2021年7月31日土曜日

勇気とは忍耐?ちょっと考えてみた。

 まるで街ごと蒸し風呂に入っているかのような今日の京都。

かいた汗がいつまでも乾かず、その汗でさらに蒸されるという有ってはならない負の循環。

それでも負けずに徒歩で図書館に本を借りに行った私。

誰か称えてほしい、この勇気を。


私のはちょっと胡散臭い勇気ですが、毎日TVの向こうで頑張っているオリンピック選手達のそれは本物です。日々の努力をこの大一番で見事結実させるその勇気に、ここ最近の私は畏敬の念さえ抱いています。

よく活躍したスポーツ選手などを観て「勇気をもらった!ありがとー」などと言っている人がいますが、はたして勇気とは何なのか?そもそももらえるものなのか?


プラトンは「ラケス」という本の中で勇気についてこう言いました。

「一言でいうならそれは忍耐強さであり、忍耐強さは目的次第だとする」


なるほど、よく分からない。

「忍耐」とは?

辞書を引くと「がまんすること。耐え忍ぶこと」とあります。


つまり「勇気」とは、

どれだけ我慢できるかということらしく、その”どれだけ”の度合いは目的によって変わるらしいとのこと。


では「目的」とは?

辞書によると「実現または到達しようとして目指す事柄」とあります。

あまりよくわからないので”的”という漢字の成り立ちを調べてみました。

すると、

【「太陽」の象形と「物をすくいとったひしゃく」の象形から、

 多くの物の中から1つをすくいあげ、「きわだたせる」・「あきらかにする」

 を意味する「的」という漢字が成り立ちました。】

とありました。


なるほど! ”的”の右側がひしゃくだったとは。

これで何となく分かってきました。


つまり「目的」とは「明確なゴール」のことらしい。

(よく「明確な目的を!」みたいなことを言う人がいますが、そもそも「目的」とは「明確で現実的」なものなので、考えてみればおかしな言い回しです)

そして、それはあくまで自分の手に届く範ちゅうでなければならず、例えて言うと、

空を飛ぶ鷹を捕まえたいのは「夢」で、

池の中の鯉を捕まえたいのが「目的」という感じでしょうか。

何しろ”的”はひしゃくですくえるものらしいので。


結局プラトンの言わんとしている事は

「魅力ある目的は大きな勇気を生む」ということでしょうか?

勇気のある人とは「目的設定の上手な人」のことだったんですね。


朝起きられない時、ジョギングが億劫な時、まずは魅力ある目的設定からやり直してみましょう。

→ と、自分に強く言い聞かせる。


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2021年7月29日木曜日

歴史朗読のYouTube投稿裏話を少しだけ

 まだまだ暑い京都から、皆さんこんばんは。

今日は昨夜投稿した動画の裏話などを少しだけ披露したいと思います。


私は本を読んだ後にその感想や要点などをノートに書き留めています。

特に目的があるわけではないのですが、出来るだけ忘れないようにするためには「手で書く」という行為が有効だと思っているのです。

それに忘れた頃に読み返してみるとなんだか日記みたいで面白かったりします。


今回YouTubeを始めるにあたって、せっかくこれだけノートがたまっているのだから何か利用できないものか?と考えていました。

結果、「自分の稚拙な読書感想文を朗読しても仕方がないが、歴史的事実ならどうだろう?」という結論にいたり、今回のロシア歴史年表動画となったわけです。


さて、動画を実際つくるにあたり、私はまず背景、テロップ、BGMを完全にFIXさせました。そして最後にそれに合わせて音声を入れるという段取りにしたのです。

「20分程度だし、ノーミスでアフレコ出来るだろ!」という素人にありがちな根拠のない自信というやつです。

(下図は実際に使った編集ソフトの画面キャプチャ―です)










音声収録は地獄でした。

「教会改革」を「教育改革」と読み間違えたり、ロシア人の難しい名前を噛んだり、まあいろいろ失敗しました。

悔恨の念に苛まれ続けていました。

ようやく成功したのは5回目のアフレコでした。

喉は乾燥し、声は枯れ、ずいぶん弱っているのがわかります。

「さあ、出来た。出来た事にしよう。出来たに違いない!」

という訳でさっそくファイルを書きだし、YouTubeに投稿することにしました。


するとYouTubeが何やら「……著作権が……」どうこうと、警告的な事を言ってきました。

今回新たにフリー素材として採用したのはラフマニノフのBGMだけだったので、多分それかな?と推測は出来ました。

でも私は”無料”かつ”フリー”を確認してダウンロードしましたし、改めてそのサイトを見直してもやっぱり”無料”かつ”フリー”。

残る謎。時計の針は深夜1時を指していました。

諦めて寝ようとも思いましたが、このもやもやした感じではとても寝られませんでした。

それからどのくらい経ったでしょう?気の向くまま眼の血走るままにネットサーフィンです。

ようやく警告が出ないBGMをゲットしたときにはすでに朝を迎えていました。

「どっちみち寝れなかったのか……」


初めてすることばかりなのでやっぱり色々ありますね。

分からないことだらけのうえに、まだまだ手際も悪いので時間ばかりかかります。

でも何事も経験。

「知らなかったことをまた一つ知ることが出来た」と思えばプライスレスです。


という訳で悪戦苦闘はこれからも続きそうですが、とりあえず頑張ります。



2021年7月28日水曜日

気が付けば無駄に忙しい毎日。

YouTube初投稿から明けて丸一日。

どうやら14回も観てくれたらしく、苦労して作ったかいがありました。

でもここ最近ブログやらYouTubeやらTwitterやらをいきなり始めたものですから、とにかく無駄に忙しい!

無駄(←ここ大事)に忙しいのです。

これまでたまにジョギングして筋トレするだけでも割と気合いが必要だったのに、この先うまく両立していけるのかどうか?今のところ未来の自分を信じるほかありません。

その上昨夜は初投稿で興奮していたのか中々うまく寝付けず、仕方がないので自分であげた動画を丸々一本視聴してしまうという暴挙にでてしまいました。

なので正確な試聴回数は13回です。


さて、何とか作業時間を捻出しないと。

これまで縁もゆかりも無かった動画作成はその内に慣れるような気がします。

色々触っていると何となく必要なボタンが分かってきますし、所詮は趣味程度のクオリティですから。

なので暇を見つけて適当にゆるゆるっとこなしていけばいいかなと思っています。

でも音声収録だけはちょっと事情が異なります。

周囲の音に影響されるので、作業は必然的に街が寝静まった深夜以降の時間帯に限定されるからです。

かといってそれで生活リズムが狂ってしまうのは本末転倒です。

安らかな眠りの提供者が寝不足では私の主旨に合いませんから。

週末の深夜、或いは明けた早朝。今のところこの辺が狙い目でしょうか。


まあ、作業が楽しいうちはとりあえずアイデアが尽きるまでやり続けようと思います。

未来の自分を信じて!



