2021年9月5日日曜日

「山月記」を読んで - 彼はなぜ虎になったのか?

 「山月記」中島敦を朗読したので、ここに感想及び考察を述べたいと思います。


まずは大ざっぱにあらすじから。


幼少時から俊英として名を鳴らした李徴は、賤しい官吏の下で働くことに嫌悪を感じ、詩で名を成そうと思ったが、上手くいかなかった。

生活のため結局彼は下級官吏に職を求めることになるのだが、ある日、職務中に忽然と姿を消してしまった。

彼の旧友である袁餐が、職務の途中に虎が出没するという噂の道を通りかかった。すると草むらから突然咆哮が聞こえた。

袁餐はそれが李徴だということに気付き、二人はこれまでことを語り合った。

李徴は自分が虎になった理由を「自分の自尊心が傷つくことを恐れる羞恥心ゆえ」と語り、自分の詩と残した妻子を袁餐に託し、再び草むらの中に姿を消した。


と、まあこんな感じです。


李徴は人間だったころ、他の人と交流したり、詩の師匠に師事したりすることを避けてきたのですが、それはただ尊大で他人を見下していたというよりは、高すぎる自尊心のあまり自分に対する批判や否定に対する羞恥心、つまり自分が傷つくことが怖かったからという事です。

私はこの物語を読んで、なにか物足りないと思いました。

なぜ李徴は死について全く言及しないのか?

なぜ自殺、或いは友に自分を殺してくれと泣きつくような場面が無いのか?と思いました。


私は自尊心というものは決して傷つかないものだと思っています。まして羞恥心など伴うはずはありません。

私は李徴の言う自尊心とは、「虚栄心」のことだと思います。

自尊心と虚栄心の違いを簡単に説明すると、

その発現に第三者が絡んでいるかどうかです。

あるいは生理学的に言うと、それが(海馬や偏桃体など)本能に近いものなのか?それとも(大脳新皮質など)理性によるものなのか?ということです。

例えば、

1.「頭や歯が痛い、何を置いてもまず何とかしないと」これは自尊心です。

2.「お腹がすいて死にそう、何を置いてもまず何か食べないと」これも自尊心です。

3.「発表会でいいとこを見せないと」これは虚栄心です。

4.「私の考えをアピールしたい」これも虚栄心です。


人間は太古の昔から集団で生活する動物です。

集団に属するためには、いかに自分が役立つ人間かということをアピールしなければなりません。周囲に認めてもらえなければ居場所は与えられないのです。

恐らく虚栄心はこの集団行動によって生まれたのではないでしょうか?

人は誰でも他人に自分の力量を突きつけられることに恐れを抱きます。

自分可愛さに自分の能力(容姿なども)を過大評価するものです。

属する社会或いはグループで不必要の烙印を押されることは、そのまま死に直結するのですから、3.や4.などのいわゆる第三者に向けられる虚栄心とか承認欲求などは特に人間に強く発現する感情なのだと思います。


これとは異なり、1.や2.は人の関与に左右されません。

まさに意図せず自分が自分を守る(尊ぶ)感情、というか行動です。

ゆえに自尊心は(うつなどの病気以外は)傷つかないのです。


……と私は思っています。


その虚栄心の強さゆえ詩に逃げた李徴は、そこでも不必要の烙印を押され社会から抹殺されました。

つまり、社会動物である人間として死んだのです。

そして虎になりました。


なぜ虎になったかって?

虎は一人でも生きていける動物だからです。

結局、李徴は救われたのです。


ここまで考えて、ようやく私は最初の疑問の答えを見つける事が出来ました。

これは人間の(社会的)死についての物語であり、そして救われる方法は虎になるしかない(つまり現実には処方無し)ということを。


それではっ!

■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年9月4日土曜日

SLEEP「睡眠の技術」その他トピックと読了後感想!

