2021年10月29日金曜日

ネオ・マルクス主義とポストモダニズムに踊らされるな!

 すっかり秋も深まってきた今日この頃。

ここ京都でも、徐々に太陽は優しく、風は厳しくなってきたようです。

どうやら季節が刻々と移り変わるように、社会も常に変容しているようです。

そういえば選挙です。

という訳でたまには政治ネタでも投下してみようかと思い立った私は、近年の社会の変容について考えてみました。


グローバル化が叫ばれて久しくなりましたが、それ自体は実は古くからある形態の一つで別段新しくも何ともありません。

ギリシャやローマ、そして唐などの古代から、常に世界は(その当時における)グローバルでした。シルクロードなどはそれを示す顕著な事例の一つでしょう。

ただ近代になって流通の範囲が格段に広がったことから、その影響力の大きさが注視の対象となったのだと思います。


国を越えて商売をする為には様々な障壁を乗り越える必要があります。

関所で支払う関税や国に支払う所得税、そして各国ごとに定められた商売のルールや使用する貨幣など。

シルクロードの時代から、政府や役人にとってそれは大きな権益となり、商人にとっては逆に障壁となったのでした。

これは現代のGAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)に代表されるようなグローバル企業にとっても全く変わっていません。

彼らにとって政府や役人(つまり国家)とは、自分の利益を棄損する障壁でしかないわけです。

なので、これらの企業は税金を極力払わないで済むような方法で企業経営を行います。

ビル・ゲイツはこう考えています。

「政府に税金を納めても碌なことに使わないのだから、その金は我々インテリが公益に利するように使う方が良いのだ」

100%間違っているとは言いませんが、では彼と中国共産党とのつながりはどうなのでしょうか?

面白いことに、中国やロシアはこれらの企業を自国からシャットアウトしています。自国の産業を食い荒らされ、ひいてはそれが国を弱体化させ、実質的に乗っ取られることを知っているからです。

それでも彼らはお互いに協力するのです。

何故か?

共通の敵がいるからです。

それが西側の民主主義国家です。


国家の最大の権力とは何でしょうか?

徴税権です。

無条件に全国民からお金を集める事が出来る強大な権力です。

前述したように、グローバル企業家にとってこれは自らの利益を棄損する圧倒的な障壁です。かれらは国家という存在が邪魔で邪魔で仕方がないのです。

いわゆる一種のアナーキズム(無政府主義)の考え方です。


そして、この考え方に非常に親和性の高い主義が近年誕生しました。

・ネオ・マルクス主義

・ポストモダニズム


簡単に説明すると、

ネオ・マルクス主義とは、旧マルクス主義における階級(資本家と労働者)を別のカテゴリーで構築し、一方を悪とみなして批判する事です。

例えば人種(白人と有色人種)、ジェンダー(トランスジェンダーと男女)、宗教などで善悪(大抵はマイノリティが善となる)を決めつけ、悪とした方を徹底的に批判します。

ポスト・モダニズムとは、既存の価値観(例えば道徳的観念や科学的理論)を否定し、破壊することで新しい価値観を創造していく考え方です。

いずれの主義にもある共通した目的が垣間見えます。

社会を分断し、政府を弱体化させ、ひいては国家の破壊へと繋げる事です。


これらを鑑みると、近代のグローバル企業家たちが少なからずこれらの主義に影響されて行動している事が理解できます。


国連の幸福度ランキングの常連国であるフィンランドやオランダは、これら左翼的イデオロギーの恰好の遊び場になっています。

民主的な先進国で国力が比較的小さい国は、これらイデオロギーの美辞麗句に倫理的に抗う事が難しいのです。

例えば同性婚が法的に許容されたのもこれらの国が最初でした。

これは既存の価値観を覆しただけではなく、キリスト教における同性愛の禁止という信教の自由にも抵触しています。

これらの国にはもう一つ共通点があります。

税金が異常に高いという事です。

しかし、グローバル大企業にはなぜか優遇の度合いが高いのです。

この仕組みを利用してある一つの策が考えられます。

ベーシックインカムです。

前述したように国家の最大権力は徴税権です。

グローバル企業家はこれをむしろ自分たちの利益の為に利用しようと考えているのではないでしょうか?

例えば、税金をさらに増やす代わりにベーシックインカムを導入すると、これまで生活するだけで一杯だった貧しい層に将来を懸念しなくても良い余剰金が入ることになります。

さあ、そのお金は一体どこへ行くでしょうか?