ついにYouTubeデビューしました。

ついにYouTubeデビューしました。
まずは小説朗読と環境音の動画をあげました。
睡眠に悩む人々の一助になれば‼という思いで作りました。
何から何まで初めてだったもので、完成までに結構な時間を要したうえに出来の方も保証は出来ませんが、何事もまず最初の一歩を踏み出すことからです。
とりあえず出来るところまで続けてみようと思います。
という訳で、まずは一報。

【睡眠、読書、勉強】窓辺で聴くやさしい雨音100分 - ASMR Rain Sound 100min


【睡眠導入】【朗読】ドグラ・マグラ #1 - [Dogra Magra #1] Read Aloud Japanese ASMR

【睡眠導入】【朗読】ドグラ・マグラ #1 (雨音有り) - [Dogra Magra #1] Read Aloud Japanese ASMR with Rain Sound


2021年7月27日火曜日

不眠には音も効果的?(ASMR)

以前の記事で不眠症だった頃の話をしました。

「走る事」がその時の私には非常によくマッチした訳ですが、それ以外にも色々創意工夫し、七転八倒しながら試していたことがあります。

今回はその中でも「音」について語りたいと思います。


不眠といっても私の場合は完全に「入眠障害」です。

とにかく寝付けず、気が付くと朝の5時6時。

なんだか頭が24時間フル回転しているような感じで、疲れをとるはずの睡眠のはずなのに逆にくたくたになって時間切れ!みたいな毎日です。

やがてそれはトラウマとなり、就寝すること自体に恐怖を感じるようになっていきました。

そう、負のデス‐スパイラルです。

それまでは「布団は友達!」だったのが、しだいに「敵!」、いやいや「親の仇」くらいにまで大出世したのです(悪い意味で)。


とにかく布団の中で思考を止めなくては!

そう考えた私は当時まだあまり知られてなかった「ASMR」というジャンルの動画を某YOUTUBEで偶然見つけたのでした。

 ちなみにASMRとは、Autonomous Sensory Meridian Responseの略で、直訳すると自律感覚絶頂反応という意味らしいです。(訳されてもよく分かりませんが)

当時動画の作成者はほぼ外国人しかいませんでしたが、ASMRは基本的に「耳掃除の音」とか「シャンプーの音」とか「何かの摩擦音」とか、単調で心地よい音を繰り返し高音質で聞かせるものなので、視聴に問題はありませんでした。

そして、この「単調で心地良い音を繰り返し」というのが肝なのです。

ちなみに私は特に「爪でのタッピング音」がドンピシャでした。

人によって「咀嚼音」とか「スライムこね音?」とか色々好みが分かれるようですが、私にはとにかくこの「爪でのタッピング音」でした。

特に高速タッピングで脳が何度かとろけた覚えがあります。


「単調で心地良い音を繰り返し」が不眠に効くのは、それ自体に意味が無いからだと思います。逆に「意味が無い」ことが重要なのです。

何故なら、人はとかく物事に意味をつけたがる生き物だからです。(例えば「人生」とか)

「考えるな、感じろ」と昔誰かが言っていましたが、意味の無い音の羅列は脳が思考を停止し感覚だけの世界に浸るにはもってこいです。

そして、これは入眠に至るステップとして最適だと思います。


でも一つ注意というか覚悟しないといけないのは、これはあくまで対処療法であって根本治癒の処方ではないということ。軽減や緩和には寄与してくれますが、深刻になればなるほど「運動の実施」や「心のありようの変革」など、難しくて割とキツイ療法が必要になると思っています。


という訳で今回はざっと「音」について述べさせていただきました。

そのうち私もASMRとまではいかずとも、何か「眠り」の助けになれるような動画を作れたらな、と思っています。


それでは皆さん、心地よい睡眠を!

おやすみなさい。



2021年7月26日月曜日

今日も日本はやってくれました。卓球と柔道で金メダル!

 今日も日本はやってくれました。

今大会から正式採用された卓球混合ダブルスで、水谷伊藤コンビが中国を破って見事に金メダルです!


卓球って今まであまり観たことなかったのですが、1球1球の展開の速さ、そして目まぐるしく変わるゲームの流れなどが相まってすごく面白いですねぇー。
常に緊迫感が漂っていてハラハラドキドキしっぱなしでした。
観ていて思ったのですが「流れ」って重要なんですね。
どっちにいっているかで全く展開が変わってきます。
1マッチを7ゲームに分けている意味が良く理解できました。
点の総量だけで試合が決まると(観る方にとって)こうは面白くならないですからね。

あと、ホームの力。
観客はいませんでしたが、やっぱり精神的に随分違うものなのでしょうね。
「流れ」といい「ホーム」といい、人間ってつくづく心の生き物なんだな、と思いました。


さて、次は柔道男子73キロ級の大野将平。

なんと2連覇!


決勝は10分にも及ぶ長丁場でした。
これもやっぱり最後にものを言ったのは精神力だったのではないでしょうか?
前チャンピオンで、日本の期待を背負って、と私には想像すらできない重責を背負っていた訳ですが、彼ほどのアスリートになるとそれを逆に糧とできる心の強さがあるのでしょう。

最後に同日に行われた柔道女子57kg級の芳田選手。
惜しくも銅メダルでしたが素晴らしい試合でした。
可哀想だなと思ったのは、やっぱり負けてもインタビューに応じなければならないこと。
するほうもされるほうも良い気分じゃないだろうなと思います。
でも彼らはそういう場所で戦っているんだなとも思いました。
厳しい世界です。

まあとにかく連日メダルラッシュでもう言う事は有りません。
明日もガンバレ! 日本。


2021年7月25日日曜日

柔道阿部兄妹、同日に揃って金メダル!おめでとうー。

 連日の快挙ですね、日本柔道。

阿部兄妹が同日に揃って金メダルを獲得いたしました。

それもなんと日本史上初とのこと。

ついでに妹の詩さんは日本柔道女子52キロ級初の金メダリストとなりました。


日本経済新聞 金メダルを決め、指を1本立てる阿部一二三


日本経済新聞 金メダルを獲得した阿部詩

私は今日もずっとTVで観戦していましたが、やっぱり感動しますね。
オリンピックってすごいなぁ、いいなぁ、って改めて思いました。

特に妹の詩さんの勝利の時は思わず拍手してしまいました。
決勝の相手、フランスのブシャール選手はそれまでの3試合を全て早期一本勝ちで上がってきた猛者。
私は彼女のまるで稲妻のような奥襟からの肩車?を見て戦慄さえ覚えたのでした。
その上、一度詩さんにも勝利しているとのこと。
決勝はどうなるのだろう?と不安だったのですが、それは杞憂に終わりました。

詩さんはブシャール選手をほぼ完ぺきに抑え込み、最後は寝技で一本。
手の内を知っているもの同士で技を競い合った素晴らしい試合でした。

そしてその後の解放感と歓喜。
観客が居ればなぁー。
つくづく思いました。

それでも、
またガンバレ、
日本!



