「山月記」中島敦を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。
まずは大ざっぱにあらすじから。
幼少時から俊英として名を鳴らした李徴は、賤しい官吏の下で働くことに嫌悪を感じ、詩で名を成そうと思ったが、上手くいかなかった。
生活のため結局彼は下級官吏に職を求めることになるのだが、ある日、職務中に忽然と姿を消してしまった。
彼の旧友である袁餐が、職務の途中に虎が出没するという噂の道を通りかかった。すると草むらから突然咆哮が聞こえた。
袁餐はそれが李徴だということに気付き、二人はこれまでことを語り合った。
李徴は自分が虎になった理由を「自分の自尊心が傷つくことを恐れる羞恥心ゆえ」と語り、自分の詩と残した妻子を袁餐に託し、再び草むらの中に姿を消した。
と、まあこんな感じです。
李徴は人間だったころ、他の人と交流したり、詩の師匠に師事したりすることを避けてきたのですが、それはただ尊大で他人を見下していたというよりは、高すぎる自尊心のあまり自分に対する批判や否定に対する羞恥心、つまり自分が傷つくことが怖かったからという事です。
私はこの物語を読んで、なにか物足りないと思いました。
なぜ李徴は死について全く言及しないのか?
なぜ自殺、或いは友に自分を殺してくれと泣きつくような場面が無いのか?と思いました。
私は自尊心というものは決して傷つかないものだと思っています。まして羞恥心など伴うはずはありません。
私は李徴の言う自尊心とは、「虚栄心」のことだと思います。
自尊心と虚栄心の違いを簡単に説明すると、
その発現に第三者が絡んでいるかどうかです。
あるいは生理学的に言うと、それが(海馬や偏桃体など)本能に近いものなのか?それとも(大脳新皮質など)理性によるものなのか?ということです。
例えば、
1.「頭や歯が痛い、何を置いてもまず何とかしないと」これは自尊心です。
2.「お腹がすいて死にそう、何を置いてもまず何か食べないと」これも自尊心です。
3.「発表会でいいとこを見せないと」これは虚栄心です。
4.「私の考えをアピールしたい」これも虚栄心です。
人間は太古の昔から集団で生活する動物です。
集団に属するためには、いかに自分が役立つ人間かということをアピールしなければなりません。周囲に認めてもらえなければ居場所は与えられないのです。
恐らく虚栄心はこの集団行動によって生まれたのではないでしょうか?
人は誰でも他人に自分の力量を突きつけられることに恐れを抱きます。
自分可愛さに自分の能力(容姿なども)を過大評価するものです。
属する社会或いはグループで不必要の烙印を押されることは、そのまま死に直結するのですから、3.や4.などのいわゆる第三者に向けられる虚栄心とか承認欲求などは特に人間に強く発現する感情なのだと思います。
これとは異なり、1.や2.は人の関与に左右されません。
まさに意図せず自分が自分を守る(尊ぶ)感情、というか行動です。
ゆえに自尊心は(うつなどの病気以外は)傷つかないのです。
……と私は思っています。
その虚栄心の強さゆえ詩に逃げた李徴は、そこでも不必要の烙印を押され社会から抹殺されました。
つまり、社会動物である人間として死んだのです。
そして虎になりました。
なぜ虎になったかって?
虎は一人でも生きていける動物だからです。
結局、李徴は救われたのです。
ここまで考えて、ようやく私は最初の疑問の答えを見つける事が出来ました。
これは人間の(社会的)死についての物語であり、そして救われる方法は虎になるしかない(つまり現実には処方無し)ということを。
それではっ!
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