恐らくドーパミンの命ずるまま、ギャンブルや嗜好品などに向かう事でしょう。

ベーシックインカムと同時にカジノを設置し、そこにスロットマシンを配置するだけで、政府が集めた税金は庶民を通して更にグローバル企業家を富ますことになる訳です。

いわばこの時点で政府は、一部のグローバル企業家の為の集金マシンになり下がるのです。

こう考えると、ベーシックインカムとカジノ設置は彼らにとって非常に相性の良い施策だということに気が付きます。なのでこれらの案が同時に出てきた場合には注意が必要です。


ネオ・マルクス主義やポストモダニズムの激流は、現在ヨーロッパやアメリカを席巻しています。

BLM(ブラックライブズマター)やアンティファ(反ファシスト)などはその典型的な例で、かれらは倫理的優位を逆手にとって政府、警察、教会や化石燃料産業などを徹底的に攻撃しました。

いずれも既存の価値観を壊し、社会を分断することに成功しています。


私は社会の革新については何ら異論を唱えるつもりもありませんし、むしろ必要な事だと思っています。

ただ問題なのは、それらが一部の人の私的野心や私益に基づいて強制される事です。

日本においては明治維新という革新がありましたが、例えば吉田松陰は自らをして「狂狷(きょうけん)の徒」と呼んでいました。

狂狷とは論語の言葉で、今風に言うと「狂」は変革、「狷」は保守という意味です。

彼は、変えなければならない部分と守らなければならない部分とをしっかりと区別しており、そしてそれらは常に公益、国益に基づいていました。

現在の革新のように、その目的が私益に基づく国家の破壊などという恐ろしいものとは真逆のものだったのです。


ここで現在のわが国についてはどうなのか考えてみましょう。

ネオ・マルクス主義やポストモダニズムは決して対岸の火事などではない事に気が付くはずです。

男女別姓、男女雇用均等、沖縄やアイヌの問題などがすぐに挙げられます。

いずれも倫理的正論で武装し、民意を分裂させることで国家の弱体化につなげます。

そして一番大きな問題が、女系天皇許容論です。

日本における女系天皇許容論というものは、彼らにとって日本人に強固な普遍的価値観と統一性をもたらしている礎への挑戦であり、民意を分断するのに最も効果的な材料となっているのです。

彼らはこれらの問題を、ただ倫理的正論によってだけではなく、ある機関を利用して強要しています。

国連の何々委員会です。

通常、国内のある一つの問題を解決する為の立法は国会で十分な議論を交わし、複雑な手続きを経て承認されるのですが、国際条約というものはそれらの手順を踏まずに、同時に多数の国家を制約するルールを決める事が出来るのです。

こんな便利な機関を国家の破壊を目的とする輩が利用しない手はありません。

なので、国連の何々委員会の委員長などというポストを得るために、多くの国や団体がそこに献金し、代表を送り込むのです。

「献金できるのは国に限らない」というのがミソです。


最近、かの日本航空は機内での英語による挨拶を次のように変更したそうです。

以前:「Ladies and Gentlemen」 淑女と紳士の皆さま

現在:「All Passengers」 全ての搭乗者の皆さま


私はこれを日本航空が、「人間の性は男と女だけではない」という、どこかの過激団体からの圧力に屈したように見えました。

何なんでしょう?これ。

しかし、次々と追随する企業が出てくることでしょう。

既存の価値観、常識の破壊。

その先には一体どんな未来が待っているのでしょうか?


さて、簡単ではありますが色々と述べてみました。

ここまで複雑だと、じゃあどうすればいいの?と混乱してしまいますが、近年はマスコミに頼らずとも必要な情報が収集できる時代です。

倫理的正論に騙されてはいけません。

特に、なになに権とかいう言葉が出てきたときは注意しましょう。

所詮「権」などというものは実体の無い夢や幻のようなものです。

権威、権力、人権、権利、などはそれ故、いかようにも利用できるのです。

ついでに名無しの権兵衛。

名前が無いから「権」兵衛なのです。


それでは!