早起きの謎、そしてマルクスの言葉。

 暑い暑い夏の日本。

そりゃテニス選手も「試合時間を変更してくれ」と言いたくなりますよね。

分かります。

私もちょっとジョギングしただけで恐ろしいダメージを受けますから。

日中はまさに釜茹で地獄です。

そして昼の暑気を溜め込んだアスファルトは夜になっても熱を放射し続けます。

暑くて寝れない。そして朝起きれない。なんかいつも睡眠不足。

まあ朝眠いのは夏に限った事ではないのですが、そんな時私が思い出す言葉があります。


かのローマ五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスはこう言いました。

 明け方に起きにくい時には、次の思いを念頭に用意しておくが良い。

 「人間の務めを果たすために私は起きるのだ」


要は寝ている時は人も動物も変わらないのだから、人としてありたいのならば早く起きて働け!ということなんですが、さすがストア派の哲人皇帝、考える事がストイックです。


でも私が救われているのはこの言葉のこういうストイックな部分ではなく、むしろ「あぁ、こんなすごい人でもやっぱり朝は眠いんだ」という何となくの仲間意識、そしてそれゆえの共感による部分なのです。

自分だけじゃないんだ、あんな偉い人でもそうなんだ、と思う事でなんだかちょっと心が軽くなる気がするんですよね。

しかし結局重要なのはその後の行動で、よし起きよう!となるか、仕方ない寝てよう!となるかで大違いなのは言うまでもありません。


ここでふと思ったのですが、そもそもなぜ朝の8時9時から社会が始まるのでしょう?

「早起きは三文の徳」なんて餌まで撒いて起こそうとする理由は?

みんな眠いのだからもう少し遅くてもいいじゃないか!

まあ生産性とかを考慮すると日が昇ってから出来るだけ早く働き始めた方が良いというのは分かりますが、夜働けないほど暗くなるマルクスの時代と違って今はかなり融通が利くはずです。

これはきっと陰謀的な何かに違いない!

恐らく年を取って早起きになった村の長老かなんかが、朝やることがないので半ば強制的に皆の起床時間を自分に合わせたとか。

だいたい太古の昔から指導者は年配と相場は決まっています。

そうなると必然的に集団の生活スタイルも年配者に合わせるようになってくるのでは?

こんな無駄な事ばかり考えながら私は今日も生きてます。

日本の中でも特に不快指数の高いここ京都にて。



2021年7月24日土曜日

柔道男子60キロ級の高藤が今大会日本初の金メダル!おめでとうー。

 さあ、いよいよ始まりました東京オリンピック。

まず昨夜の開会式なんですが、個々のアトラクション?は素晴らしかったと思います。

ですが全体的に何だか幕の内弁当みたいだったなーと思いました。

統一感というか、一貫性というか、メインストーリーというか、そんな全体を貫く芯のようなものが欠落しているような気がしたんですよね。小説に例えると「短篇集」という感じでしょうか。

まあそれも一つの思い出ということで、


さて、競技初日の今日はさっそく柔道でした。

やりましたね、高藤選手。

初戦からずっと淡々とこなしているように見えたのですが、優勝の直後に涙、涙、そして笑顔。

日本経済新聞 柔道男子60キロ級決勝で台湾の楊を破り、金メダルを獲得した高藤


やっぱりものすごい重圧があったんでしょうね。解放されたときの安堵、達成感、そしてこみ上げる昂揚は「成し遂げた人」にしか味わえないものです。

とにかくおめでとうございます。


柔道をずっと観ていた私なのですが、なんだか急に走りたくなってしまって、気が付いたら家を飛び出しておりました。

「なんかやれそう、いややれるはず、むしろやりたい!」なんて思っていましたけど、10分後にきっちり後悔したのは言うまでもありません。

「暑い、苦しい、疲れた、帰りたい」

何をやっているのでしょうか、私は。


でも5kmほど(私なりに)走ってから浴びた冷たいシャワーはそれはもう夢心地、極楽の境地でした。

私レベルでの「安堵、達成感、そしてこみ上げる昂揚」です。


また明日も観て応援しますよ!オリンピック。

ガンバレ日本。



2021年7月23日金曜日

チンパンジーがゴリラを殺す!?そして更に上をいく人間。

 世間がオリンピック色に染まりつつある今日この頃ですが、ふとこんなニュースを見かけたので引用してみました。


『野生のチンパンジーがゴリラを襲って殺す行動、初めて目撃 ドイツ研究チーム』 By CNN

ドイツの研究チームはアフリカ中部ガボンで野生のチンパンジーとゴリラの行動を観察した/Courtesy Lara Southern/LCP

ちょっと驚きですねぇー。

私はゴリラと言えば森の王者、気ままに寝て起きてたまに交尾して、気に障ったら脅して襲ってドラミング、みたいな印象を持っていました。

それが、どちらかというとゴリラのパシリ的印象をぬぐえないチンパンジーが、あろうことかゴリラに対峙して、それも殺してしまうなんて。


記事によると、

「研究チームが記録した2回の遭遇のうち、1回目は52分、2回目は79分続き、チンパンジーが徒党を組んでゴリラを襲っていた。

ゴリラは大人のオスとメスが自分たちと子どもを守ろうとしたが、子ども2頭が母ゴリラから引き離されて殺されたという。」

そして、研究チームはこの惨劇の主な原因を「食糧源の共有による争いの激化」としています。


どうやら普段わりと仲良くやっているらしいゴリラとチンパンジーも、こと食う事においては譲れない部分があるようで、もし対立した場合たとえ相手がゴリラだろうとチンパンジーは命をかけて戦うらしいのです。それも「数の原理で弱者から」という割とクレバーな戦術まで使って。