 SLEEPを読了し、私はいつものように付箋部分をノートに書きだす作業に取り掛かりました。

「あれ、出ない」

どうやら、私の愛用しているボールペン「uni JetStream」のインクが切れたようでした。

「なんてこった!すぐに買いに行かないと」

今の私は、これ以外のペンでは字が書けない体になっていたのです。


近所の雑貨屋に走った私は、そこで相変わらずその威厳を保っているJetStreamを見つけました。

確か値段は130円ほど。そして替え芯は80円ほどだったと思います。


私曰く?このペンは文房具大国「日本」の名作だと思っています。

一見シンプルなボールペンですが、実はそんじょそこらの国には真似できないノウハウが詰まっています(と勝手に思っています)。


・限りなく真球に近いボールペン先。

 これは、日本の高品質な工業用ベアリング技術にも通じるところがあります。精度が甘いと、綺麗に転がらない、インクが上手く乗らないなど、そのまま書き心地に直結する不具合が出てきます。

・インクの成分

 よく分かりませんが、恐らく色合いや粘性などの最適化が図られており、化学的なノウハウが詰まっているように思います。

・グリップ

 ラバーゴムの厚み、そして感触や質感など、とても書きやすく長時間握っても疲れにくい設計になっています。


ざっと挙げてもこれらの技術、ノウハウが詰め込まれています。

そして最も重要なのが、これらのスペックをこの値段で生産出来る事。

つまり、コストパフォーマンスに優れている事です。


たかがボールペンといえど侮れません。

そこには恐らく長年に渡る研究開発の積み重ねが集積しているはずだからです。


という訳で、この新しいJetStreamで記したノートを元に、SELLP「睡眠の技術」を締めくくりたいと思います。


健康診断などで脳波の測定をした方も多いと思いますが、脳波には主に以下のようなレベルがあるそうです。


1.ベータ波(15-40Hz) … 目覚めている時

2.アルファ波(9-14Hz) … リラックス、あるいは集中の状態

3.シータ波(4-8Hz) … 深い瞑想、浅い眠り(レム睡眠)。直感力が情報処理能力が高まる。

4.デルタ波(1-3Hz) … 深い眠り。体の修復、再生は主にこの状態の時に行われる。

()内は振動数(周波数)で、高いほど活動的な状態です。


なぜ脳波の話が出てくるかと言うと、もし起きている時に自分の意思で3.や4.の状態に自由に持って行けるようになれば、かなり心身の健康に寄与できるからです。

そしてその方法として紹介されていたのが、マッサージマインドフルネスです。


・マッサージ

 5,000年以上の歴史を持ち、世界中にその記録があります。

古代ギリシャの医師ヒポクラテスは

「医師は様々な経験を積まないといけないが、とりわけマッサージは必須である」

と言ったそうです。現代と違って、当時のマッサージは基礎医学だったようですね。

また、マッサージの中には東洋的治療法として「ツボ押し」があります。

その中でも特に不眠に効くツボが「神門」です。






実験では、不眠症患者の尿に含まれるメラトニンの代謝物の量が正常なレベルに増えていったそうです。

(メラトニンは主に腸内で生成されて、眠りのサインを体に送るホルモンで、年齢と共にその生成量は減少します)

自分で押すことが出来るので、就寝前に押してみるといいでしょう。


・マインドフルネス

いわゆる瞑想ですが、ただボーッとしているのではなく、「今に集中する」ことに意識を向けます。

これによって、気分を良くするホルモンや鎮静作用をもたらすエンドルフィンを増やし、逆にコルチゾールなどのストレスホルモンを減らし、さらに体内の炎症を抑える効果まであるそうです。

達人になると瞑想中にデルタ波が現れるそうで、これは深い眠りの状態と同じです。(ほんとにただ熟睡しているだけなのでは?という疑問も抱きましたが)


著書にはマインドフルネスの事についてはさほど詳しく書かれていなかったので、また機会があれば関連する書物を読んでみたいと思いました。


以上、何回かに分けてSLEEP「睡眠の技術」について紹介しました。

結論として知っている事でも、「なぜ?どうして?」が理解出来れば、誤って採ったり使ったりする可能性も無くなると思います。

なので、今後さらに我々の知ってるようで知らない我々自身のことについて、様々な情報や知識を取り入れていきたいと思います。


それではっ!