■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年10月18日月曜日

幸福を感じるとき。そして、とある幸福度ランキング。

 とあるインタビュー番組でこのような問いが発せられました。

「あなたはどんな時に幸福を感じますか?」

それに対し、男女問わずたいていの青年~中年層はこう答えました。

「美味しいご飯を食べている時」

「寝ている時」


私はこれらのやりとりを聞いて「やっぱり原始人から変わっていないんだな、人間って」と思いました。

食べて寝る。

生きるために必須の毎日行うこの基本的な行為に、人は満足感を覚えるのです。


インタビューは続き、こんどは或る老年の紳士2人(A,B)に同じ問いが投げかけられました。

A、Bともにこう答えました。

「人に喜んでもらえた時」

「人の役に立っていると感じた時」


私はこの回答に対し、「なるほど、やっぱり原始人から変わっていないんだな、人間って」と先ほどと同じ感想を持ちました。


子育てから引退し、激しい労働にも耐えられなくなっても、なぜ人の寿命は尽きないのか?

それは彼らに群れの中できちんとした役割が与えられていたからです。

現役層の補助、あるいは導き役(知識の伝承者)としての存在。

以前も書きましたが、それは親戚であるチンパンジーの群れには存在しない役割です。

チンパンジーのオスは獲った食料を決して分配しません。例え妻でも我が子でも。

そしてメスは我が子にしか分配しません。なので子が独り立ちできるまで次の子をもうけません。

つまり、チンパンジーは食料を独りでとれなくなったとき、そして子を産めなくなった時が寿命となります。

ほとんどの哺乳類はこの法則で生涯を終えるのですが、ほぼ唯一人間だけが、それよりもはるかに長い寿命を持つのです。


人間の群れでは、老年層の女は群れの子育てを手伝い、また若い女の採集の指導を行います。

そして男は同様に採集の手伝い、或いは若い男に狩りの指導を行います。

こうすることで女は子が未熟なうちに安心して次の子を産めるようになり、男の狩猟技術の向上は食糧の確保を容易にし、それらは群れの拡大(子孫繁栄)に繋がります。

つまり、老年層は繁殖能力や体力の減衰によって現役世代のような働きは出来ませんが、これまでの知識や技術の伝承によって、群れ全体に貢献するのです。


現代の老齢の人間が、「人に貢献している自分」を認識することで幸福を感じるというのは、まさにこの原理ではないでしょうか?


国連が実施している「幸福度ランキング」とか何とかいう指標があります。

毎回上位を独占するのは北欧諸国(とくにフィンランド)で、2021年度版では日本は56位でした。

そのランキングの指標は以下のような物です。


主観的に自分の生活の満足度を11段階で評価し、

 + 以下の項目を含めて判断する。

1.一人当たり国内総生産(GDP)

2.社会保障制度などの社会的支援

3.健康寿命

4.人生の自由度

5.他者への寛容さ

6.国への信頼度


これを見て私は思いました。

「安心して眠れることや、美味しいご飯が食べられる事が入ってないじゃないかっ!」

さらにこうも思いました。

「そもそも幸福度って相対的なものなのでは?」

隣の芝は青く見える。

これも隣の家に庭が無ければそんなことは思わない訳ですし、とにかく人というものは他人と比べたがる生き物です。

自分がコミュニティーの中でどのような位置にあり、どのような境遇に置かれているのか。

結局のところ、損得勘定は比較することでしか判断できないという訳です。

以前にも説明したH&N回路などによって、生まれつき幸福を感じやすい人というのは確かに存在します。しかしそれらの人がフィンランドに特別多いという訳でも日本に特別少ないという訳でもないので、このランキングの差異はやはり外的要因だと思います。


ここで堂々第一位のフィンランドについてその特徴を挙げてみましょう。

1.高負担高福祉の代表国です。

2.人口密度は約16人/km2で世界171位です。

つまり、フィンランドでは他人と比較しようにもまず隣近所がいない、さらに高負担高福祉なので望まなければ生活にさほど不足を感じないということ。

これが国連の意味不明な幸福度ランキングで、フィンランドが何故か毎回1位の理由だと私は思っています。


フィンランドの特徴として、もう少し挙げておきましょう。

3.隣にロシアがある

4.寒い

国民は常にロシアの脅威にさらされています。なので一人当たりの小型武器の所有率は世界3位ですし、もちろん徴兵制も残っています。ロシアに気を遣ってNATOにも加盟していません。