霊長類(特に大型)ってここまでするんですねー。

でもその頂点に君臨する人間は更にその上を行っています。

なにしろ同類同士で殺し合うのですから。

歴史を振り返ると、我々は常に殺し合っていて、むしろ殺し合わずにはいられない生き物のようです。


また、ゴリラとチンパンジーの対立要因は食料ということでしたが、それは人間同士にもきっちり当てはまります。

例えば、今の中国共産党がもっとも重視し気を遣っている事は「軍事」でも「経済」でも「領土」でもなく、国民の食糧問題です。

表面的に「軍事」「経済」「領土」などが派手に喧伝されていて見えにくいですが、それらは全て「国民の不満」を党に向けさせないための政策の一環です。

そして、それが最も発露しやすいのが食料問題なのです。

人はそこそこ食えていれば多少政治に不満があっても「まぁいいか」となるのですが、食えなくなると問題が一気に最上階まで格上げされます。

つまりチンパンジー同様に人間もゴリラ(ときの為政者)に命がけで対峙するのです。

これは中国歴代王朝の興亡を鑑みるとよく分かります。

そしてその怖さを一番良く知っているのが中国共産党で、彼らにとっての第一命題は「とにかく国民を飢えさせない」ことになる訳です。


何故か猿から中国の話になってしまいましたが、

単純か複雑かの違いだけで、行動の本質(動機)については猿も人間も変わらないんだな、と思いました。



2021年7月22日木曜日

入道雲の無い空とオリンピック。

 「うだるような暑さ」というのはこういう事を言うのだろうと、思わず納得してしまう今日の京都。(ちなみに「うだる」とは「茹だる」と書き、まるで頭が茹で上がってしまうようなという意味らしいです)


こっそり梅雨が明けたかと思うと、すぐさま夏が本番宣言したようです。

こんな日にわざわざ出かけることもないだろうと思うのですが、私も霞を食べて生きている訳ではないのでやっぱり出ないとならないのです。

見上げるとどこまでも青い空。

「見なきゃよかった!更に暑くなったような気がする」

京都の空













でも「冬空だ」と言われればそう見えないこともありません。

どうやら暑さを表現するには足りない要素があるようです。

ちょこっと入道雲でも書き足せば立派な夏空になるかな。


そう言えばいよいよ東京オリンピックの開幕です。

(まさかこんな状況下での開催になるとは想像だにしていませんでしたが……)

楽しみですね〜。

でも無観客というのはやっぱりどうなんだろ?と思います。

やっているほうはもちろんだと思いますが、観ているこっちも何か物足りない、寂しい、そんな気持ちになるはずです。


入道雲の無い空に夏の匂いを感じないように、観客のいないスタジアムにはオリンピックの匂いを感じないのではないでしょうか?

近代オリンピックって(表向きは)やっぱり一種の「お祭り」であって、人のいない「お祭り」なんてあり得ないですもんねぇ~(T_T)


以上、うだるような京都にて。


2021年7月20日火曜日

憂鬱、不眠、倦怠……社会との距離を考えよう!

せっかく前回「抑うつ」について少し触れたので、今回は偉人の言葉を引用してもう少し深堀りしてみようと思います。


ヴォルテール著 『カンディード』

色々考えすぎずにただ働くことで人は不幸を遠ざける事が出来る。いちいち出来事に対して深く意味を問うな。


ヴォルテールは基本的に人生とは辛いのが当たり前なので、そこに意味を見出そうとしたりただ悲観したりしないように!と言っています。

そして「働く」、つまり社会との接点をもって生きていれば「幸せ」とはならないまでも少なくとも「不幸」を遠ざけることは出来る、と。

しかしパスカルの「人間とは考える葦である」の言葉通り、人は熟考し、悩み、堂々巡りに苦しみます。特に人間関係に。(なにごとも「ほどほど」が重要です)

では人間関係を偉人はどう捉えていたのでしょうか?


ショーペンハウアー著 『幸福について』

人間関係については不死身でなければならない。そして幸福であるためには不幸を避ける知恵と、生きるための勇気が必要であることも。


ショーペンハウアーは社会に生きる以上人間関係の問題は避けられないものなので、それをうまく回避する知恵と勇気を持ちなさいと言っています。(これはこれから社会にデビューする若人に向けて送った言葉で、そこには社会人としての覚悟を求める意図も窺えます)

それでも人間関係が嫌で社会から離れてしまう人もいるでしょう。

すると今度は別の問題が待っています。

「退屈」です。もう逃げ場がありません。


ショーペンハウアー著 『幸福について』

人間は苦痛と退屈の間を行ったり来たりしながら生きている。


ここでいう苦痛とは人間関係のことで、逆に退屈とは社会を離れる(孤独)ことです。

つまり社会に属しても離れても、人は同じように「苦痛」に襲われる、と。

(なんと不幸な生き物なのでしょうか、人間って)

なので人は常に自分と社会との丁度良い距離をつかもうと暗中模索(もがいて)しているのです。

そしてそれは苦痛と退屈の間のどこかにあって、もしかしたら日々変動しているのかもしれません。

では、丁度良い距離とはどのように定義すればいいのでしょうか?


トーマス・マン著 『ブッテンブローク家の人びと』

我が子よ、昼は仕事に喜びもて励め、されど、夜、安らかに眠れるごとき仕事にのみ励め。


トーマス・マンは、社会との適切な距離の例として、夜ぐっすり眠れるような仕事を持つことを挙げています。

睡眠を阻害するような仕事に一体何の価値があるのだ、と。

そう、睡眠、睡眠、睡眠です。


ヴォルテール著 『人間論』

神は現世におけるいろいろな心配事の償いとして、われわれに希望と睡眠を与えた。


つまりヴォルテールは、それほどに「希望」と「睡眠」が生きるためには必要なのだと言っているのです。


私は以前の記事

「うつ状態」とは、うまく将来が描けなくなる事(絶望)

と書きました。

つまり「うつ」になると「生きる」ことに必要不可欠な「希望」も「睡眠」も失ってしまうのです。それは苦しいはずです。


社会との適切な距離、大事です。

そして希望や睡眠はそれを計る重要なパラメータです。


いままで少し軽んじていましたが、自分で記事を書きながら改めて腑に落ちた今日この頃です。


さて、今夜も良い夢を見られますように!


2021年7月19日月曜日

憂鬱、不眠、倦怠……全て走る事で改善する!

