんとも例えようのない感情を抱きました。

「さて、とっとと帰ろう。寒いし。濡れるし」

参道へ歩を進めながら、私は再びもの足りなさを感じました。

私はこの神社の初詣で毎年行う3つの恒例行事があります。

2つはもちろん参拝とおみくじ、そして3つ目はぜんざいとお神酒を頂くことです。

なんと今年はぜんざいとお神酒がありませんでした。(去年はありました)

おそらくこれもコロナのせいでしょう。


鈴の無い参拝とジャラジャラの無いおみくじ、そしてお神酒とぜんざいも無くなりました。

全てコロナのせいです。

ルールにしろ行事にしろ一度無くしたものを復活させるのはなかなか難しいものです。

もしかしたら鈴もジャラジャラもお神酒もぜんざいも、コロナが終息しても二度と復活しないのでは!

そんな危惧を抱きながら帰路についた私です。


2022年、大丈夫でしょうか?

というか私は大丈夫でしょうか?

先が思いやられますが、コロナに負けず、とにかく今年も頑張って生きようと思います。


それでは!

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2021年12月23日木曜日

果汁100%ジュースはジャンクフード?

ついさっき暑くて熱いオリンピックで盛り上がっていたかと思うと、もう目の前に大晦日が見えてきました。

いつから時の流れってこんなに速くなったのでしょうか?

このようにあらゆるものが移り変わっていくのですが、相変わらずコロナだけは安定継続中のようです。

さて、年末年始。

もういくつ寝るとお正月?

それでもやっぱり日本人にとってこの時期はお目出度いのです。

そして必然的に暴飲暴食の時期でもあるのです。

一時的な過食ならまあなんとかなるのでしょうが、とかく現代人は定常的にその状態になりがちです。

現代病と言われて久しい糖尿病や高血圧、高脂血症などはまさにその結果に他なりません。

我々の体はとにかく糖と脂肪に目が無いのですが、その理由はそもそもそれらがめったに手に、いや腹に入れる事が出来ないにもかかわらず重要なエネルギー源だからです。

人間はその大きくて燃費の悪い、更に数十秒もエネルギー供給を止めれば機能停止してしまう「脳」という臓器を有する宿命として、主に以下2つの改変を体に施しました。


1.腸を短くする

 ミミズのような下等生物は身体のほとんどが腸(消化吸収器官)で占められています。

 ところが哺乳類など大きな脳を有する高等生物は、エネルギーの分配比率を脳の方に振り分けるために、身体に対する腸の比率をかなり下げました。

 その最たる生物が人類です。

 一説によると、人間は腸を元来の約半分の長さにして、その分だけ脳を大きくする進化を選択しました。

 「腸は第二の脳」などとよく言われ、消化吸収だではなく性格や気分を左右するホルモンなどの生成も行っています。

 考えてみれば身体にはもともと腸しかなかったのですから、それは至極当然です。

 むしろ「脳は第二の腸」と言えるかもしれません。


2.エネルギーを貯蔵しやすくする

豊かな森の中で果実などを食べて暮らす類人猿などは、基本的に飢餓のリスクがありません。なので体に無駄なエネルギーを脂肪として貯蔵する必要がないどころか、あると活動の妨げになります。

ところが二足歩行で森を出て狩猟採集の道を選んだ人類は、ともすれば数日間食事にありつけない事はざらにあり、常に飢餓のリスクを背負って生きていました。

なのでエネルギーを体脂肪に変えて自らの身体に貯蔵する方式をとりました。

人間の赤ちゃんがあんなにも丸々と太っているのは、一刻も早く脳を大きくするために脂肪をたっぷり蓄えて生まれてくるからです。

ところが、狩猟採集時代の人類は今と違ってたくさん活動するので、いわゆる現代病にかかることはありませんでした。

エネルギー収支のバランスがとれていた訳です。



さて、人類はこのように必要に迫られて身体を進化させてきたわけですが、産業革命以後、文化的進化が身体的進化の速度を大きく上回ったことにより様々な弊害を生むことになりました。

それらの一つが上述した現代病です。

原因ははっきりしていて、「食べすぎ&動かなすぎ」、以上となります。

様々なウィルスや病原菌に打ち勝ってきた人類がこの問題を解決できない大きな理由の一つは、高度に発展した資本主義にあると思われます。


糖尿病になるまでの経過をざっくりと説明すると、

1.糖を体に入れる

2.血糖値が急上昇する

3.血糖値を下げるために膵臓がインスリンを放出する

4.インスリンに反応して脂肪や筋肉、肝臓が糖を取り込む

5.血糖値が”グッ”と下がる

6.血糖値の急激な下降により空腹感が刺激される


後は再び1.に戻って無限ループが続きます。

デザートは別腹なのはきちんとした理由があって、主に6.の効果によるものです。

このループを繰り返していくと、やがて膵臓は疲れ果て、インスリンが出せなくなって、糖が分解されなくなります。

過剰な糖は基本的に体にとって毒です。

やがて糖尿病になり、インスリン注射を定期的に打たないと生きていられなくなります。

恐ろしいデスループです。


ここで注目したいのは2.です。

なぜ急激に血糖値が上がるのか?