北欧なので当然寒いです。農作物は育ちませんし、日光の恩恵も少ないので、当然そのような所で豊かな食文化が育まれるはずもありません。

日本人がインタビューで答えた、「安心して眠れることや、美味しいご飯が食べられる」という人間古来からの本質的幸福を、少なくとも日本人より享受できているとはどう考えても思えません。


とまあ、国連の意味不明な幸福度ランキングについてちょっと触れてみました。


最後に、インタビューに答えた老年の紳士A,Bですが、

AとBがその後に続けた言葉に、私は彼らに成熟の差を感じました。


A:「もう富とか名誉とかには興味ないので」

B:「私が出来ることはこのくらいなので」


Aには明らかに虚栄が見られました。(それらはもう持っているから、或いはそれら下劣なものには興味がないから)

それに比べBは正直です。


Aも人間臭くて良いのですが、信用できるのはBだと思いました。

老年の原始人に同じ質問をしたら彼らはどう答えるのでしょうか?


それでは!


■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年10月10日日曜日

初秋の嵐山まで自転車散歩。

もう初秋の京都。

私は久しぶりに自転車で嵐山を目指しました。

MTBを街乗りに改造した自転車なので走行感は最高なのですが、永らく怠惰に甘んじていた私のお尻は、そのとがったサドルの洗礼にしばしの苦痛と戯れるのでした。


「あぁ、風が気持ちいい。

ジョギングでは得られない景色の流れが心地いい」


ほとんど、というか全くメンテナンスをしていなかったにも関わらず、自転車は私がペダルに込める力を推進力に転換し、グングンと前に進んでいきました。

そして、到着。













嵐山は相変わらず世界に冠たる観光地の威光を保っていました。

それでも休日の人出としては全盛期の半分くらいでしょうか?

直ぐに気が付いたのは、

もちろんほぼみんなマスクをしている事、

そして欧米人の数が激減していた事、

です。

それでも中国語だけはしっかりと至る方向から聞こえていたのは違う意味での驚きでしたが。













渡月橋も相変わらずでした。

大雨の被害にも会っていないのでしょうか?いつもよくやっている護岸や修復の工事も行われていませんでした。














そして奥に見える山こそ、春には桜、秋には紅葉で美しく彩られる嵐山です。

この地域の地層は地殻変動で大きく隆起しており、そのために周囲を断崖絶壁のような景観で囲われています。

それ故、自然を背景として庭を造る(借景)、いわゆる「日本庭園、枯山水」の名所が随所に見られます。


さて、桂川に沿って少し上流に行ってみましょう。













ここもかなりの急斜面です。

そしてその麓に見えるのが貸しボート乗り場、兼食事処です。

たまに着物を着たカップルがボート漕ぎデートを楽しんでいるのを見かける事がありますが、衣裳が濡れてしまわないのか心配になります。

ちなみにこの日も何組が見かけましたが、一組は岸に詰まって立ち(漕ぎ)往生していました。恐らく彼女の彼に対する評価はガタ落ちでしょう。














この川で有名なアトラクションとしては、保津川下りがあります。

この日は見かけませんでしたが、多くの観光客を船に乗せ、舳先に立って講釈しながら急流を下る船頭の姿は実に頼もしく見えます。


「さて、日も暮れそうだしそろそろ帰るか」

踵を返すと、渡月橋が見えました。













こうしてみると、まさか世界が今伝染病の恐怖と戦っている最中などと誰が想像できるでしょうか?

実にのどかなものです。


「たまには自転車で遠出するのもありだな」


私はこの風景にしばし現実を忘れ、ぼーっと見惚れていました。

心の洗濯を終え、再び自転車に跨った私は、再び襲うお尻の痛みと格闘しながら家路に就きました。


私は帰路を快調に飛ばしながら、ふとこんなことを考えました。

「自転車は実に体に優しい乗り物だ。

 何しろ体と硬い地面とが接していないので、ジョギングのように骨に衝撃がかからない。

 膝に故障を抱えている人には最適な運動手段だが、健康ならばやはり骨にもある程度の負荷は必要になる。骨も甘やかしすぎると脆くなるのだ」


こう考えるとトライアスロンとは実に合理的な競技です。

筋肉負荷 : ジョグ < 自転車 < 水泳

骨の負荷 : 水泳 < 自転車 ジョグ  

と、実にバランスよく構成されているのです。

さらにいずれの種目も持久力を要します。


「なるほど、どうやら適当に組み合わせた訳ではないようだ」

私は意味なく独り言ちながらペダルを回していました。

滲む汗を爽やかな風が拭います。

するとまたこんな事が頭に浮かんできました。


「何のために汗をかくのか?