 起床時はいつも憂鬱、夜なかなか眠れない或いは何度も目が覚める、日中は体がだるくて何をするにも億劫になる、これらは「抑うつ」の初期段階によくみられる症状ですね。

実は私も以前それらに悩まされていた時期がありまして、とにかく毎日不安で仕方がありませんでした。

特に「不眠」については一度はまると中々そのループから抜け出せず、疲れをとる為の就寝のはずが逆にくたくたになって朝を迎えることも度々ありました。

睡眠導入剤の助けを借りると随分楽にはなるのですが所詮は対処療法、根本原因を取り除いて完治!という訳にはいきません。それどころか逆に依存してしまって、今度はそれ無しでは床にも就けなくなります。


さて、どうしよう。

とりあえず読書好きな私は、藁にもすがる思いで様々な書物に助けを求めました。

そしてようやく理論的に納得できる一冊の本にたどり着いたのでした。


John J. Ratey(ハーバード大学医学大学院臨床精神医学)著

『脳を鍛えるには運動しかない』


要約すると、

猿から別れ、人(ホモ・サピエンス)が誕生したのが約10万年前。

それ以降、人が狩りをするときの最大の武器は『走ること』でした。

とにかく獲物が疲れるまで走って歩いて追いかけるのです。

なので人の脳と体は二本足で歩き、走る事に最適化されています。

二足歩行の弊害として血液を脳に送りにくいということがありますが、走って心拍をあげることでそれを補っています。

散歩したりジョギングしたりすると、何となく思考が前向きになることを実感出来ると思いますが、これも脳への血流の増加及びそれにより分泌される脳内ホルモンの影響です。

約5千年前、人類は初めて文明なるものを生み出しました。

それ以降、生活は急激に変化し現在に至ります。

10万年前から走るために最適化されていた人間の体は、5千年の急激な変化に未だ対応できていません。1世代50年とすると、5千年はわずか100世代なのです。

なので特に体と古い脳(脳幹や大脳辺縁系)は、我々が考えているよりもはるかに現代生活に適応できていないのです。人間とは本来「走る生き物」であり、今もなおそれを前提とした体組成なのです。


つまり、快適に生きたいのであれば「走れ!」と著者は言っているのです。

私は文明の著しい進化に自らの脳や体が追いついていないという氏の理論に妙に納得し、早速ジョギングや散歩を日常生活に取り入れたのでした。

確かにジョギングを終えた後は心が弾み、気持ちが前向きになります。

硬直した脳みそに熱い血が巡り、解きほぐしてくれているような気がします。

ただし効果は約3時間。その後はまた元の状態に。

しかし、運動を終えた後の「本来の自分、自分らしい自分」を知ることで、辛い時にも「いやいやこれは本当の自分ではないから」と自己暗示をかける事が出来るようになりました。

3ヶ月ほど継続すると本来の自分の割合が徐々に高くなっていき、怖さや不安への対処も割とうまく出来るようになりました。


新しい脳と古い脳は、まるで1つの会社の違う部署のようなものです。

大目的は一緒のはずなのですが、そのアプローチや担当が異なっているためにまるで利害を異にしているような振る舞いをすることがあります。

(隣の部署や管理部門、或いは前後工程担当へ不満を持つことはよくありますね)


とかく現代社会は新しい脳への負荷が高くなりがちで、それ故に古い脳がますます見えにくくなっているのではないでしょうか?

心は脳が作り出すものですが、比喩的に心臓を指しているのは言い得て妙な話です。

なぜなら心臓を動かすことで脳に血液が運ばれ、幸福感などの感情が生み出されるからです。


「うつ状態」とは、うまく将来が描けなくなる事(絶望)だと思います。

それは古い脳の暴走です。

そして、その暴走を止められるのは走る事だけというのは面白いですね。


さあ、運動して気持ちいい汗を流しましょう。





2021年7月18日日曜日

某YOUTUBEで初めてDisLike(低評価)を押しました!

人が集まると必ず「モラル」が低下します。

そこに富が生まれ、競争が発生するからです。
競争自体は悪いものでも何でもないのですが、ある時点で必ず一線を越える輩が現れ、そうなるともうブレーキの効かない機関車のごとく暴走合戦へと変化していきます。
なので、「ここを越えたらアウト!」という線引きが社会には必要で、それを最も低コストで実装できるのが「モラル」という暴走抑止装置なのです。
モラルの低い国は成長しません。法律、罰則、その他ルールという高コストの抑止装置を運用しなければならないからです。


前置きはこのくらいにして、

梅雨の居所がよく分からない最近の京都。
私は部屋のデスクトップで某YOUTUBEで上がってくるお奨め動画の斜め見?を楽しんでおりました。
その中にちょっと刺激的なタイトルがつけられた動画を見つけた私は、ほぼ無意識に、極めて自然に右クリックを実行。そのまま観賞モードに入りました。

たしかタイトルは、

―【ドッキリ】〜かかってこい!○○ピンチに○○が〜 ―
のような感じでした。

この動画を簡単に説明すると、

ボクシング元世界チャンピオンの○○さんと街のチンピラとが一触即発!
乱闘に発展か!?
仕掛け人がタイミングよく「ドッキリでしたぁ」
ちゃんちゃん。

みたいな内容です。

普段なら「なんだ、ありがちな設定だな。はいはい」で、私はそのままネットサーフィンの次の波を探しに行くのですが、今回はそのまま立ち去る気持ちにはなれなかったのです。

なぜか?
それが京都の梅雨よりも不快だったからです。

舞台は閑静(と思われる)な住宅街。
そんな場所で轟くチンピラたちの怒号や罵声。
姿を隠す工事現場のおじさんや危険を避ける通行人、さらには不安げに窓から顔を覗かせるご近所の方々、もしかしたら小さい子供もいるかもしれません。
事後には苦情と思われる電話もなっているようでした。
私にはこのドッキリが事前に周知されているとは思えませんでした。

「自分たちの馬鹿を晒すのは勝手だが、周りに迷惑をかけるな!」
これが私の言いたい事です。

しばらく考えて、私は初めて某YOUTUBEでDisLike(低評価)を押しました。
このまま何もなかったことにして立ち去る事が出来なかったからです。
私も社会の一員である以上、モラルの低下を抑止する装置の一つです。
その責任を全うしなくては!(大したことではありませんが……)

最後に、ボクシング元世界チャンピオンの○○さん。

この企画があなたの本意でない事は何となく分かりますが、くれぐれも低俗な馬鹿に利用されないように。
血と汗で築き上げたこれまでの富や名声など、一瞬で消し飛んでしまいますよ。

周りに簡単に利用される有名スポーツ選手。(特にエージェントとか持たない(持てない)マイナースポーツ選手に多いですね)

あぁ、なんだか悲しい。


2021年7月17日土曜日

ゲームにおける世界観とは!Bloodborneの世界観って何?

 ビデオゲームの論評などによく「世界観」という言葉が使われています。

ところでこの「世界観」って一体何の事なのでしょう?