■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2021年9月1日水曜日

「蜘蛛の糸」芥川龍之介、を読んで思う - 糸が切れた理由とは!

「 蜘蛛の糸」を朗読する機会があったので、改めてこの名作について考えてみました。

まずあらすじを要約すると、


ある朝、お釈迦さまは蓮池の下の地獄で苦しむ極悪人カンダタに目を留めました。

お釈迦さまは彼に地獄を抜けるチャンスを与えようと思いました。

何故なら彼は、生前に一度だけ”蜘蛛を踏み殺そうとしたのを思い留まった”という善行?を為していたからです。

はるか上空から降りてくる蜘蛛の糸を見たカンダタは、さっそくそれに掴まって登りはじめました。しかし、同時に大勢の罪人が下に続いてくる光景と、掴まっている糸の心許なさから、カンダタは「これは俺のだ!降りろ」と叫びました。

その刹那、握っていた糸はぷつりと切れ、カンダタは元の地獄へ堕ちていきました。


という感じです。


一見「エゴはダメだよ!」という教訓として受け取られることの多い作品です。

しかし私は本作にそれだけではない何かを常々感じていました。


例えば、

「もしカンダタがあのセリフを吐かなかったら、本当に糸を登って地獄から抜けられたのか?更に、その場合一緒に登ってきた罪人たちはどうなるのか?みんなハッピー、天国にGo!となるのか?」

或いは、

「ここで登場するお釈迦さまは本当にお釈迦さまだったのか?そんな気まぐれに地獄から罪人を救ったりするだろうか?」

など、実に様々な妄想、空想が膨らみます。


本来仏教は因果応報、犯した罪は償わなくてはならず、善行によって減免されたりはしません。

日本仏教のとある宗派のように「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで救われます!とは決してならないのです。

言霊による救済とは、「真言」つまり密教由来のこと。

あくまでも布教目的を主とした販促手法です。

(まあ、これによって実際(精神的に)救われる人もいますし、なにより現在まで宗教として生き残っている訳ですから否定はしませんが)


実は芥川の「蜘蛛の糸」には元ネタがあります。

19世紀ヨーロッパのポール・ケイラスという宗教哲学家が書いた仏教説話「Karma」の中の一節で「The Spider-web」というお話しです。

芥川版と話の筋に大した違いはありませんが、私には根本的に異なる部分があるように思えました。


それは「糸が切れた理由」です。


芥川版では、カンダタの罪人達に対するエゴイズム「これは俺のだ!降りろ」が決め手になったように読めますが、元ネタの方では「掴まっている糸の心許なさ」を感じた事が決め手になっているように思えるのです。


つまり、カンダタは「あのお釈迦さまが降ろした糸」に不信を抱いたのです。

宗教の本質である「無条件の信仰こそが救済への道」であることに従えなかったのです。

私は、こちらの解釈の方がより仏教という宗教の本質に近いような気がします。

ゆえに芥川版のほうは、宗教説話を童話的に書き起こした分、宗教味が薄れています。

まあ、それ故に教科書にも載るような道徳的名作になっている訳なのですが……。


こう考えると、本作を読んで私が抱いた様々な妄想、空想も、何となく収束してくるような気がします。(しかしその分、物語、小説としての魅力は半減してしまいます)

考察の余地をあまり与えてくれない元ネタと考察し放題の芥川版。

ほぼ同じ内容にもかかわらずこれだけの差を生む不思議。


芥川龍之介が敢えてその最も宗教臭い部分を廃したのかどうかは知りませんが、とにかく彼の小説家としての感性には驚かされるばかりです。


それではっ!

■ ランキングに参加しています。良ければポチッと。

ブログランキング・にほんブログ村へ

YouTube Twitter 始めました。良ければクリックを。


2022年、明けましておめでとうございます

細雪の舞うここ京都。 つい先ほど、私は家から歩いて5分の神社で2022年の初詣をして参りました。 コロナ過という事もあって例年の賑やかさは有りませんが、それでもやはり日本人。 恐らくご近所と思われる方々が、本殿の前に列を作っていました。 時計を見ると0時2分前。 しばし小雨まじり...