もちろん走るためである。

それでは何のために走るのか?

もちろん狩猟の為である」


その昔、我々の遠い祖先が狩猟採集で生きていた時代、肉を確保する主な手段は腐肉漁りでした。

動物の死骸を漁って貴重なたんぱく質を得ていたのですが、それとて危険と隣り合わせです。ハイエナやその他の肉食動物との競争率がとにかく高かったのです。

当時から戦闘力が最弱だった人類は、やがて多くの肉食獣とは異なる狩猟方法を思いつきました。

昼の炎天下、動物が木陰にこもり動かない時間を見計らって、草食獣を狩るのです。

汗で体温を下げられる人間は、呼吸でしか体温を下げることの出来ないその他の動物に比べ高い気温に対する耐性が高かったのです。


車で例えると、

高性能の水冷式冷却システム = 人間

空冷のみの冷却システム = その他の動物

となります。

もし空冷のみのF1(つまりラジエター無し)と一般乗用車がサーキットで競争すれば、後者が必ず勝ちます。

前者は間違いなくオーバーヒートするからです。


更に二足歩行によって、直射日光を受ける面積が四足歩行動物に比べ圧倒的に狭いこともそれに寄与しました。

この特性を以て人間はとにかく獲物を追い続けました。

いつまで追うかと言うと、相手が日射病で動けなくなるまでです。

瞬発的なスピードでは全然かないませんが、人間は獲物の逃げる方向を予測し、獲物が自分の熱を冷ます時間を与えないようにして徐々に追い詰めるのです。

当時は槍などの投擲武器も無かったので、人間の狩猟手段はただ獲物が熱暴走を起こして動けなくなるまで追い続けるという持久作戦しかなかったのです。

ちなみにこの手法は、割と近年までアジアやオーストラリアの原住民が採っていたようです。


つまり、人間の体は(長く)走るために最適化されているという事です。

なので、人は走る事が大好き(なはずです)。

犬が意味なく全力疾走して実に楽しそうに遊んでいる光景を思い浮かべてください。

それはそのまま我々人類にも当てはまります。

これほどジョギングやマラソンなどの長距離走を自ら進んで娯楽として楽しむ動物は他にいません。

もし我々の上位の存在がいるとしたら、彼らはきっと我々が犬を見て感じる微笑ましさを同じように我々に対して抱いている事でしょう。


さて、こんな事を考えているうちに気が付くと帰宅していました。

サイクリングにはジョギングには無い楽しみがあります。

遠くまで行ける事、

そして、走りながらでも割と思考が出来る事。

更にその思考は、散歩のときと同様に前向きで創造的なものになります。


「たまには自転車にも乗らないとな。

 今度洗車でもしてやろうか」


決意が実行されるかどうかは定かではありませんが、少なくともこの時の前向きな自分はそう思ったようです。


それでは!

■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年10月8日金曜日

人でありたいなら爪先を意識しろ!

 「適度に散歩をして適度な日光を浴びる」

これまでの記事にも度々書いてきたように、これほどコストパフォーマンスに優れた健康法は無いと私は思っています。

日光に含まれる紫外線B波は、ビタミンD生成に欠かせないものですし、それが欠乏することにより様々な(睡眠含む)弊害が発生します。

また二足歩行こそ人の人たる所以といっても過言ではないほど、人の体(或いは脳も)は歩くことが前提のシステムで構築されているように思えます。

(いずれも過去の記事に詳しく書いてありますので、もし気になる方がおられれば検索してみてください)


私は散歩をしながら、歩くことについて考えを巡らせていました。

「なぜ人だけが二足歩行なのだ?

 私は今ほぼ無意識に歩いているが、歩き方はこれで合っているのだろうか?

 そもそも私は今まで生きてきた中で、人から歩き方などを習った覚えが無い」

我ながらなんと平和な散歩でしょうか……


約600万年前、人は猿と分かれて独自の進化系統に進んでいきました。

その後多種多様な人類が誕生しましたが、今や人類は我々ホモサピエンスだけになってしまいました。

なので人が人たる所以を説明するのに最も適当な動物が、DNA配列が人と極めて近いと言われるチンパンジーです。

そのチンパンジーと人がおなじ祖先から分かれて、まず最初に現れた差異が二足歩行だと言われています。

詳しい背景は省略しますが、様々な環境要因から人は移動の必要に迫られ、逆にチンパンジーはさほどその必要に迫られませんでした。


それではなぜ二足歩行なのか?


