「 蜘蛛の糸」を朗読する機会があったので、改めてこの名作について考えてみました。
まずあらすじを要約すると、
ある朝、お釈迦さまは蓮池の下の地獄で苦しむ極悪人カンダタに目を留めました。
お釈迦さまは彼に地獄を抜けるチャンスを与えようと思いました。
何故なら彼は、生前に一度だけ”蜘蛛を踏み殺そうとしたのを思い留まった”という善行?を為していたからです。
はるか上空から降りてくる蜘蛛の糸を見たカンダタは、さっそくそれに掴まって登りはじめました。しかし、同時に大勢の罪人が下に続いてくる光景と、掴まっている糸の心許なさから、カンダタは「これは俺のだ!降りろ」と叫びました。
その刹那、握っていた糸はぷつりと切れ、カンダタは元の地獄へ堕ちていきました。
という感じです。
一見「エゴはダメだよ!」という教訓として受け取られることの多い作品です。
しかし私は本作にそれだけではない何かを常々感じていました。
例えば、
「もしカンダタがあのセリフを吐かなかったら、本当に糸を登って地獄から抜けられたのか?更に、その場合一緒に登ってきた罪人たちはどうなるのか?みんなハッピー、天国にGo!となるのか?」
或いは、
「ここで登場するお釈迦さまは本当にお釈迦さまだったのか?そんな気まぐれに地獄から罪人を救ったりするだろうか?」
など、実に様々な妄想、空想が膨らみます。
本来仏教は因果応報、犯した罪は償わなくてはならず、善行によって減免されたりはしません。
日本仏教のとある宗派のように「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで救われます!とは決してならないのです。
言霊による救済とは、「真言」つまり密教由来のこと。
あくまでも布教目的を主とした販促手法です。
(まあ、これによって実際(精神的に)救われる人もいますし、なにより現在まで宗教として生き残っている訳ですから否定はしませんが)
実は芥川の「蜘蛛の糸」には元ネタがあります。
19世紀ヨーロッパのポール・ケイラスという宗教哲学家が書いた仏教説話「Karma」の中の一節で「The Spider-web」というお話しです。
芥川版と話の筋に大した違いはありませんが、私には根本的に異なる部分があるように思えました。
それは「糸が切れた理由」です。
芥川版では、カンダタの罪人達に対するエゴイズム「これは俺のだ!降りろ」が決め手になったように読めますが、元ネタの方では「掴まっている糸の心許なさ」を感じた事が決め手になっているように思えるのです。
つまり、カンダタは「あのお釈迦さまが降ろした糸」に不信を抱いたのです。
宗教の本質である「無条件の信仰こそが救済への道」であることに従えなかったのです。
私は、こちらの解釈の方がより仏教という宗教の本質に近いような気がします。
ゆえに芥川版のほうは、宗教説話を童話的に書き起こした分、宗教味が薄れています。
まあ、それ故に教科書にも載るような道徳的名作になっている訳なのですが……。
こう考えると、本作を読んで私が抱いた様々な妄想、空想も、何となく収束してくるような気がします。(しかしその分、物語、小説としての魅力は半減してしまいます)
考察の余地をあまり与えてくれない元ネタと考察し放題の芥川版。
ほぼ同じ内容にもかかわらずこれだけの差を生む不思議。
芥川龍之介が敢えてその最も宗教臭い部分を廃したのかどうかは知りませんが、とにかく彼の小説家としての感性には驚かされるばかりです。
それではっ!
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