漠然と≒「雰囲気」のような捉え方をされている感もありますが、私は似て非なるものだと考えています。


ビデオゲームは主に以下の3つの要素で構成されていると思います。

1.世界観

2.ストーリー

3.主体的行動(アクション)


1と2は小説や映画などと共通する要素です。

3の主体行動とは、プレイヤーが実際にコントローラーなどの入力デバイスを操作して主体的な行動を起こす行為、すなわちゲームプレイのことで、ビデオゲーム特有の要素です。

これら3つの要素を予算の中で適切に割り振って、1つのビデオゲームが製作されます。

ここでいう適切とは、主にアクションゲームなら3を多く、アドベンチャーゲームなら2を多く、RPGなら1,2,3を割と均等に分配するということです。


さてここで「世界観」の話に戻りますが、私の定義としては以下になります。

「人々(キャラクター)の生活が垣間見え、そこでの自分の生活が想像できる世界」

つまり社会のことです。


ここで1つ例を挙げましょう。

『BloodBorne』というPS4アクションゲームの傑作があります。

ゴシックホラー様式のいわゆる「死にゲー」で、2015年にフロム・ソフトウェアが開発、SIEから発売され世界中でヒットした傑作です。

このゲームは、高い難易度にも関わらず何度死んでもまた挑戦したくなる秀逸なアクションが売りですが、一方でその独特な「世界観」、そして誰しも深く考察したくなる「ストーリー」も評価されております。

改めて3要素で考えてみましょう。

1.世界観

2.ストーリー

3.主体的行動(アクション)


3は間違いなく最高です。コスト(時間、お金、アイデア)もここに一番かかっているはずです。

ただ1と2はどうでしょうか?

上述したように「世界観」とは社会です。

はたして『BloodBorne』の世界の中で自分の生活が想像できるでしょうか?

出来ないと思います。

これが世界観とよく混同される「雰囲気」です。

『BloodBorne』に世界観は無く、ただ雰囲気をうまく演出しているだけなのです。

またこのゲームの「ストーリー」は極限までコストが削られています。

開発者の頭の中にはしっかりとした設定があったとしても、ゲームには最小限の反映しかされていないはずです。


では何故『BloodBorne』は世界観とストーリーも上質に感じるのでしょうか?


1,2,3の質の向上(底上げ)に欠かせない副次要素があります。

「絵」「音」です。

「絵」は主にグラフィック、「音」はBGMや効果音などです。

『BloodBorne』「絵」はもちろんですが、とにかく「音」の演出がうまい。

面白いのは「無音」でさえうまく活用している事です。

あえて無音にすることにより、心地いい靴音は強調され、さらにはボス戦BGMの特異性が際立ってくるのです。


『BloodBorne』3(アクション)に比重を置いた分、いかに1(世界観)と2(ストーリー)を(悪く言うと)ごまかせるか、そしてそれに成功した稀有なゲームだと言えます。


そういえばフロム・ソフトウェアの次回作『ELDEN RING』ですが、聞けばRPGとのこと。

理屈通りなら少なくとも『BloodBorne』よりも1(世界観)と2(ストーリー)にコストがかけられるはずです。

ちなみに、ストーリーにはゲーム・オブ・スローンズ』の原作者であるジョージ・R・R・マーティン(George Raymond Richard Martin)氏が加わるということ。

ごまかし無しのフロム・ソフトウェア「世界観」「ストーリー」

いやぁ、楽しみですねぇ(^.^)/~~~


追記:

ちなみに私が思う「世界観」が素晴らしいゲームは、『ElderScroll スカイリム』と『ウィッチャー3』です。

しかし残念ながらこれらのゲームは3.主体的行動(アクション)をうまくごまかしきれていないのが残念ですが……



2021年7月16日金曜日

明るく輝いていたあの頃の京都。

どんよりとした曇り空。

果たして梅雨はもう明けたのか?それともまだなのか?微妙な感じのここ京都。

私の中では例年祇園祭の宵山から山鉾巡行あたりで梅雨明け、そしていよいよ京都の「暑く重苦しい夏本番」というイメージがあります。

今年も恐らく祭自体は開催されているのだろうと思いますが、世界的にコロナ下という事情もあってもろ手を上げてお祭り気分という雰囲気ではないようです。


思えばこの一年で随分街の様相が変わりました。

特に世界的な観光地である京都においては、神社仏閣などのいわゆる観光スポットから一気に外国人が姿を消し、よく言えば落ち着いた、悪く言うとさびれた雰囲気が漂いつつあります。


ここ数年で嫌と言うくらい耳にした中国語(中国人は声が大きい)や韓国語。

常に短パンTシャツ姿の欧米人の群れ(フランス人は声が大きい)。

今となっては嘘のような光景です。

「うぅん、居たら居たで鬱陶しいけど居なけりゃ居ないで何だか物足りないなぁ」


そんなふうに昔の光景に思いを馳せていると、ふとコロナ前に撮りためた、まだ京都に活気が溢れていた頃の写真が見たくなりました。

例えば伏見稲荷大社。













そして千本鳥居













天候の補正もありますが、なんだか光に溢れているような気がします。

やっぱり人がいないと寂しいですもんね、観光地って。


徒然に他の場所の写真も見てみました。(もしかしたら今後アップしていくかもしれません)

どれを見てもやっぱり「明るく輝いていたあの頃の京都」のイメージです。


そういえばこの一年、全くどこにも行ってないなぁ。

コロナが明けたらまた、きっと( `ー´)ノ


2021年7月15日木曜日

ゴジラ対コングは「忖度」の映画でした。(ネタバレ有り)

少し前の話になるのですが、ゴジラ対コングを映画館で観賞してきましたー。

まず感じたのは、ハリウッド版ゴジラのフォルムと動きが回を重ねるごとに”らしく”なってきたこと。アメリカ人も徐々に学習しているんだなと思うと、妙に感慨深かったです。
ハリウッド初登場イグアナゴジラを考えると、隔世の感を禁じ得ません。

そしてファンなら誰しも気になるのが、”ゴジラ”と”コング”の主役争い。
一体どっちが”キング”の称号を冠するのか!?
(にわか)ゴジラファンの私としても彼らが遭遇するたびにストーリーそっちのけでドキドキしていました。

さて、今となっては記憶も曖昧ですが、遭遇は確か3回。

1回目はゴジラの勝利。
まあこれは舞台が海上だったこともありゴジラが圧倒的に有利でした。
なのでどちらのファンも「う〜ん」という感じだったのではないでしょうか。

2回目は陸上戦で条件としては五分。
これもゴジラの勝利!に見えました(少なくとも私の目にはそう映りました)。
勝負はゴジラがコングの胸を踏みつけてにらみを利かすという、まるで歌舞伎の”見えを切る”ようなポーズで決着しました。
まさに前作の”King Of Mosters”の結果を改めてゴジラファンに提示し、彼らの溜飲を下げさせるシーンだったのではないでしょうか?
これで最強、つまりキングの座はゴジラのものになりました。

しかしここで終わってはコングファンが納得しません。
かと言って3回目がコングの逆転勝利では2回目までのゴジラ勝利は何の意味も持たなくなります。
では、どうやってコングを引き立てるか!?