手で道具を使うためという説も有りますが、実は人が道具(石器)を使うようになったのはそれから何百万年も後の事です。

そう考えると、二足歩行の直接的動機としては弱く感じます。

むしろ順序が逆で、手を使うための二足歩行ではなく、二足で歩くようになった結果、わりと手が自由になったと考えるほうが自然に思えます。

ある本によると、数あるデメリットを承知で人が二足歩行を始めた理由は、とにかく長距離を移動する必要に迫られたからだということです。

しかし四足に比べると、二足歩行のデメリットは多岐に渡ります。

(チンパンジーと人との比較だと考えると分かり易いと思います)


1.速く走れない。

2.走行中に急な転回ができない。

3.木登りが下手になる。(足の親指が短く真っすぐになり、木をつかめない)

4.出産が大変。(骨盤の変形)


このうち1から3は捕食者に捕まる可能性が高くなります。

4は子孫を残せる可能性が低くなります。

つまり、いずれも生物の進化の方向から考えると有りえないものばかりなのです。

それでも人は二足歩行を選択しました。


つぎに人がチンパンジーと別れた頃の二足歩行のメリットを考えてみましょう。


1.省エネで長距離移動が可能。


結局、このたった1つのメリットがその他の致命的なデメリットを上回った結果、彼らは生き残り、そして今の我々に繋がっています。


ちなみに1.を説明する為には、人とチンパンジーの足のつくりを比べればよく分かります。


①人は足が長い。

②人の足は真っすぐ前を向いている。

③人は膝が大きい。

④人には土踏まずがある。

⑤人の踵は大きい。

⑥人の足の親指は真っすぐで短い。


他にもありますが、これらはいずれも二足歩行の為の進化です。

さて、ようやく本題に戻ってきました。

ここで私は⑥に着目することにしました。


まず人の「歩く」という行為を横から見てみましょう。

基本、片足を前後交互に動かして進みます。

その時の腰の位置を確認してみると、ある事実が浮かび上がります。

片方の足のつま先で地面を蹴ってもう片方と丁度重なった時に腰の位置は最も高くなり、そしてかかとで着地した瞬間、つまり両足が最も開いた時に腰の位置は最も低くなります。

この高さの差はそのまま位置エネルギーに置き換える事が出来ます。

つまり、二足歩行ではつま先で地面を蹴って得た位置エネルギーを前方への推進力として活用していると言えるのです。

確かにチンパンジーの”がに股”、”すり足”での二足歩行では、高低差を利用した位置エネルギーなどは活用できるはずもありません。

かれらの足の親指は、木の枝などを掴めるように長くて内側を向いている(人間の手と同じ)ので、二足歩行には適していないようです。

実験によると、二足は四足の3分の1ほどの消費カロリーで移動できるという事です。

つまり、同じ食糧でも移動距離は3倍ということです。

チンパンジーの一日の移動距離は約2kmということですから、二足歩行の人間は一日にその3倍の約6㎞ほど移動できたわけです。


余談ですが、人が走る時の位置エネルギーの推移は歩行時とは真逆になります。

つまり両足を開いた時に最も高くなり、交差する瞬間に最も低くなるのです。

なので必然的に使う筋肉や用いる技術が異なってきます。

競歩とマラソンが似て非なる理由がここにあります。


さて話を戻して、本来手の親指と同じ役割だった我々の足の親指は、二足歩行のためにそれ専門の形状へと進化しました。

逆に言うと、

二足歩行の為には足の親指が必須!

ここを意識せずに正しい二足歩行などあり得ない!

