2021年8月20日金曜日

「ヒツジ」は美しい。なぜ?

ヒツジが1匹、

ヒツジが2匹、

ヒツジが3匹、

……ヒツジが10匹……

……ヒツジが58匹……。


「ダメだっ、寝れない。ヒツジ数えたら寝れるんじゃないのか?」

私は布団の中で、ある意味ヒツジの呪いにかかっておりました。

「いやむしろ寝れなくなる。頭の中でヒツジがどんどん躍動していって、気が付くと壮大なスケールの大自然が展開されている」


ヒツジを数えると眠りにつきやすくなるという理由の一つとして、ヒツジをあらわす英語が「Sheep」で、それが眠りをあらわす英語「Sleep」に似ているからだというものがあります。なので頭の中で「シープ」を繰り返しているうちに「スリープ」、つまり「寝ろ寝ろ」と自己催眠がかかるという理屈なのですが、どうなんでしょう?

少なくとも、日本語では何の意味も無さそうです。


日本語、特に漢字におけるヒツジの意味としては全く別のものがあります。

「羊」

これに「大きい」を合成すると「美」。

羊は美しい。

なぜ?


「論語」によると、中国において「羊」は宗教的儀式で供物として捧げられていたようです。つまり人間の為に、その命を(強制的に)差し出していたのです。

ちなみに、羊に我を合成すると「義」。

まさに羊とは「犠牲」の動物であり、そして大きな犠牲は「美しい」のです。

要約すると「他者の為に自らの命を差し出す」、この究極の利他的行動こそが「美」であると。


サマセット・モームの小説「月と6ペンス」の主人公は、人の決めた善悪にこだわることなく究極の「美」すなわち「神の目」を追い求めました。

彼との会話に以下のようなものがあります。


「何をしても、全て一般的なルールからはみ出さないように行動しなさい」

「聞いたことも無いが、くだらん」

「カントの言葉ですよ」

「誰の言葉か知らんが、なんにしてもくだらん」


この小説では美について以下の階層構造が垣間見れます。






美は善悪を包含し、その概念を超えたもの。

つまり、善とか悪とかいうカテゴリーで綺麗に分割できないものが美であると。


論語の羊でいうと、羊を殺すことだけをみれば悪ですが、人の幸福を願う祷りは善です。

祷りの為に羊を捧げるという行為全体でみれば、それが単純に善悪では分けられないものになるのです。


ここで「美」の究極の事例を紹介しましょう。

「神風特攻隊」です。

自殺は悪です。もちろん戦争も(ある意味)悪です。

当時の軍令部の態勢とか、世論の在り方など色々あるでしょう。

しかし、命を投げ出して祖国を救うその志は大いなる善に違いありません。

まさに究極の利他的行動であって、究極の自己犠牲です。

美の定義として、ここまで述べてきた事が全て当てはまります。

ゼロ戦が敵艦船に急降下突撃する様をみて「美しい」と感じるのは私だけではないと思います。これがもしドローンだったらこうは感じないはずです。


神風と同じような行為として近年のイスラム原理主義者による自爆テロなどが挙げられますが、これは美ではありません。

根本的に異なっている部分があるのです。

自己を犠牲にはしていますが、その動機は決して利他的ではありません。

イスラムの死後の世界は、生前ジハードを為したものにとって桃源郷であり極楽浄土です。

飢えの無い絢爛豪華な世界で、美しい処女(少女)と毎日セックス。

敬虔な信者の動機としては十分です。

終末の後、自分は天国に行けますようにと祈るキリスト教や、南無阿弥陀仏と、死後極楽浄土へ往生できるよう祈る日本仏教もさして違いはありませんが。


利他的行動や自己犠牲は「愛」ととることも出来ます。

子を思う母の愛とか言いますが、それは美でしょうか?

日本の愛と違って古代ギリシャには4つの愛がありました。


1.agape    アガペー    神の愛、利他的な愛。

2.philo    フィロ    広く「好む」という意味

3.storge    ストルゲー    親子の愛、家族愛

4.eros    エロース    性愛、恋愛


もちろん最上の愛は1です。

3と4は低く見られます。

なぜなら、これらは人間だけでなく動物も普通に持っているからです。

すなわち古代ギリシャ的に捉えると、母の愛は美とはならないのです。


「美」について(たしか)幸田露伴はこう言いました。


美とは人間の主観であり、故に人間そのものである。

人間の数だけ美が存在すると言っても過言ではない。

ところで、例えば誰かにこれまでのあなたの人生、あなたの存在意義、あなたの抱く理念等、これらについて何かしらの手段を使って簡潔に説明して下さい、と言われた時、我々は一体どうするだろう?

画家はそれを一枚の絵で表そうとしたのだ。

それには本能(欲や情念)への隷属から自分を解放し、ただ理知(神)の目を持って自己を客観視する必要があった。

それは恐ろしく辛い作業である。

ただ理性と情熱だけをもって、欲を殺し、社会から孤立し、ただ自らの内に入ってそこで掴んだものを絵に写し取る。

そのような神に近い行為を持ってしなければ自分の美を外界で再現することは出来ないのだ。


そういえば村上春樹の小説に「羊をめぐる冒険」というものがあります。

彼はこの小説を書くにあたって次の動機を挙げています。

「まず第一に主人公が孤独な都市生活者であること。それから、彼が何かを捜そうとしていること。そしてその何かを捜しているうちに、様々な複雑な状況に巻き込まれていくこと。そして彼がその何かをついに見つけたときには、その何かは既に損なわれ、失われてしまっていることです。」


彼が羊や美を意識していたのかどうかは知るところではありませんが、人知から離れたところで何かを求め、同時に何かを失うというのは、美の崇高さと儚さに妙に一致するところがあります。


本来芸術家の追い求めているものはこれほど過酷なものであって、ほぼ一生涯をかけても辿りつけない境地にあるものなのです。

また、辿りついたところで誰も理解してくれないかもしれません。

いや、人の理解など求めてはいけないのでしょう。

それでも人は美を追求したくなるのです。

前回の記事で紹介した「探求心」の源、ドーパミンのせいでしょうか?

とにかく「知りたい」、ゆえに「探す」のです。

1,000匹目のひつじはどこにいるのか?

いや違う!

美はどこにあるのか、を。


それではっ!


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