利用されたのは第三者のメカゴジラ君でした。
ギドラの頭骨から発する精神波?で動く機械仕掛けのゴジラ。

(恐らく)ギドラの精神波に反応したであろうゴジラは、有無を言わさずメカゴジラとのバトルに突入しました。(前作と同じ行動パターンです)

メカゴジラはすさまじいパワーでゴジラを追い詰め、なんとゴジラを瀕死の状態にまで追いつめました。
その時、颯爽と助けに入るのが妙に男前補正されたコング。

ここは非常にナーバスなシーンです。
ゴジラが叶わない相手をコングが倒してしまうとそれはそれでつじつまが合わない(キング=ゴジラ)し、それでもコングの見せ場は絶対に必要だからです。

そこで登場するのが古代ゴジラの尾びれで作った斧(らしき武器)。
斧は瀕死のゴジラから放射能熱線のエネルギーチャージを受けて、光り輝くスーパーウェポンと化しました。
後はコングがそのスーパーウェポンでメカゴジラをめっためたにたたき切るだけです。
結果、コングはラスボスを倒したヒーローの座をものにしました。

めでたしめでたし。
本作においてゴジラはキング、コングはヒーローとして無事それぞれのメンツを立てたのでした。

いやぁ、主役が2人って難しいですねー。
シナリオ、大変だっただろうなぁ。
なにしろゴジラ、コングという2台巨頭に忖度し、さらにそれぞれのファンに対しても忖度し、さらにさらにその上で齟齬の無い面白いストーリーに仕上げなければならなかったのですから。

そういえば本作の興行収入は今どんな感じなのでしょうか?
成功して是非是非これからもゴジラ映画を作り続けていってもらいたいと思います。
やっぱり怪獣映画って観て単純に楽しいですからねぇ(^.^)/~~~


2021年7月14日水曜日

自称”なまぐさ”仏教坊主ごときがYoutubeで偉そうに「生き方」なんぞを語っているのを見ると何だか……

もうほとんど言いたい事をタイトルで語っているのですが、私としてはなんか違和感があるんですよね。 

そもそも私は、日本の仏教を宗教だとは思っていません

あれはあくまで文化の一つであって、そこの坊主は文化施設に勤めるサラリーマン、或いは自営業者です。

なので、あえて”なまぐさ”などともったいぶって自称せずともそのまま”なまぐさ”なのです。

だって宗教と言うには「戒」「律」もほぼありませんし、寺の継承も能力の有無ではなく家督制みたいになっていますし、ようは成立当初の面影をほぼ無くしているのです。

例えば、もともとお金を寄付できない貧しい人々にも食べ物(残飯)で仏の御利益を得られるように始められた托鉢

ところが京都の坊主はあえて(裕福な)人の多い観光地などで威風堂々と立っていたりします。

(一体何がしたいんだか……)


でも私はこれをもって「悪!」などとは思ってはいませんし、むしろ日本だからこそ成し得た偉業だとさえ考えています。


一般的に宗教の大きな役割の一つとして「民衆の教化」というものがありますが、これは社会秩序の維持、道徳教育の発展に大きく寄与しています、というか寄与するように努めなければなりません。

ところが日本においては、”葬式仏教”と揶揄されるようにほとんど葬式でしか出会う機会のない仏教にそのような役割はとても担えません、というか担ってほしくありません。

他の国ならば、これはかなりの危機的状況となるのですが、驚くことに日本においてはそうならないのです。


何故でしょう?


私は天皇の存在が大きいと考えています。

天皇陛下の行動、発言、それらが国民を正しく教化し導いているかぎり、日本仏教は文化のままで何ら問題がないのです。(天皇制を壊せば日本も滅ぶ可能性があるのはこういう意味も含んでいると思います)

なので、彼ら坊主達には一生懸命(商売的目線で)努力し研鑽してもらって、宗教の体をギリギリ崩さず、葬式や観光以外の収入源も模索してほしいと思います。


結論:

自称”なまぐさ”仏教坊主ごときがYoutubeで偉そうに「生き方」なんぞを語っているのを見たら、

「世間知らずのただのオジサンが得意げになんかしゃべってる」

と微笑ましく見守ってあげましょう!


2021年7月13日火曜日

遠雷を聞きながら……人間って。

 遠くの方でゴロゴロッ。暫く間をおいてピカッ!

暗雲を連れてまたゴロゴロ、間髪入れずにピカッ!

辺りは薄闇に包まれ、破れた空から大粒の雨が蒸し上がった地面に向かって真っ逆さま。

夏の定番、夕立

いやぁ、ここまで潔く降ってくれると逆に気持ちが良いですねぇ。

去った後は少し空気がひんやりして、MAXに上がったそれまでの不快指数を多少ではありますが下げてくれます。

冷房の効いた現代の室内では効果のほどは懐疑的ですが、昔はどうだったのでしょう?


雨上がりの空を見上げてふと思いました。

世界って本当に主観だけで出来てるんだなぁ、と。


外と室内、或いは夏と冬、自分の置かれている環境(立場)によって同じ雨でも随分とその印象は違います。また環境は同じでも人によってその印象も千差万別だろうと思います。


ローマ五賢帝の一人マルクス・アウレリウスは言いました「全ては主観である事」


よく自分を変えるのは難しいと言いますが、この考えによれば自分を変えれば世界も変わるのですからチャレンジしてみて損はないように思います。

でもあの西行さんでさえ結局は無理だったのだから、やはりハードルはとてつもなく高いのだろうと思います。

仏教的な観点から「執着を棄てありのままを受け入れる」というやり方も一理あるとは思うのですが、どうせならやっぱりバラ色の世界でバラ色の人生を送りたい!


あぁ、朝起きたらいい感じに変わってないかなぁ、自分。

一度でいいからバラ色の世界を見てみたい!


………


一つ確かな事があります。

こんな奴は一生変われない! 


消えていく遠雷を聞きながらふと思いました。


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2021年7月12日月曜日

ビデオゲームが「高尚」とはならない理由。

 散歩の途中でふと頭をよぎったので考えてみました。

ゲーム業界の方とかが「ゲームはまだまだ映画や小説などと比べて低俗に見られる」などと不満を発しているのを聞いたことがあります。

私はPS4でゲームをよくしているのですが、近年のビデオゲームの進化は著しく、映画や小説なみかそれ以上に心に刺さるストーリーや演出などを体験することも少なくありません。

それでもやはり「高尚」とは感じないのです。

これは一体何故なのでしょうか?


自分なりにたどり着いたのは主に以下の3つ。

1.本能に訴えかける商業的要素が強い。

2.受動ではなく能動、或いは主体性を重視している。

3.環境(テクノロジーなど)の影響を強く受けすぎている。


まず1.本能に訴えかける商業的要素が強い。ですが、

商業的であればあるほど販売対象は広く大きくなり(所謂一般化)、そうなると「爽快感」「征服感」などの割と本能に近い部分を刺激する必要が出てきます。

絵画やクラシック音楽などの観賞でもこのような感覚を覚えることは無くはないのですが、それよりも理性の方に訴えかける割合が高いように思います。

同じ裸でも名画とグラビア写真の違いのように、訴えかける対象の違いがあるのではないでしょうか?