という事にもなるのです。


ところがスニーカーや革靴などで歩行するようになった我々は、ともするとチンパンジーのような「がに股」「すり足」になりがちです。

腰の上下動が無く、位置エネルギーも使えていないので、歩いてもすぐに疲れたりします。

そうすると更に歩くのが嫌になって、やがて土踏まずの筋肉も徐々に退化していきます。

そうです、言い方を変えるとチンパンジー化しているのです。


私はこの理屈から、歩くときに出来るだけ足の親指を意識するようにしました。

腰の上下動に連動し、視界の上下の揺れも少し大きくなったような気がしました。

するとどうでしょう、

歩幅が少し広くなりました。

胸が張り、背筋がピーンと伸びました。

ふくらはぎとお尻の筋肉に張りが出て来ました。

それほど長く歩いていないので、疲れやすさの有無はよく分かりませんでしたが、明らかに楽になりました。

測定していないので感覚だけですが、つま先の筋肉まで動かしているので、おそらく足の血流も良くなっているでしょう。


よく背筋を伸ばして、猫背にならずに歩きましょうなどと言われますが、そんなことをせずとも足の親指に少し注意を向けるだけで必然的に歩き方は正しく美しくなるのです。

たるんだ紐を真っすぐにするには、垂れ下がった中心を持ち上げるのではなく、端を引っ張れば良いのと同じ理屈です。


これらは靴を履いていると中々実感しにくくても、家で裸足の時に試してみると直ぐに分かると思います。(靴の弊害の一つですね)

本来ならば裸足で歩くのが最もいいのでしょうが、現代においては無理があります。

なので、最初は意識して、慣れればそれが当たり前になると思います。

ただ一つ注意しなければならないことがあります。

このように人間らしく歩けるようになると、周囲の「がに股」「すり足」で歩く人達が本当にチンパンジーに見えてきます。

もし接する場合、認識は直ちに元に戻すように!


という訳で私は決めました。

次にスニーカーを買う時は、出来るだけ底の薄いものにしよう、と。


それでは!


■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年10月3日日曜日

「もっと!」ドーパミンが誘う我々の未来。

「もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学」

 ダニエル・Z・リーバーマン、マイケル・E・ロング

最近私が読んでいる本です。


このブログでも何度かドーパミンに触れましたが、ドーパミンはこれまで快楽物質とかいう変なレッテルを貼られていました。

しかし近年の研究によって、ドーパミンは人間の探求心を惹起する脳内物質だということが分かってきました。

「あの山の向こうには何があるのだろう」

「あの娘の事がもっと知りたい」

「これは何だろう」

などと言うように、主に人間の未来(将来)について、少しでも良い(生存確率を上げる)結果をもたらすように我々を駆り立てる役割を果たしています。

動物にもあるのでしょうが、これは人間の専売特許です。

なぜ人間にこのような機能が備わっているのでしょうか?

遺伝子マーカーのパターンや出現頻度の調査によって、約20万年前にアフリカに出現した我々の直接の先祖は、およそ10万年前に突然その母なる地から旅立つことを決意しました。


やがて、

約5万年前にアジア全域に拡がり、

4万6千年前にオーストラリアに到達し、

4万3千年前にはヨーロッパに、

そして3万年前~1万4千年前には北米にまでたどり着きました。


それまでの長いアフリカでの狩猟採集生活を捨て、未知の世界へ乗り出した力の根源こそドーパミンだというのです。

我々の祖先は、その進化の過程において、何度か絶滅の危機に瀕したことがあるようです。

詳細は不明ですが、大部分が死滅し、一時人口が2万人未満にまで激減したこともあるようです。

「一か所に留まっていてはダメだ!リスクを分散しろ!絶滅するぞ!」

と誰が言ったのかは知りませんが、とにかく我々は急に探索意欲に満ち溢れた生き物に進化したようです。


ドーパミンは極めて未来志向です。

「現在」や「既存」(すでに所有しているもの)には全く興味がありません。

とにかく「遠く」、「手の届かない場所」に我々を誘うのです。

本著ではドーパミンの正体は「報酬予測誤差」にあり、ポイントは予想外の良いニュースがもたらすゾクゾクするようなな快感にあるとしています。

例えば現代においては、「出会い系」とか「ギャンブル」とか「海外旅行」とか(もうドーパミン産業といっても良いと思う)、この原理に即したアクティビティ?が我々を取り巻いています。

面白いことに、ドーパミンは「予想外」に特に惹かれます。

なのでこれらの産業は巧みにその性質を利用しています。

それは現代の標準的なカジノの80%のスペースがスロットマシンに割かれていることからも明白だという事です。

エサを求めてひたすらボタンを押し続ける研究用マウスと同様に、777の快感を求めて人はスロットマシンのボタンを押し続けるのです。


突然ですが、ドーパミンについて一つの例題があります。

もし以下のような状況に置かれた場合、あなたはどのような行動をとるでしょうか?