結論としては、お菓子メーカーなどがそのような食品を作り、それを我々が好んで食するからです。

例えば健康に良いとされている「果汁100%ジュース」ですが、これもまさに急激に血糖値を上げる食品の一つです。

マラソンやロードバイクレースなどでもコーラなどと同じ扱いでオレンジジュースを摂る事がありますが、それは激しい活動で下がった血糖値をあげるためのものとしては理にかなっている訳です。

なぜそれらの加工食品が急激に血糖値を上げるかというと、食物繊維を完全に取り除いているからです。

食物繊維は消化を緩やかにし、血糖値の上昇を抑えます。

さらに腸内をスムーズに通過させる効果もあります。(便通が良くなる)

なので決して2.の状態にはなりません。

つまり、蜜柑はあまいデザートと違って別腹にはならないのです。


ではなぜメーカーは食物繊維を取り除くのかというと、それが資本主義経済たる所以となります。

食物繊維は腐るのです。(更に言うと取り除いた方が美味しくなるのです)

なので取り除くと美味しくなったうえに消費期限がぐっと伸びて資本主義経済的には最高なのです。

オレンジジュースはなかなか腐りませんが、蜜柑やリンゴはすぐに痛みます。

という訳で、いくら果汁100%だろうと食物繊維を除去している時点でジャンクフードと同じ立ち位置だという訳です。


生の果物に関して言えば、恩恵は食物繊維だけではありません。

それらの果物に常在している細菌類を摂取することで、腸内フローラにも好ましい影響を与える事ができます。

完全除菌の加工食品からはそのような恩恵はうけられません。


ついでに書きますが、

産業革命の遥か以前、人類が農業を始めて「主食」という定義が出来た頃、アジアでは主に「米」がそれが該当しました。

この米も精米によって食物繊維を除去し、白米として売られている訳です。

そのほうが日持ちがして、もしもの時の保存食として都合が良かったわけです。

(欧州の麦も同様です)

結果、白米は澱粉(糖)の塊となって、美味しくて長持ちする主食という地位を得ました。


さて、長くなりましたが、これが現代病がなかなか根本解決できない1つの原因です。

我々はこれからも資本主義経済のジレンマと付き合っていかなければならないのです。

でも個人の意識次第で如何様にも変えられることです。

かなり苦しいですが、まあ知っているだけでも対処は随分変わってくると思われます。


それでは!


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2021年12月14日火曜日

『三四郎(一)』夏目漱石を読んで-人の思いは変わるものである?

 昔一度読んだことは有るのですが、今回夏目漱石の『三四郎』を改めて”朗読”という形で読み直す機会を得ました。

第一話は、晴れて熊本の高校を卒業した三四郎が、大学生活に不安と期待に胸を膨らませながら汽車で上京するシーンから始まります。

三四郎は汽車の中でまず最初の洗礼を受けます。様々な人生を生きる様々な人の姿を目にするのです。

それは、三四郎が生まれて初めて抱く未知の世界に対する瑞々しい心象風景として描かれます。

その人々の中に、ある学者風の男がいました。

その男は羨望と諦めの眼差しで西洋人を評し、同時に日本を冷笑するかのような言葉を三四郎に投げかけます。

日露戦争直後のことでもあり、三四郎は多くの日本人と同様に自国に対する誇りと明るい将来への漠然とした希望を抱いていました。と同時に、彼もまた(その男とは趣が少し異なってはいましたが)西洋人に対する諦めに似た羨望を抱いていました。

このシーンにおいて、私は三四郎とこの男との関係が、恐らく漱石自身の若いころと現在とを反映したものなのだろうと感じずにはいられませんでした。

以前読んだ時には全くそんなことは感じませんでした。

同じ物語でも、読者のその時の立ち位置によって、感じ方や見え方はこうも変わるものかと不思議に感じました。


人が望郷の念を感じるのには理由があると、何かの本で読みました。

それはただ故郷を懐かしんでいるのではなく、当時の自分を懐かしんでいるのだという事です。幸福で希望に溢れ、元気はつらつとした(と想定する)当時の自分に郷愁を感じているのだと。

例えば音楽でも同様の事が起こります。

若くがむしゃらだった暑い夏に聞いた曲、別れ話をしていた寒い冬に車内で流れていた曲、いずれも今聴くと当時の感情が鮮やかに蘇ってきます。

或いは匂いでも同様です。

線香の香りや釜を焚く炭の匂いなどは、幼いころ祖父母の田舎で無邪気に遊んでいたときの情景が目に浮かんできます。それらの匂いを人は安心感や幸福感などの感情と結び付けて記憶しているのです。


こう考えると三四郎を書いた時の漱石も、やはり当時の感情を汽車の石炭の匂いや、水蜜桃の味や、汽笛の音などで感覚的に思い出していたのではないでしょうか?

文章だけで味覚や聴覚や嗅覚などを、ましてやその時に想起される個人的な感情などを作者と共有するのはまず不可能だと思いますが、それらを自分の記憶に照らし合わせて推測してみると、また違った味わいが出てくると思います。

そういう意味において同じ本を期間をあけて再読するという行為は、その間の人生経験の分だけ、より深く更に鮮やかな感情を読者にもたらせてくれるのだと思います。

そして、それが後世に残る名著の所以だと思いました。


それでは!

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2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...