中世の絵画や音楽が特定のパトロンや展覧会などをターゲットにしていれば良かった(商業的にも成立していた)のに比べ、現代社会では一般大衆へとその範囲を広げなければならなくなったという時代背景も大きいと思います。


2.受動ではなく能動、或いは主体性を重視している。

受動的よりも能動的な方が一見「自由度」が高いように思いますが、見方を変えれば逆転するような気がします。

ゲームは自分が主体となって進めているように見えて、実は製作者の決めたレールの上を進まされています。自分が主人公ですが神様は製作者なのです。近年オープンワールドや多数の分岐で複数のエンディングなどを謳うゲームもありますが、やはりレールは決められており、主人公といえどそこから外れることは許されません。

ところが絵画やクラシック音楽などは、一度製作者の手を離れればあとの解釈は自分の主観次第で自由に料理できるのです。

つまり製作者は神にはなれず、一見受け取るだけの鑑賞者が神となれるのです。

小説や映画なども逆に主体性が無いがゆえに解釈の余地を広くとれているのではないでしょうか?


3.環境(テクノロジーなど)の影響を強く受けすぎている。

数百年前の絵画や音楽、或いは数十年前の小説や映画などの名作は現代においてもその地位は揺らぎません。

ところが40年前のビデオゲームに(コレクターという趣味以外)で大枚をはたいてプレイしようという方はほぼいないでしょう。(たとえ名作だとしても)

これはやはり「テクノロジーの進化」の影響が大きいと思います。

テクノロジーの進化により、当時のグラフィックやシステムが余りにも稚拙に感じるのです。

つまりビデオゲームは環境への強い依存によって、評価される期間が余りにも短いのです。

このライフサイクルでは「高尚」になるまでの積み上げが起こりにくく、その結果ビデオゲームはただの消費文化で終わってしまいます。

テクノロジーなどの環境依存を極限まで下げないと「高尚」への階段を登るのは難しいでしょう。


うーん、難しい……


で結局何が言いたいのかと言うと、

私はそもそもビデオゲームに高尚さなどを求めていません。

そして、業界の方々の忸怩たる思いも理解できますが、あまりそこにこだわりすぎないように頑張ってほしい。

この2点です。


近年、まるで映画のようなムービーを多用して「これでもか!これでもか!」と演出を押し付けてくるゲームが増えているような気がするのですが、なんだかゲームが勝手にゲームをしているような、自分だけ置いていかれているような気がして白けてしまう事があります。

「この30分コントローラー全く操作してないよっ!」


「高尚」よりも楽しけりゃいいよね、ゲームなんだから。

今度ドラクエ11でもやってみよう。


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2021年7月11日日曜日

耳が前向きの人は何故か信用できる。

 前から密かに思っていることがあります。

芸能人、政治家、或いは科学者やアスリートなどの有名人(成功者)で、特に長くその分野の第一線で”正しく”活躍している人って、なんだかみんな耳が前向きだな、と。

正面から見て耳の全体が丸見えなんですよね。

こじんまりしていますが私の身の回りにもいます、そういう人。

そして経験上そういう人の性格的特徴として「人の話を素直によく聴く」という認識が私にはあります。

なので最近は、人生における成功のための必須条件の一つはとりあえず「人の話を素直によく聴く」なんだろうなというふうに思っています。

ちなみに私の耳は横向きです。正面から見ると耳の形はほぼ分かりません。

そして残念ですが、人の話を素直に聞けない、いわゆる我が強いタイプに属する人間だということが自分の仮説の裏付けにもなっています。(成功はほぼ無い……無念!)


こう考えると人の顔を見て性格判断などをする人相占いって割と”アリ”なのかななんて思います。

耳だってやっぱり目の前の音を少しでもよく拾う為に前向きになっているとしか思えませんし、動物もその生態や性質によって耳の形や付いている場所とかが違います。

それに、人間だけがこの必然に当てはまらないなんてことは無いと思うので。


という訳で今回何が言いたかったかというと、

耳が前向きの人は割と信用できる(政治家でも)……気がする。


以上、今後さらにリサーチを深めてその信ぴょう性を高めていこうと思います。

(その前に自分のこの性質をどうにかしろ!という話もありますが)



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2021年7月9日金曜日

サッカー選手デンベレの差別発言について。フランス大丈夫か目線。

 今俄かに世間を騒がしているデンベレ選手

日本の宿泊先でゲーム機の修理に奮闘している日本人スタッフをスマホで撮影し、その容姿や使用言語についてあたかも嘲笑しているかのような光景がSNSに公開されましたね。

議論の的になっているのは主にその時彼が日本人スタッフに対して発した言動、

そして今回の炎上を受けて彼がとった謝罪の内容について、だったと思います。

彼の母語はフランス語なので真に適切な日本語訳などは望めないのですが、それでも多種多様な方が様々な捉え方で「あーだこーだ」言い合っています。


私はこの件について「あーだこーだ」言える立場でもありませんし、またそのような能力もありません。更に言うとそもそもデンベレ選手自身を全く知りません。

でも1つだけ強く感じたことがあります。


「フランス大丈夫か!?」


日本プロ野球の『鉄人』衣笠氏は過去のインタビューでこのように語っていたことがあります。


―――私は子供たちに向けて野球をしている。スポーツ選手は常に子供たちのお手本でなければならない―――


有名(特に子供たちに強い影響を与えるような)スポーツ選手は、社会において否応なくその責任を負っていることを氏は理解し、また我々に警告してくれています。

子供には自分の憧れるスターの行動についてその是非を判断する能力はありません。

ほぼ全てを受け入れ、簡単にその方向に引っ張られてしまいます。


こう考えると、デンベレ選手にあこがれるフランスのサッカー少年が将来どのような大人になり、そしてそのような大人がつくるフランス社会はどうなるのか……

は知った事ではありませんが、とにかくもっと精進しろフランス!


じゃ日本は?大丈夫なの?


この問いについて私は最近一つの光明と安心を見出しました。

プロボクシング世界ミドル級チャンピオンの村田選手

彼の某YOUTUBE動画でこんな発言がありました。

「僕は地位や名声そして富については十分に得ることが出来ましたが、未だ精神がそれに追いついておらず未熟なままなのです。そしてそこに不安を感じるのです」


彼はきっと日本の子供の良いお手本となってくれるでしょう!

彼のような存在がある限り、日本もまだまだ捨てたものではありません。



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2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...