《例題》

部屋に入ると、中央の大きなテーブルの向こうに一人の男が腰かけていました。

男はいかにも尊大な態度で豪奢なソファに深く腰掛け、腕組みをしてあなたを不審そうな目つきで睨んでいます。

「さあ、どうぞ、座りなさい」

男は低く事務的な声で私にそういいました。

私は男の言うとおりに手前の椅子に座りました。

さて、その時の私の態度は?


1.小さく縮こまり、出来るだけ男の印象に良いイメージを与えようと努める。

2.男と同じように、いやそれ以上に尊大な態度で対抗しようとする。

3.男には無関心と言わんばかりに、平静を装う。


実はこの問いと同様のケースを実験した研究があるようで、結果は多数の人が1.の態度をとったそうです。

そしてこの結果は、まさに我々の行動がドーパミンによって制御されていることを証明しているということです。

なぜ?


前述したように、ドーパミンは我々の未来(将来)を少しでも良いものにする為に存在しています。

ただし、ドーパミンに倫理感や道徳感はありません。

手段を択ばず良い未来に誘う!

それがドーパミンです。

そして、良い未来というのは必ずしも自分が上に立つ必要はないのです。

相手に屈したくない、卑屈になりたくないという、変に人間臭いプライドが邪魔になる時だってあるのです。


上述のケースおいては、

相手の成功(権力)を無意識に感じ取った人は、相手の邪魔にならないように服従する体を取り、悪く言うとその力に与かっておこぼれを貰う、良く?は言えませんが、とにかく相手を利用して自分にとって幸福な未来を手に入れようとしているのです。

ドーパミンの目的は未来の為に環境を支配することであって、その環境にいる誰かを支配することではないのです。

いわゆる「面従腹背」、「虎の威を借る狐」ということですが、

皆さんは相手に服従していながらも、その相手を自分の意のままに動かし主導権は握ってい無いにもかかわらずその場を支配しているという感覚に、妙な高揚と喜びを感じた事は無いでしょうか?

これがドーパミンのもたらす快感です。


本著によると、

「道徳的だろうが不道徳だろうが、支配的だろうが服従的だろうが、良い未来につながる限り、それはドーパミンのなせるわざなのだ」

という事になる訳です。


なので、もし例題の相手が弱々しく卑屈な態度で座っている男ならば、ここでの「私」の態度は180度転換することになります。

成功しそうにない、力を持っていそうにない相手に対し、今度は自分が主導権を握るべく尊大な態度をとるのです。

「人を見て態度を変える」

なんとも嫌な奴ですが、ドーパミンにとっては幸せの為の最適解なのです。


ちなみにですが、私の選択は2.です。

私はドーパミン活性が低い?のでしょうか。将来よりも変な見栄やプライドにこだわる性質は大人になってより顕著になっているような気がします。

何とかしないと。


さて、

1.= ドーパミン活性が普通の一般人

2.= 私のようにドーパミン活性が低い人(多分)

だと思うのですが、

それではドーパミン活性が高い人はどうなるのでしょうか?

本著には書かれていませんでしたが、以下の例で何となく分かるような気がします。


●ドストエフスキー

 人類への愛が大きくなればなるほど特定の人間への愛は小さくなる。

●エドナ・ミレイ

 人類を愛しているが、人間は大嫌いだ。

●チャールズ・シュルツ

 人類の事は愛しているよ……僕が我慢できないのは人間なんだ。


そして極め付きは、かの

●アインシュタイン

「私の燃えるような社会正義感と社会的責任感は、他の人間たちとの直接的な触れ合いを求める気持ちの明らかな欠如と、常に奇妙な対照をなしていた」


いずれもドーパミンの塊のような人たちばかりですが、共通するのは個としての人には興味が無いどころがむしろ「嫌い」だという事です。

彼らにとって人間とは、研究、或いは探索対象としての「人類というカテゴリー」であって、交流して友情や愛を共有する「個としての人」では無いということです。


さて、如何だったでしょうか?

何事もそうですが、ドーパミンもありすぎても無さ過ぎても困りものだということが分かりました。

そして、我々を取り巻くネットやギャンブルなどの娯楽の渦は、本来は将来の幸せの為にあるドーパミンの性質をうまく利用して利益を上げているという事も。


本著をさらに読み進めて、また紹介したいと思います。

それでは!



■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...